【つの版】度量衡比較・貨幣242
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

◆六◆
◆角◆
京極六角
復習しましょう。近江源氏の佐々木氏のうち、六角氏は嫡流宗家を継いで江南6郡を、京極氏は江北6郡を相続しました。しかし鎌倉幕府滅亡と南北朝の動乱において、京極道誉は足利尊氏と義詮の側近として活躍し、六角氏の当主氏頼に娘を嫁がせ、事実上近江一国を支配下におさめました。一時は氏頼に代わって道誉が佐々木氏の宗主とされたほどでしたが、結局嫡流宗家の地位を得ることはかなわず、氏頼が近江守護職となります。ただし京極氏は引き続き江北6郡の領主として領内に守護使不入の権利を持っており、六角氏は江南6郡を治めるにとどまっています。

両家の所領の境となるのが、愛知郡と神崎郡の境をなす愛知川です。京極氏の所領は伊勢・美濃・越前・若狭・丹波に接し、六角氏の所領は伊勢・伊賀・山城に接し、東国・北陸と通じる水陸の要衝を抑えた京極氏の方が比較的有利ではあります。対する六角氏は比叡山や京都の朝廷・幕府という諸勢力と近すぎるため、文化度は高くても政治的には不利でした。
京極高秀・高詮と六角氏頼・満高
貞治6年(1368年)足利義詮が没し、73歳の京極道誉は子の高秀に家督を譲って隠居します。出雲・隠岐・飛騨の守護職も高秀が相続しますが、近江守護職は六角氏頼が継いでいます。ただし氏頼の嫡男義信は早世しており、次男も幼かったため、氏頼は3年前に高秀の嫡男高経/高詮を養嗣子としていました。
京極氏の家督は高詮の弟が継ぐことになり、六角氏は京極氏に併合されるはずでしたが、氏頼には応安2年(1369年)に亀寿という男子が生まれます(4年前とも)。母は京極氏ではなく側室の藤原氏ですが、養嗣子が実子に優先するのは問題視され、翌年氏頼が没すると跡目争いとなります。
幼い足利義満の代わりに管領として実権を握る細川頼之は、高詮が18歳であるのに対し亀寿は幼少であるから、亀寿が成人するまで後見役となるよう裁定し、近江守護職を高詮に与えます。安心した道誉は3年後に世を去りますが、義満は亀寿を寵愛して7年後の永和3年(1377年)に元服させ、偏諱を授けて六角満高と名乗らせます。そして頼之に命じて高詮から近江守護職を取り上げ、満高に与えてしまいます。
怒った高秀と高詮は、2年後に諸将と結託して細川頼之を罷免するよう要求して近江で挙兵します。義満らは六角氏に鎮圧を命じますが幼い満高にはどうにもできず、やむなく要求をのまされます(御所巻)。しかし京極氏は罰としてすべての守護職を取り上げられ、出雲と隠岐の守護職は山名氏に与えられ、2年後に飛騨守護職だけ返還されます。高秀は明徳2年(1391年)に64歳で没し、高詮が家督を相続しました。
同年末に山名氏清らが義満に反旗を翻し京都へ攻め寄せると、京極高詮はこれを迎え撃って功績をあげ、翌年出雲・隠岐守護職を取り戻します。また応永元年(1394年)には京都の治安維持等を担う侍所頭人(所司)に任じられ、京極氏は赤松・一色・山名の三家とともに御相伴衆かつ侍所頭人職を担う室町幕府の家格「四職」のひとつに数えられることになりました。義満が出家するとともに出家して浄高と名乗りますが実権は握り続け、応永の乱では大内氏に呼応した弟秀満を撃破し、戦後に石見国と山城国の守護職を一時的に授かっています。
高詮の弟の高久は近江国犬上郡甲良荘尼子郷に館を構えて尼子氏の祖となり、近江守護代をつとめましたが、明徳2年に若くして没していたため嫡男の詮久が跡を継いでいました。出雲守護職を回復した高詮は詮久の弟持久を出雲守護代に任じ、月山富田城に入らせています(出雲尼子氏)。高久の弟の秀益は出雲国八束郡宍道郷を授かり、宍道氏の祖となりました。
京極高光
京極高詮は応永8年(1401年)に49歳で没し、子の高光が27歳で跡を継ぎます。彼は父と同じく出雲・隠岐・飛騨守護を兼ね、義満没後の応永16年(1409年)には侍所頭人となります。応永18年(1411年)に飛騨国司の姉小路尹綱が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、弟の高数を総大将として兵を出し制圧しています。この時に被官の三木氏(近江国甲賀郡三木出身)を飛騨守護代として派遣し、以後三木氏はこの地位を世襲しました。
六角満高は息子の満綱が義満の娘を娶り、義満の在世中は寵愛されましたが、義満の子義持は父と仲が悪く、満高は冷遇されました。飛騨の乱の時には出兵を拒んだため一時近江守護職を罷免されています。満高は応永23年(1416年)48歳で没し、満綱が16歳で跡を継ぎました。
万人恐怖
京極持高と六角満綱
応永20年(1413年)京極高光は39歳で没し、嫡男持高が14歳で家督を継ぎました。若年のため叔父の高数が輔佐にあたり、高数は応永28年(1421年)には侍所頭人となって山城守護を兼ね、持高も応永31年(1424年)から正長元年(1428年)まで山城守護を兼ねていますが、侍所頭人にはなれませんでした。
また正長元年には近江国坂本や大津の馬借(運送業者)が徳政(債務帳消し)を求めて土一揆を起こし、金貸しを行っていた酒屋・土倉・寺院を襲撃する事件を起こしています。これは京都・奈良・河内・播磨など畿内近国に波及し、幕府を動揺させました。
新たに将軍となった足利義教は義満の子で義持の弟にあたり、幼い頃に出家させられて義円の法名を名乗り、応永26年(1419年)から2年間ほど天台座主もつとめていました(次代は義満の甥の持弁)。元天台座主が還俗して征夷大将軍になった前例は護良親王がいますが、足利将軍家では前例がありません。そのため権威の面で問題があり、鎌倉公方の足利持氏が将軍位を狙うほどでした。義教はこれに対抗するためもあって父義満の政策を踏襲し、中央集権化をはかっています。
また還俗後に弟の義承を天台座主とし、延暦寺の勢力を取り込もうとしていますが、永享5年(1433年)7月には延暦寺より「山門奉行の飯尾為種、将軍近習の赤松満政、聚院猷秀らに横領や収賄などの不正があった」との訴訟があり、やむなく義教は譲歩して関係者を処分しています。ところが山門の大衆は勝訴の勢いに乗じ、8月には強訴に同調しなかったとして園城寺を焼き討ちします。激怒した義教は11月に諸将と園城寺の衆徒に命じて比叡山を包囲させ、延暦寺は首謀者を隠居させて和睦しています。
翌永享6年(1434年)7月、「延暦寺が足利持氏と通謀し、義教を呪詛している」との噂が流れ、比叡山西坂本の雲母坂に堀や柵を設けているとの情報がもたらされます。8月、義教は京極持高と六角満綱に命じて近江国内の延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯の道路や水路を封鎖して物資の流入を妨げさせました。延暦寺は神輿を奉じて強訴せんと入洛しますが撃退され、11月には東坂本にも放火されて住民が山上へ避難する有様となります。
管領細川持之ら幕府宿老の執り成しにより義教は延暦寺と和睦し、没収した寺領を返還していますが、翌年2月に山門使節3名を招いて殺害しました。怒った山徒(山法師)らは抗議のため根本中堂に火をかけ、24人が炎に身を投げて死に、京都の人々を恐れさせます。義教は「比叡山について噂する者は斬る」と触れを出し、実際に商人を処刑して晒したため、「万人恐怖」したと当時の日記に書かれています。義教が自ら延暦寺を焼いたわけではありませんが、恐怖した延暦寺は幕府に屈服し、勢力を削減されたのです。
京極高数
京極持高は永享11年(1439年)に父と同じ39歳で没し、子がなかったので叔父の高数が家督を相続しました。ところが2年後の嘉吉元年(1441年)6月に赤松満祐が自邸に招いた足利義教を殺害し、多くの幕臣らも死傷する大事件が勃発します(嘉吉の乱)。高数は乱戦の中で討ち取られ、家督は持高の弟の持清が相続しました。高数の長男教久は別家(加州家)をたてて持清を輔佐し、次男の高忠は京極氏被官の多賀氏を相続しています。
京極高氏/道誉―高秀―高詮―高光―持高
高数 持清
六角満綱は無事でしたが、同年8月にはまたも近江坂本で馬借が徳政令を求めて土一揆を起こし、満綱はこれを抑えるためやむなく徳政令を発布しました。しかし馬借の債権者である延暦寺はこれに反対し、一揆は地侍などが合流して数万人に膨れ上がり、京都になだれ込んで組織的な掠奪や破壊をほしいままにします。満綱は延暦寺から一揆の首謀者とみなされ、京都の屋敷を襲撃されて近江へ逃げ戻り、責任を取らされて近江守護を解任されます。家督と近江守護職は子の持綱が相続しました。
六角氏頼―満高―満綱―持綱
六角騒乱
京極持清
京極持清は道誉の玄孫にあたり、兄持清が没した時は33歳でしたが、叔父高数が年長ゆえとして家督を継ぎました。2年後に高数が死亡すると家督を継ぎ、侍所頭人に任じられ嘉吉の徳政一揆を鎮圧、出雲・隠岐・飛騨の守護職を相続しました。管領細川持之は持清の姉妹を妻としています。
六角時綱・久頼・政堯・行高
文安元年(1444年)、近江守護の六角持綱が家臣団から無道を訴えられ、弟の時綱が一揆を結成した家臣団に擁立されて反乱を起こします。翌年持綱は父満綱とともに自害に追い込まれたため、幕府は満綱の三男で相国寺の僧侶であった周恩を還俗させて久頼と名乗らせ、京極持清とともに時綱一派を討伐させました。時綱は翌年討ち取られ久頼が家督を継ぎますが、六角氏の権力は大幅に減退し、京極氏や近江守護代伊庭氏(佐々木氏支流)の権勢が強まります。康正2年(1456年)10月に久頼は憤死し(自害とも)、子の亀寿は幼少ゆえ従兄(時綱の子)の政堯が後見人となります。
2年後には幕命により近江守護職も政堯に授けられますが、彼は守護代の伊庭満隆と対立し、長禄4年(1460年)満隆の子を殺害します。幕府は政堯を追放して亀寿を当主に復帰させ、亀寿は元服して行高と名乗りました(父は久頼の子政頼とも)。間もなく京極持清は子の勝秀に家督を譲り、出家して生観と名乗りますが、実権は握り続けています。行高は伊庭満隆の子貞隆とともに京極氏と対立し、応仁の乱では西軍に与しました。これに対して政堯は東軍に与し、行高と争い始めます。
六角氏頼―満高―満綱―持綱
時綱―政堯
久頼―行高
京極持清/生観は甥の細川勝元に与して東軍につき、子の勝秀、従弟の多賀高忠、六角政堯らとともに行高を攻撃します。観音寺城に籠った行高らは抵抗しますが打ち破られ、文明元年(1469年)持清は近江守護に任じられますが、翌年64歳で病没します。嫡男勝秀は2年前に病没しており、残された子らはまだ幼く、一族や有力家臣同士で跡目争いが勃発します。
京極騒乱
京極持清―勝秀―孫童子丸
政光 乙童子丸
政経
勝秀の三弟の政経は、近江守護代の多賀高忠(持清の従兄弟)とともに勝秀の嫡男孫童子丸を擁立します。これに対し政経の兄の政光は、飛騨守護代多賀清直とともに孫童子丸の庶兄・乙童子丸を擁立しました。幕府は孫童子丸を跡取りと認定し、近江・飛騨・出雲・隠岐の守護職に補任しますが、これを不服とした政光と清直は西軍へ寝返り、六角行高と和睦して東軍と戦い始めます。つまりこうなります。
東軍:京極孫童子丸、京極政経、多賀高忠、六角政堯
西軍:京極乙童子丸、京極政光、多賀清直、六角行高
文明3年(1471年)には孫童子丸が夭折し、幕府は六角政堯を近江守護としますが、10月には政堯が行高・政光・清直に敗れて討死しました。幕府は京極政経を新たに近江守護とし、多賀高忠は政光らに反撃して窮地に追いやりますが、政光らは同じ西軍で美濃小守護代の斎藤妙椿の支援を受け、文明4年(1472年)政経らを越前へ敗走させます。乙童子丸は政光の後見を受けて出雲・隠岐・飛騨の守護職と家督を継ぎ、近江守護職は六角政堯の養子の虎夜叉が継ぎます。翌文明5年(1473年)には政光が病没し、多賀清直・宗直父子が実権を握りました。この頃に乙童子丸は元服して京極秀綱と名乗っています。つまり、こうなります。
東軍:京極政経、多賀高忠
西軍:京極秀綱、多賀清直・宗直、六角行高、六角虎夜叉、斎藤妙椿
しかし幕府/足利義政は、同年に出雲・隠岐・飛騨の守護職を秀綱から取り上げて京極政経に与えます。政経と多賀高忠は越前を経て出雲まで落ち延びていましたが、大義名分を得たことで勢力を盛り返し、文明7年(1475年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛します。幕府は政経に近江守護職をも授け、山門僧徒と信濃守護小笠原家長らを援軍につけて近江奪還に向かわせます。京極秀綱・多賀清直・六角行高らの連合軍は観音寺城下で迎撃しますが打ち破られ、秀綱は江北へ撤退しました。
東軍:京極政経、多賀高忠、比叡山延暦寺、小笠原家長
西軍:京極秀綱、多賀清直・宗直、六角行高、斎藤妙椿
これに対し美濃守護の土岐成頼、美濃小守護代の斎藤妙椿、越前・尾張・遠江守護の斯波義廉らが西軍の援軍として近江へ侵攻し、政経・高忠らを打ち破ります。文明9年(1477年)に応仁文明の乱が終結すると、翌年に政経は近江守護を解任され、六角行高が再び近江守護に任命されました。多賀清直は文明11年(1479年)に没しますが、子の宗直は京極秀綱を擁して江北を事実上支配し、対する多賀高忠は京都での隠棲を余儀なくされます。また京極政経は出雲・隠岐・飛騨の守護職は保ったため、ひとまず出雲へ下向して勢力を蓄えることとします。
この頃に出雲守護代となったのが、尼子持久の孫の経久です。彼は国人衆と結託して各地の寺社領を押領し、美保関の公用銭の段銭(税)を徴収することを拒むなど、半独立の勢力を築き上げていました。政経は幕府に逆らったとして経久を守護代から解任しますが、実際は結託して銭を集めさせ、経久も追放されることなく守護の権威を利用して出雲を支配しました。
この頃、六角行高は大膳大夫に任じられ、名を高頼と改めています。彼も寺社領や幕府奉公衆の荘園を押領して勢力を拡大していますが、室町幕府は次第にこれを問題視し、威信回復のため六角氏を征伐する兵を挙げることとなります。京極政経も近江奪還のため参戦し、京極騒乱が再開します。
◆室◆
◆町◆
【続く】
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