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【つの版】度量衡比較・貨幣245

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国の続きです。

滋賀県

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六角承禎

 永禄元年(1558年)11月、近江の守護大名六角義賢/承禎は将軍足利義輝と三好長慶の和睦を仲介し、義輝を京都へ戻すことに成功しました。祖父の高頼、父の定頼が築き上げた六角氏の領国は、先祖伝来の江南6郡に加え京極氏の所領であった愛知・犬上・坂田の3郡、南隣の伊賀4郡のうち3郡(ただし間接統治)にまで広がっており、京極氏を擁立する江北国人領主の盟主たる浅井久政も事実上その軍門に降っていました。

近江12郡

 永禄2年(1559年)正月、浅井久政の嫡男・猿夜叉が15歳で元服し、六角義賢の偏諱を授かり賢政と名乗りました。また六角氏の重臣平井定武が烏帽子親となり、定武の娘が賢政に嫁いでいます。平井氏は佐々木氏支流高島氏の末裔にあたり、六角氏の宿老として仕えていましたが、浅井氏をその娘婿としたということは、浅井氏が京極氏ではなく六角氏の家来に組み込まれることを意味していました。京極高広は天文22年(1553年)に六角氏に敗れて行方不明となり、弟の高吉/高慶も近江を去って義輝に仕えており、近江守護にして幕府を支える重鎮たる六角氏に仕えることは賢明な判断です。

 ところが同年4月、浅井賢政は妻を離縁して実家に送り返し、六角氏に反旗を翻します。これは越前の戦国大名朝倉義景の支援によるものでした。義景の正室は細川晴元の娘で、三好長慶とは敵対していましたから、義輝と長慶の和睦を仲介した六角氏に異議を申し立て、晴元を支援するために浅井氏の家来や国人衆を唆したのです。賢政は反六角派の家来たちに推戴されて事実上の当主となり、六角氏の本拠地の蒲生郡観音寺城から10㎞ほど北東の愛知郡肥田城の城主・高野瀬秀隆を調略して寝返らせました。

 永禄3年(1560年)8月中旬、40歳の六角承禎は呼号2万5000の軍を率いて肥田城を攻め、浅井賢政は呼号1万1000の兵を率いて救援に駆け付けます。両軍は肥田城の北の宇曽川を挟んで対峙し、緒戦は六角軍が優勢だったものの、浅井軍の反撃を受けて打ち破られます。久政は同年10月に隠居して賢政に家督を譲り、翌年5月に賢政は賢の偏諱を捨てて長政と改名しました。これがすなわち浅井長政で、長は尾張の織田信長の偏諱とする説もあります。

 信長は同年5月に桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、今川氏の混乱の隙を突いて勢力を広げつつありました。斎藤道三の娘を娶っていたため道三を殺した一色義龍とは対立し、この頃には上洛して義輝に謁見してもいます。承禎は美濃守護の土岐頼芸に姉妹が嫁いでいたため、頼芸を追放した道三やその子義龍とは対立しており、信長も成り上がり者と見下していました。しかし家督を譲られていた嫡男の義弼は織田・朝倉に対抗するため義龍と同盟を結ぶこととなります。これに承禎は反発し、義弼との仲が悪化しました。

六角騒動

 永禄4年(1561年)5月、三好長慶は義輝の仲介により細川晴元と和睦しますが、晴元と嫡男六郎は直後に長慶により幽閉され、監視下に置かれます。晴元の妻は承禎の妹であるため、激昂した承禎は晴元の次男晴之を擁立し、長慶に対して挙兵しました。同時期には紀伊・河内守護の畠山高政が紀伊から和泉へ侵攻しており、長慶は北と南から攻められることとなります。

 京都東山の将軍山城に入った承禎は、長慶の嫡男義興、家老松永久秀率いる軍勢と対峙します。戦いは1年近く続き双方に多くの死傷者が出ますが、永禄5年(1562年)3月に長慶の弟実休が畠山高政に討ち取られ、三好勢は総崩れとなります。義輝は石清水八幡宮へ移され、六角勢はついに上洛して京都を制圧しました。しかし三好義興は美濃の一色龍興(義龍の子)と同盟交渉を行って六角氏の背後を脅かし、承禎は京都にとどまります。

 この隙に三好長慶は勢力を立て直し、本国の阿波などから軍勢を呼び集めると、5月には畠山高政を撃破して紀伊へ退かせます。承禎は長慶と和睦して京都から撤退し、細川晴元は幽閉されたまま翌年3月に没しました。

 政治の主導権を握れないことに不満を募らせた義弼は、永禄6年(1563年)10月に定頼以来の重臣後藤賢豊を殺害します。家臣団には動揺が走り、賢豊殺害の6日後には承禎・義弼とも観音寺城から追放されます。重臣の蒲生定秀・賢秀、三雲定持らの執り成しで義弼らは城に戻りますが、義弼の弟の義定を擁立しようとする者や浅井長政に寝返る者も現れ、六角氏の権威と権力は急激に衰えます。なおこの頃義弼は義治と改名しました。

永禄之変

 細川晴元の死と六角氏の衰退は三好長慶には朗報でしたが、彼も細川氏綱や嫡男義興を失い、翌年7月には43歳で病没します。甥の義継が跡を継ぎますがまだ13歳の少年で、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の「三好三人衆」が後見人となり実権を握りました。将軍足利義輝はこれを好機として実権を取り戻そうと画策しますが、永禄8年(1565年)5月に殺害されます。

 義輝の弟の覚慶は奈良興福寺一条院門跡となっていましたが、松永久秀により幽閉されます。やがて密かに脱出した覚慶は、奈良から木津川を遡り、伊賀国を経由して近江国甲賀郡和田(現甲賀町和田)に入ります。この地の土豪和田惟政は覚慶を歓迎し、覚慶はここから各地の大名に手紙を書き送って支援を要請しました。六角承禎と義治も支援せざるを得ず、惟政の留守中に野洲郡矢島(現滋賀県守山市矢島)へ覚慶を移らせます。ここは琵琶湖の南部を挟んで坂本の対岸にあり、京都にぐっと近づきました。

 三好三人衆は義輝の従兄弟で阿波にいた義親(義維の子)を将軍に擁立しようとしますが、松永久秀との対立で難航していました。覚慶は翌永禄9年(1566年)2月に還俗して義秋と名乗り、浅井長政・朝倉義景・織田信長、美濃の一色龍興や若狭武田氏、能登畠山氏、越後の上杉輝虎(謙信)、河内の畠山高政らが呼びかけに応じます。三好三人衆は矢島御所を襲撃せんと近江へ出兵しますが、坂本で奉公衆に迎撃され撤退しました。

 信長は義秋の仲介で一色龍興と和睦し、浅井長政と妹(お市の方)との婚姻を取り付けたのち、8月に小牧山城を出て美濃と尾張の国境である木曽川の河野島(現岐阜県各務原市川島)に兵を進めました。ところが龍興は織田軍が美濃を通行することを拒み、約束を破って信長に攻めかかります。六角氏も三好氏の調略を受けて反義秋派に転じ、尾張から北伊勢経由で近江へ向かうルートも絶たれ、身の危険を感じた義秋はやむなく矢島から琵琶湖を北上して若狭へ逃れました。しかし若狭武田氏も内紛で弱体化しており、義秋は越前へ移って朝倉義景を頼ることとなります。また同年には浅井長政が六角領に侵攻して蒲生野で合戦となり、六角家中からは多くの家臣が浅井勢に寝返り、六角氏は防戦一方となりました。

 永禄10年(1567年)4月、蒲生定秀ら六角氏の有力家臣20名は分国法『六角氏式目』を起草し、六角承禎・義治父子に承認させて互いに遵守を誓わせます。これは六角氏を中心とした秩序を回復させるための国法で67箇条からなり、債務や民事訴訟に関わる規定が中心で、原則として在地の慣習法を尊重したものでした。また大名である六角氏の権力を制限し、国人衆の自立性と結束を強化しており、領主の恣意的収奪は規制されていますが、惣村による反領主行動は禁止されています。かつては足利将軍家を輔佐して天下人に迫った六角氏は、承禎・義治の代で大きく衰え、家臣団にマグナ・カルタめいた屈辱的な条文を承認させられるほどに落ちぶれたのです。

信長上洛

 越前朝倉氏のもとで諸侯に呼びかけを行っていた義秋(改名して義昭)でしたが、朝倉氏は若狭に侵攻してこれを制圧したものの、なかなか上洛しようとはしませんでした。三好三人衆は阿波から足利義親を招き寄せたものの上洛させられずに摂津に留め置き、三好義継・松永久秀と対立して合戦を行う始末となります。久秀らは大和に籠城し、三人衆は筒井順慶と結んでこれを攻め、10月には東大寺が兵火によって焼失するに及びます。

 同年9月、織田信長は一色龍興を破って稲葉山城を攻め落とし、岐阜城と改名して美濃を制圧しました。龍興は伊勢長島へ逃亡します。美濃から関ヶ原を抜けて近江へ向かう道は浅井長政が確保しており、美濃からの上洛に残る障害は六角氏のみとなりますが、朝倉氏は義昭を動かそうとしませんでした。そこで信長は松永久秀らと連携し、再びの上洛を計画します。

 永禄10年(1568年)2月、朝廷は義親改め義栄を征夷大将軍に宣下しました。朝倉氏は若狭を巡って松永久秀と争っていたためこれを承認し、義昭は7月に越前を脱出して美濃に入り、信長に擁立されます。信長は8月に岐阜城を出発して近江国佐和山城(現彦根市古沢町)に入り、和田惟政らを使者として観音寺城に遣わしますが、三好三人衆はすでに六角氏を説き伏せて味方につけており、使者と信長は岐阜城に戻りました。

 同年9月、信長は1万5000の兵を率いて岐阜城を出発します。これに三河の徳川家康からの援軍1000、浅井長政の兵3000が加わって2万弱となり、総勢5万とも6万とも称して観音寺城に迫りました。六角氏は愛知川を防衛線として守りを固め、東の和田山城、南の箕作城など多くの支城に兵を配備して待ち構えますが、信長は兵を3つに分け、観音寺城・和田山城・箕作城へ同時に攻めかかります。この時に木下藤吉郎秀吉は箕作城へ夜襲をかけ、準備させた数百の松明の火を目印に攻めかかったので、城は1日も持ちこたえられずに落城し、和田山城の兵は戦わずに逃亡しました。

 落胆した六角承禎父子は、かつての六角高頼の例にならって夜のうちに観音寺城を脱出し、南の甲賀郡へ落ち延びます。支城も次々と信長に降り、障害を排除した信長はそのまま上洛、三好三人衆は恐れをなして京都から離脱しました。状況を把握した信長は岐阜から義昭を招いて園城寺で合流し、9月28日に上洛を成功させます。義栄は摂津から阿波へ逃れますが病没し、10月に足利義昭が改めて征夷大将軍宣下を受けました。

 六角氏の重臣蒲生賢秀は父定秀とともに蒲生郡南部の日野城に籠って抵抗しましたが、伊勢の国人で定秀の娘婿にあたる神戸具盛の説得を受けて降伏し、嫡男の鶴千代を人質に出しました。信長は賢秀と鶴千代を厚遇し、自分が烏帽子親となって鶴千代を元服させ、織田弾正忠の忠の字を与えて忠三郎の仮名を授け、教秀/賦秀と名乗らせています。さらに信長は翌年自分の次女を彼に娶らせました。彼こそのちの蒲生氏郷です。

 かつての六角定頼の如く、将軍を支援して上洛させた信長の功績は大きなものでしたが、彼が五畿内を制して「天下人」になるにはまだ時間がかかります。甲賀郡に逃れた六角氏は、三好三人衆と結んで不穏な動きを続け、やがて信長を窮地に追い込むことになります。

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【続く】

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