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「死ねたら楽だな」と思っていた僕が、北海道で自分の人生を取り戻した話

先週のnote初投稿に、たくさんのスキやコメント、本当にありがとうございます!

正直、こんなに多くのスキやコメントなど反応をもらえるなんて思ってもいなくて...
ひとつひとつ読みながら、「あぁ、勇気を出して伝えてよかったな」って、じんわり噛みしめていました。

中でも多かったのが、「小柴さんについてもっと詳しく知りたい」という声。
あの記事では、僕の30年の生きづらさを、ぎゅーっとまとめて一気に書いたので、どうしても駆け足になってしまった部分があって。

だから今回は、その「原点」の部分を、じっくり深掘りしていこうと思います。

僕が、どんな子どもでどんなふうに苦しんで、そしてどうやってそこから少しずつ抜け出していったのか。

正直、思い出すのもしんどい話も出てきます。

でも、いま同じように「生きづらいな」って感じている人に、何かひとつでも届くなら。
そう思って、今日も書いていきます。



「死ねたら楽だな」と、何十回も思っていた小学生


いきなり重い話で、ごめんなさい。
でも、ここから話さないと始まらないんです。

小学5年生の頃、僕は毎日のように「このまま死ねたら楽だな」って思っていました。

何回、いや、何十回も。
その時間は決まって、お風呂掃除の当番のとき。
家の中で、僕がひとりになれる時間は、そこだけだったんです。

お風呂を洗いながら、ぼーっと、そんなことを考えていました。
でもね、不思議なことに、当時の僕は「自分が生きづらい」だなんてこれっぽっちも思っていなかったんです。

なぜかというと・・・
「生きやすさ」を知らなかったから。

生きやすいってどういうことかわからないから、生きづらいこともわからない。
ただ、それが僕の「日常」でした。




なんで、いじめられるようになったんだろう


もともと僕は、ちょっと変わった子どもでした。

善悪の境界みたいなものが、あいまいで。
周りの人が、僕の発言や行動を見て「面白いね!」って笑ってくれるのが、ただただ嬉しくて。
だから、ちょっと人と違うことを、何度も繰り返していたんです。

でも、それを面白がってくれる人ばかりじゃなかった。

「おまえの存在がむかつく」

だんだん、そういう言葉を浴びるようになって。
気づいたら、毎日いじめられるようになっていました。

ランドセルを、裏庭の焼却炉に投げ込まれたこともあります。帰ろうとしたらランドセルがなくて、泣きながら家に帰って。
親に話して、先生と一緒に探しに戻ったら、焼却炉のゴミ捨て穴の中から見つかった。

昼休みにいじめられて、自分の机に戻って泣いていたら、机ごと蹴っ飛ばされて。
「泣いてんじゃねぇよ」って、理不尽なことを言われることもあった。

そんな辛いことばっかりの毎日でした。



「ポチ」と呼ばれていた高校時代


中学を経て、高校に入ったとき。
最初の4月についたあだ名が、「ポチ」でした。

正直、「あぁ、またか」と思いました。
またいじめられるのかな、って身構えていたんです。

でも、高校では少し風向きが変わりました。
なぜか、数学だけは学年で一番できてしまったんです。

「あいつ、普段はアホっぽいのに、実は頭いいぞ」

そんなふうに、ちょっと一目置かれるようになって。
「ポチの癖に」って言われたのを良く覚えています。

発言が変だったり、行動がおかしかったりして馬鹿にされることは相変わらずあったけど、深刻ないじめには発展しませんでした。

高3の秋。
クラスのみんなが参考書と赤本に埋もれている頃、僕は東京理科大学への推薦が決まりました。

……と書くと、なんだかサラッと受かったみたいですが、全然そんなことはありません。

推薦試験には、僕にとってまさにラスボス級の科目がありました。
それが「作文」です。

数学なら何とかなる。でも作文は何ともならなかった。
6月頃から、毎日のように作文を書いては担任に持っていき、赤ペンで修正されて紙が一面真っ赤になって返される。

そして書き直す。
また真っ赤になる。
また書き直す。

今思えば、添削というよりもはや献血でした。
赤ペンの量が本当に多すぎました。

そんな生活を試験前日まで続けました。
だから合格が決まった時は、本当にうれしかったんです。

うれしすぎて、受験生としての空気をまったく読めていませんでした。

「推薦受かったー!」とクラスで大喜び。
みんなも「すごいじゃん!」と祝福してくれました。

でも一人だけ、反応の薄い友人がいました。

数学が得意で、いつも競い合っていた僕の戦友です。

当時は「あれ?機嫌悪いのかな」くらいにしか思っていませんでした。
ところが、その後ほとんど話さなくなってしまいました。

卒業間際、彼は僕に向かってこう言いました。
「受験勉強で必死な俺の気も知らないで、お前だけ早々に受かりやがって。」

まさに捨て台詞のようでした。

その言葉は20年以上経った今でも覚えています。

当時の僕は、ただ純粋にうれしかった。
でも彼は、毎日見えない不安と戦っていた。

どちらも本当だったんだと思います。

今でも時々考えます。
彼はあの時、どんな気持ちだったんだろう。
僕はどう振る舞えば良かったんだろう。

正解は分かりません。

ただ、人生には「自分が悪かったわけじゃない。でも誰かを傷つけてしまうことがある」という出来事があるんだな、と今は思っています。



「大人って、こんなに夢がないのか」


高校時代、僕はずっと何かしらのバイトをしていました。
理由は単純で、「大人が普段、何を考えて生きているのか」が知りたかったから。

あるとき、コージーコーナーという洋菓子店の工場で、ベルトコンベアから流れてくるクッキーを箱に詰めるバイトをしていました。社員の帽子に線が何本入ってるかで役職が分かるような仕組みでした。

そこで隣にいた、30歳前後の大人達に聞いてみたんです。
「皆さんの夢って、何ですか?」

最初の人が言いました。
「マイホームを持つことかな」

別の人に聞いても、「昇給したい」「昇進したい」など。
正直、僕の中では衝撃でした。

16歳の僕は、「大人って、こんなに夢がないのか…」って、すごくショックを受けたんです。

なんというか、「みんな本当にそれでいいの?」って。
その違和感は、今でも僕の根っこに深く残っています。



人の目が、刃物みたいに痛かった大学時代


先ほども書いたとおり、僕は推薦で東京理科大学に入りました。
でもここで僕は、また大きくつまずきます。

大学に入ると、それまでの人間関係が全部リセットされるんですよね。
高校までは、周りが積極的に距離を縮めてきてくれていたんです。
でも、大学の同級生たちはみんな二歩くらい距離を置いた、よそよそしい関係で。

僕はもともとコミュニケーションが受け身なタイプだったので、その距離がどうしても縮められなかった。

結果的に、僕には親しい友達が一人もできませんでした。

そうなると、今度は毎日の通学電車に乗るのが辛くなっていって。

人の目線が、刃物みたいに痛く感じる。
心臓がバクバクして、人の顔をまともに見られない。

埼玉の自宅から、片道1時間かけて通っていたんですが、その時間が本当に苦痛で。親以外の人と、普通に会話することすら、しんどくなっていきました。

いま思えば、病院に行っていたら「パニック障害の一歩手前」って言われていたと思います。

大学に入ってからの半年間。
本当に、長い暗黒の時間でした。

そして一番つらかったのは、
「友達とも親しくなれない自分が、恥ずかしい」
そんな気持ちでした。

なんで自分は、みんなみたいに普通に友達ができないんだろう。
孤立している自分が、恥ずかしくて、焦って、不安で。

足元がふわふわして、自分自身を保てていないような感覚が、ずっとありました。



8万円のマウンテンバイクと、北海道への逃避行


そんな僕を変えたのが、一台のマウンテンバイクでした。

バイトだけは相変わらず好きで、家庭教師やビルの清掃を3つくらい掛け持ちしていました。
そこで貯まった20万円。

ある日、突然思いついたんです。

「この状況から、逃げ出したい」

その一心で、8万円のマウンテンバイクを買って、北海道へ一人旅に出ることにしました。大学の長い夏休みを、まるごと使って。

旅グッズを一式そろえ、手元に残った9万円を握りしめて、僕は北海道へ向かいました。

予約したのは、東京湾から釧路港へ向かうフェリー。
今思えば無謀な計画でした。

今までの家族旅行でも最長2泊。
一人旅なんて人生で一度もしたことがありません。
それなのに、大学の夏休みを丸ごと使って、3週間以上も自転車で北海道を旅しようとしていたのです。

でも当時の僕は、とにかく今いる場所から離れたかった。
同じ毎日の繰り返しから逃げ出したかった。
ただそれだけでした。

埼玉の自宅を出て、フェリー乗り場へ向かっていた朝のことです。
浅草近くの電気店の前を通りかかった時、店先のスピーカーから一曲の歌が流れてきました。

浜田雅功さんの「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~」

「自分で動き出さなきゃ、何も起こらない」

そんな歌詞が、その時の僕の心に突き刺さりました。
気づけば涙があふれていました。

「やってやるぜ、俺!」

そんな気持ちでフェリーに乗り込んだことを、今でも鮮明に覚えています。

この旅が、人生の大きな転機になりました。

北海道では、不思議なくらい人に助けられました。

自転車でへとへとになっていたら車に乗せてもらい、
お金がなくなったら泊めてもらい、
見ず知らずのおじさんにご飯を食べさせてもらい、

さらには、川中のおじさんだけが知る秘境温泉に連れていってくれたり。

気づけば、僕は一人で旅をしているはずなのに、一人で生きていませんでした。

それまでの僕は、

「誰にも必要とされていない」

そう思い込んでいました。

でも北海道で出会った人たちは、何も求めずに手を差し伸べてくれました。
その時、初めて思ったんです。

「ああ、自分は一人じゃなかったんだな」

その旅から帰ってくると、不思議なことが起きました。
それまで怖くて見られなかった人の顔が、ちゃんと見えるようになったんです。
気が合う友達も少しずつ増えていき、気づけば大学生活を楽しめるようになっていました。
北海道から帰ってきても、大学や友達は何も変わっていないのに。

変わったのは、僕自身でした。

ずっと自分は誰かに必要とされていないと思っていた。
居場所がないと思っていた。
でも本当は違ったんです。

僕はただ、自分で自分を閉じ込めていただけだった。
北海道の旅は、自分を取り戻す旅だったんだと思います。

そしてあの旅がなければ、今の僕はここにはいません。

この経験すべてが、僕の『原点』です。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

正直、思い出すとしんどい話も多かったけど。
こうやって書いてみて、あらためて思うんです。

あの頃の経験すべてが、いまの僕の「原点」なんだなって。

死にたいと思っていた小学生。
人の目が怖くて、電車にも乗れなかった大学生。

その全部が、いまの僕をつくっている。

そして、もし今あなたが、かつての僕みたいに生きづらさの真っただ中にいるなら。
答えは、誰かが教えてくれるものではなく、案外あなた自身の中にあるのかもしれません。
少なくとも僕は、そうでした。

自分が苦しんできた意味に気づけた時、不思議と以前ほどその苦しさに振り回されなくなりました。

自分の辛いことの意味が理解できれば、もう恐れる必要なんてない。
あとは、自分の内なるワクワクに従っちゃえばいいんです。

いま僕は、長野県の安曇野にある「安曇野コモンズ」で、そんな想いを形にする取り組みをしています。

気になる人は、ちょっとのぞいてみてください。
👉 安曇野コモンズについて
https://azuminocommons.org

みなさんからの温かいコメント、いつも楽しみに読んでいますのでコメントお待ちしてます!


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