「知らないからこそ探究できる? ― プラトン『メノン』に学ぶ“学び”の本質」
「知らないことは、探究できないのではないか?」
もしそうだとしたら、私たちは新しいことを何も学べないことになります。
この素朴でありながら深刻な問いをめぐって、古代ギリシアの哲学者ソクラテスと青年メノンが対話したのが、プラトンの対話篇『メノン』です。本記事では、その中心テーマである**「探究のパラドクス」と想起説**、そしてそこから展開される**徳は教えられるのか?**という問題を、初心者向けにやさしく解説します。
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1. 探究のパラドクスとは何か
メノンはソクラテスに、次のような疑問を投げかけます。
知っているものは、探究する必要がない。
知らないものは、何を探せばいいのかも分からない。
では、探究とはそもそも不可能ではないか?
これがいわゆる**「探究のパラドクス」**です。
この考えに従えば、学ぶことそのものが成り立たなくなります。
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2. ソクラテスの答え──「想起説」
この難問に対して、ソクラテスは大胆な仮説を提示します。
それが**想起説(そうきせつ)**です。
想起説の基本的な考え
• 人間の魂は不死である
• 魂は生まれる前に、すでに真理を知っていた
• 学ぶとは、新しく知識を得ることではなく
忘れていた真理を思い出すことである
つまり、私たちは「まったく何も知らない状態」から出発しているわけではなく、問いかけによって内にある考えを呼び覚ましているにすぎない、というのです。
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3. 少年への問いかけが示すもの
ソクラテスは、文字も数学も学んだことのない少年に、幾何学の問題を問いかけます。
答えを教えることはせず、質問だけを重ねていくと、少年は次第に正しい答えにたどり着きます。
ここで重要なのは、
• ソクラテスは「教えていない」
• 少年自身が「考えて答えに至っている」
という点です。
この場面は、知識は外から注ぎ込まれるものではなく、内側から引き出されるものだという想起説の実例として示されています。
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4. 「正しい考え」と「知識」の違い
ここでソクラテスは、重要な区別を行います。
• 正しい考え(ドクサ)
偶然や経験から得られるが、理由づけが弱い
• 知識(エピステーメー)
理由や根拠によってしっかり結びついている
正しい考えは役に立ちますが、なぜ正しいのかを説明できない限り、不安定です。
それが理由づけによって固定されたとき、初めて知識になると考えられます。
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5. では、徳は教えられるのか?
対話の後半で議論は、「徳(よさ・善さ)」の問題へと進みます。
ソクラテスはこう考えます。
• もし徳が知識であるなら → 教えられるはず
• しかし徳を教える確かな教師が見当たらない
• 現実には、徳は「正しい考え」によって導かれているように見える
ここから導かれるのは、
徳は知識というより、想起される正しい考えに近いのではないか
という慎重な結論です。
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6. 仮説の方法という考え方
ソクラテスは、徳の問題を直接定義できないため、**幾何学者が使う「仮説の方法」**を採用します。
これは、
• まず仮に前提を置く
• そこからどんな結果が出るかを検討する
という思考法です。
哲学は、すべてを最初から確実に知っている必要はない。
仮に考え、吟味し、対話によって前に進む営みなのだ、という姿勢がここに表れています。
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おわりに
『メノン』が私たちに教えてくれるのは、次のようなことです。
• 「知らない」ことは、怠けではない
• むしろ、知らないと自覚することが探究の出発点
• 学びとは、教え込まれることではなく、問いによって目覚めること
ソクラテスが示した対話の姿勢は、現代の教育や自己成長にも深く通じています。
問い続ける勇気こそが、最も人間らしい知性なのかもしれません。
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「徳は知識なのか?――ソクラテスが『よい生き方』をめぐって考えたこと(『メノン』入門)」
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はじめに
「徳(とく)」とは何でしょうか。
正義、勇気、節度、思慮深さ――こうした言葉は、なんとなく「良いもの」だと感じます。しかし、それらは生まれつき備わる性格なのでしょうか。それとも学んで身につけるものなのでしょうか。
プラトンの対話篇『メノン』では、ソクラテスがこの問題を徹底的に問い直します。今回の文章は、その中でも特に重要な場面、
「徳は知識であるのではないか」
という仮説をめぐる議論です。
この記事では、この難解に見える議論を、順を追って噛み砕いて説明します。
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1. ソクラテスの出発点:「徳はよいものだ」
まずソクラテスとメノンは、次の点について合意します。
• 徳を持つ人は「優れた人」である
• 優れた人は、周囲にとって「有益な存在」である
つまり、徳は人をよくし、役に立つものだという前提です。
この点は、現代人の感覚とも大きくずれてはいません。
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2. 「有益なもの」は使い方次第
次にソクラテスは、意外な問いを投げかけます。
同じものでも、正しく使えば役に立つが、誤って使えば害になるのではないか?
たとえば、富・健康・力・勇気などを考えてみましょう。
• 富は、正しく使えば人を助ける
• しかし、使い方を誤れば争いや堕落の原因になる
• 勇気も、考えなしに発揮されれば無謀になり、害を生む
ここで重要なのは、
それ自体では善でも悪でもなく、「導き方」によって結果が変わる
という点です。
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3. 魂の徳も同じ問題を抱えている
では、勇気・節度・正義といった「心の徳」はどうでしょうか。
ソクラテスはこう考えます。
• 勇気があっても、判断力がなければ危険
• 節度があっても、状況を理解していなければ逆効果
• 正義感も、思慮が伴わなければ独善になる
つまり、徳と呼ばれる性質であっても、知的な理解が伴わなければ、本当に「よいもの」にはならないのです。
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4. 鍵となるのは「知」
ここでソクラテスは、次の結論に近づきます。
• 魂に属するものは、それ自体では善にも悪にもならない
• それを善に導くのは「知」であり、悪に導くのは「無知」
この「知」は、単なる暗記的な知識ではありません。
原語では**フロネーシス(思慮・実践的な知)**と呼ばれます。
つまり、
何がよく、どう行動すべきかを理解し、状況に応じて判断できる力
のことです。
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5. ここから導かれる大胆な仮説
以上を踏まえて、ソクラテスはこう推論します。
• 徳は有益なものである
• 有益であるためには、知によって導かれなければならない
• したがって、徳とは一種の知であるのではないか
これが有名な
「徳は知である」
という主張です。
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6. もし徳が知識なら、徳は教えられる?
ここで議論は次の段階に進みます。
• 知識であるなら、教えられるはず
• 教えられるなら、教師が存在するはず
しかし現実を見渡すと、
「徳の教師」とは誰なのか
という問いに、はっきり答えることができません。
優れた政治家や立派な市民が、必ずしも自分の子どもを徳のある人間に育てられているわけでもない。この事実は、「徳=知識」という考えに疑問を投げかけます。
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7. ソクラテスは結論を急がない
重要なのは、ここでソクラテス自身が自分の結論を疑い始める点です。
彼はこう考えます。
• 一時的に納得できるだけでは不十分
• 今も、将来も、変わらず正しいと思える必要がある
つまり、
「徳は知である」という結論は魅力的だが、まだ確定できない
という態度を取るのです。
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8. 『メノン』が私たちに教えること
この対話から学べる最大のポイントは、次の点です。
• 「よいもの」とは何かを安易に決めないこと
• 善意や能力だけでは不十分で、理解が不可欠であること
• 結論よりも、問い続ける姿勢そのものが重要であること
ソクラテスは、徳の定義をはっきり示す代わりに、
「考えることの大切さ」
を私たちに残しました。
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おわりに
「徳は知識なのか?」という問いは、古代ギリシアだけの問題ではありません。
• 正しさとは何か
• 善意はなぜ失敗するのか
• 本当に人を良くする力とは何か
こうした問いは、現代を生きる私たちにも、そのまま突きつけられています。
『メノン』は難解に見えますが、実はとても実践的な哲学書です。
ぜひ、**「徳とは何か」ではなく、「どう考えるべきか」**という視点で、もう一度読み直してみてください。
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徳は学校で教えられるのか?――ソクラテスが突きつけた「教育」の根本問題
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はじめに
「立派な人間になりたい」「よい市民として生きたい」
これは、いつの時代でも変わらない人間の願いです。
では、そのために必要な「徳(アレテー)」は、誰かから教わることができるのでしょうか。
プラトンの対話篇『メノン』では、ソクラテスがこの問題をめぐって、政治家アニュトスと激しく議論します。
この記事では、その議論の核心を、哲学初心者の方にもわかるように解説します。
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1.技術には教師がいる。では「徳」には?
ソクラテスは、まず誰もが納得する例から話を始めます。
靴職人になりたければ靴職人のもとへ行く。
医者になりたければ医者に弟子入りする。
笛を吹けるようになりたければ、笛の教師に習う。
どれも当たり前のことです。
専門的な技術や知識には、それを教える専門家がいます。
では、人として立派に生きるための「徳」はどうでしょうか。
もし徳が教えられるものなら、徳の教師がいて当然のはずです。
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2.名乗りを上げる「徳の教師」――ソフィスト
ここで登場するのが「ソフィスト」と呼ばれる人々です。
彼らは「人を賢くする」「政治や徳を教える」と公言し、報酬を取って若者を教育していました。
ソクラテスは、論理的にはこう考えます。
教えると名乗り、弟子を取り、報酬を得ているのなら、
彼らは徳の教師候補ではないか。
ところが、アニュトスは激しく反発します。
ソフィストは若者を堕落させる危険な存在であり、関わるべきではない、と。
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3.「知らないのに、なぜ悪いとわかるのか?」
ここでソクラテスは、鋭い問いを投げかけます。
ソフィストと実際に付き合ったこともなく、
教えの内容を確かめたこともないのに、
どうして「害をなす」と断言できるのか。
もし彼らが本当に人を堕落させるなら、
40年以上もギリシャ中で活動し続け、名声と報酬を得られたはずがない。
粗悪な職人なら、すぐに見抜かれて仕事を失うはずだからです。
ここでソクラテスが問題にしているのは、
「評判」や「感情」で判断する態度そのものです。
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4.偉大な政治家たちは、徳を教えられたのか
次に議論は、アテネの偉大な政治家たちへと移ります。
テミストクレス、ペリクレス、アリスティデスなど、誰もが認める立派な人物です。
彼らは、自分の息子たちに最高の教育を与えました。
音楽、運動、軍事技術、馬術――
お金を払えば学べる技術については、徹底的に教えています。
しかし、決定的な事実があります。
彼らの息子たちは、父親ほど立派な人物にはならなかった。
もし徳が教えられるものなら、
これほど優れた父親が、わが子にそれを教えなかったとは考えにくい。
むしろ、教えたくても教えられなかったのではないか。
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5.徳は「知識」ではないのかもしれない
ここから浮かび上がる結論は、非常に重要です。
徳は、
・技術のように体系化できない
・教師から生徒へ単純に伝達できない
・努力や経験、環境、偶然が深く関わる
つまり徳は、「教科書で学ぶ知識」とは性質が違うのではないか、ということです。
ソクラテスは、はっきりと答えを出すことを避けながらも、
**「徳は教えられるものではない可能性」**を強く示唆します。
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おわりに
この対話が今なお読まれる理由は明確です。
私たちは今でも、
「よい人間を育てる教育とは何か」
「学校や研修で本当に人格は育つのか」
という問題に直面しているからです。
ソクラテスは答えを押しつけません。
代わりに、問い続ける姿勢そのものが、
徳に近づく第一歩なのだと示しているのかもしれません。
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「徳は教えられるのか?」――ソクラテスが突きつけた、教育と知恵の根本問題
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はじめに:なぜ「徳」はそんなに難しいのか
「よい人になるには、誰かに教えてもらえばいいのか?」
この素朴な問いは、現代でもなお答えが分かれます。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、約2400年前にこの問題を真正面から取り上げました。その舞台となったのが、プラトンの対話篇『メノン』です。
本記事では、『メノン』を中心に、ソクラテスが
• 徳とは何か
• 徳は教えられるのか
• 専門家やソフィストは本当に教師なのか
という問いを、どのように考え抜いたのかを解説します。
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ソフィストとは何者だったのか
当時のアテネには、「知恵ある専門家」を名乗る人々がいました。彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術や処世術を教え、その対価として報酬を受け取っていました。
代表的な人物がプロタゴラスです。
彼は「人間は万物の尺度である」という有名な言葉で知られ、自らを教師と認め、高額な授業料を取った最初期の人物だと伝えられています。
しかし、この点にソクラテスは強い疑問を持ちます。
本当に「徳」を教えられる人間が存在するのか?
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ソクラテスの疑問①
立派な人は、徳の教師なのか?
ソクラテスはメノンにこう問いかけます。
• その国には、立派で優れた人物がたくさんいる
• では、彼らは自分を「徳の教師」だと考えているだろうか?
メノンの答えは否定的でした。
同じ人物でも、ある時は「徳は教えられる」と言い、別の時には「教えられない」と言う。意見が一致していないのです。
ここでソクラテスは重要な指摘をします。
👉 自分たち自身で意見が一致しない人を、教師と呼べるのか?
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ソクラテスの疑問②
教師がいないなら、弟子もいない
議論を進める中で、次のような結論に近づきます。
• 徳を教える教師がどこにも見当たらない
• 教師がいなければ、教えられる弟子も存在しない
• したがって、徳は「教えられるもの」とは言えないのではないか
これは、単なる皮肉ではありません。
教育というものが成立する条件そのものを問い直しているのです。
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アニュトスの怒りが示すもの
対話の途中で登場する政治家アニュトスは、ソクラテスの議論に強く反発します。
彼は「立派な家柄」「大きな権勢」を持つ人物でしたが、ソクラテスはあえてこう言います。
もし徳が本当に教えられるなら、彼ほどの人物が、自分の息子を優れた人間に育てられなかったはずがない
この発言は、アニュトスの怒りを買います。
しかし、ここでソクラテスが問題にしているのは人格批判ではなく、
• 徳と血筋
• 徳と権力
• 徳と教育
は本当に結びつくのか、という構造的な問いです。
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知識がなくても、正しく導ける?
対話の後半で、ソクラテスは一度立ち止まります。
それまで彼は、「正しく導くには知識が必要だ」と考えていました。
しかし、ここで別の可能性を示します。
例として挙げられるのが「道案内」です。
• ある人が、たまたま正しい道を知っていて、他人を目的地へ導く
• その人は、理論的な知識を説明できなくても、結果として正しく導いている
ここから導かれる重要な区別があります。
👉 知識(エピステーメー)と、正しい思い(ドクサ)は同じではない
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詩人テオグニスの矛盾が示す真実
ソクラテスは、詩人テオグニスの詩を引き合いに出します。
• ある箇所では「優れた人と交われば、優れたものを学べる」と言う
• 別の箇所では「知性は作られるものではない」とも言う
この矛盾は、当時の人々の混乱そのものを映しています。
つまり、
徳は教えられるようにも見え、教えられないようにも見える。
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ソクラテスの最終的な到達点
『メノン』の結論は、単純な「YES/NO」ではありません。
• 徳は、技術のように体系立てて教えられるものではない
• しかし、まったく偶然に生まれるものでもない
• 知識ではなく、「正しい思い」によって人は善く行動することがある
• その「正しい思い」は、神からの導きのように与えられる場合もある
ここでソクラテスは、自分自身も含めてこう言います。
わたしたちは、自分をより良くしてくれる何者かを、探し続けなければならない
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おわりに:現代へのメッセージ
この対話が現代にも響く理由は明確です。
• 資格や肩書があっても、人格が保証されるわけではない
• 教育とは「知識の注入」だけでは成立しない
• 本当に大切なものほど、マニュアル化できない
ソクラテスは、「教えるな」と言ったのではありません。
**「教えられると思い込むな」**と警告したのです。
徳とは何か。
どうすれば人はより良く生きられるのか。
その問いは、今も私たち一人ひとりに投げかけられています。
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「徳は知識ではない?―ソクラテスが語る〈正しい考え〉と〈知〉の決定的な違い」
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はじめに
「よい行いをするためには、正しい知識が必要なのか?」
これは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、対話篇『メノン』の中で繰り返し問い続けたテーマです。
今回取り上げるのは、物語の終盤で語られる重要な結論――
徳(よさ・すぐれた生き方)は、知識なのか、それとも別のものなのか
という問題です。
一見すると難しそうですが、実はとても身近な話をしています。
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正しい考えは、知識に劣るのか?
ソクラテスはまず、こんな問いを投げかけます。
正しい考えを持って行動する人は、知識を持って行動する人より劣るのだろうか?
私たちの日常を考えてみましょう。
たとえば、行き先の道を「たまたま正しく推測して」案内できる人と、
地図や経験によって「確実に知っている」人がいたとします。
結果だけを見れば、どちらも正しく案内できるわけです。
この点で、ソクラテスははっきり言います。
行為の結果に関するかぎり、正しい考えは知識にまったく劣らない。
つまり、正しい行動を生み出す力という点では、
正しい考えも、知識と同じくらい役に立つのです。
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では、なぜ知識のほうが価値が高いのか?
ここでメノンは疑問を持ちます。
それなら、なぜ知識は正しい考えより価値が高いと言われるのですか?
この問いに答えるために、ソクラテスは有名な比喩を使います。
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ダイダロスの彫像のたとえ
ダイダロスは、非常に精巧な彫像を作った伝説的な職人です。
あまりに精巧なので、縛っておかないと逃げ出すと言われていました。
ソクラテスはこう説明します。
• 縛られていない彫像 → 美しいが、すぐ逃げてしまい価値が安定しない
• 縛られた彫像 → 逃げず、価値がしっかり保たれる
これを人の考えに当てはめると、次のようになります。
• 正しい考え:正しいが、長くとどまらず、すぐ失われてしまう
• 知識:理由や原因によって「縛られ」、安定して持ち続けられる
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知識とは「理由で縛られた正しい考え」
ソクラテスの結論はとても明確です。
正しい考えが、理由(原因の理解)によって縛られたとき、それは知識になる。
つまり、
• 正しい考え:たまたま当たっている状態
• 知識:なぜ正しいのかを説明でき、失われにくい状態
この「縛るもの」こそが、理由づけ・因果の理解なのです。
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では、徳は知識なのか?
ここで議論は、再び「徳」に戻ります。
これまでの議論から、ソクラテスたちは次の点に同意していました。
• 徳には、それを体系的に教える教師がいない
• 教えられないものは、知識とは言えない
したがって、
徳は知識ではない。
という結論に至ります。
しかし同時に、徳は「よいもの」「有益なもの」でもあります。
では、徳はいったい何によって人にもたらされるのでしょうか。
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政治家と「正しい考え」
ソクラテスは、当時の優れた政治家たちに注目します。
彼らは国家をうまく導いてきましたが、
その「やり方」を他人に教えることはできませんでした。
ここから導かれるのは、次の考えです。
• 彼らは知識によってではなく
• 正しい考え(すぐれた推測)によって行動していた
つまり、政治家は「知っている」わけではないが、
なぜか正しい判断をする人々なのです。
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「神のごとき人」とは何か
ソクラテスは、こうした人々を
**「神のごとき人」**と呼ぶのがふさわしいと言います。
これは皮肉でも侮辱でもなく、
• 詩人
• 予言者
• 政治家
といった人々が、
自分では理解していない真理を語る存在であることを示しています。
彼らは、理性的な知識によってではなく、
まるで神に触れられたかのように正しいことを成し遂げるのです。
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最後に残る問い
こうしてソクラテスは、最終的な結論に近づきます。
• 徳は生まれつき備わるものでもない
• 教えられるものでもない
• しかし、確かに存在し、人をよく導く力を持つ
ゆえに、
徳は、神的なめぐり合わせによって人に与えられるものらしい。
しかし、ソクラテスはここで立ち止まります。
そもそも「徳とは何か」を知らないまま、
「徳はどうやって身につくのか」を論じていたのではないか?
そして、こう言って対話を終えます。
まず問うべきなのは、
「徳とは、それ自体として何であるのか?」である。
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おわりに
この対話は、明確な答えを与えるというより、
考え続ける姿勢そのものを私たちに示しています。
正しく行うことと、理解して行うことは違う。
そして、理解していないからといって、価値がないわけでもない。
ソクラテスの問いは、
現代の私たちの生き方にも、静かに問いかけているのです。
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「徳とは何か?」から始まる哲学──プラトン『メノン』が切り開いた問いの世界
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はじめに:なぜ『メノン』は今も読まれるのか
「徳は教えられるのか?」
この率直な問いから始まるプラトンの対話篇『メノン』は、西洋哲学の歴史の中で特別な位置を占めています。というのも、この作品は単に「徳」という道徳的テーマを扱うだけでなく、知識とは何か、学ぶとはどういうことか、人はなぜ考える必要があるのかといった、哲学全体に関わる根本問題を次々と浮かび上がらせるからです。
哲学に初めて触れる人にとっても、『メノン』は「考えることそのもの」を体験させてくれる格好の入り口だと言えるでしょう。
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『メノン』の舞台と登場人物
物語の中心人物は、若き貴族メノンと哲学者ソクラテスです。
メノンは弁論術を学び、政治の世界での成功を目指す、いわば「自信に満ちた若者」です。一方のソクラテスは、相手に答えを教えるのではなく、問いを重ねることで相手自身に考えさせる人物として描かれます。
この二人の対話は、最初から噛み合っているようで、実はすれ違っています。なぜなら、メノンは「徳をどうやって身につけるか」を知りたがっているのに対し、ソクラテスは「そもそも徳とは何なのかが分からなければ、その問いには答えられない」と考えているからです。
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「徳とは何か?」という問いの新しさ
それまでの対話篇では、「勇気とは何か」「節度とは何か」といった、個別の徳がテーマになることはありました。しかし『メノン』では、それらをまとめて、人間の徳一般とは何かが正面から問われます。
この問いは一見単純に見えますが、実際に答えようとすると非常に難しいものです。
なぜなら、具体例を挙げることと、定義を与えることはまったく別だからです。
ソクラテスはここで、「たくさんの例を並べても、本質は分からない」と指摘します。この姿勢は、哲学における定義を求める態度の原型とも言えます。
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無知を自覚するという知恵
対話が進むにつれて、メノンは次第に混乱していきます。
それまで当然知っていると思っていた「徳」について、実ははっきり説明できないことに気づいてしまうからです。
ここで重要なのは、ソクラテス自身も「自分は徳を知らない」と繰り返し認めている点です。
ただし彼は、「知らないことを知らない状態」こそが問題だと考えます。
この態度は、プラトンが描くソクラテスの一貫した特徴です。
人間にとって本当に大切なのは、知識の量ではなく、自分の無知を自覚し、それを吟味し続ける姿勢である──この考え方は、『メノン』全体を貫いています。
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徳と知識、そして「正しい思い込み」
『メノン』後半では、議論は次第に「知識とは何か」という問題へと広がっていきます。
ここで登場するのが、「知識」と「正しい思い込み(信念)」の違いです。
人は、たまたま正しい判断をすることがあります。しかし、それがなぜ正しいのかを説明できなければ、その判断は不安定です。
プラトンはここで、理由や根拠によって結びつけられた信念こそが知識になる、という重要な発想を提示します。
この考えは、後の認識論(知識論)の出発点の一つとなりました。
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徳は教えられるのか?
では、最初の問いに戻りましょう。
徳は教えられるのでしょうか。
『メノン』は、この問いに明確な「はい」や「いいえ」を与えません。むしろ、徳が単なる技術や知識の伝達では説明しきれないことを示します。政治家や詩人が徳を備えているように見えても、それを他人に確実に教えられるとは限らないからです。
ここから、徳は場合によっては生まれつきの性向や、偶然、ある種のひらめきに近いものとして語られることになります。この点も、『メノン』が単純な道徳書ではない理由です。
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『メノン』が示す哲学の広がり
『メノン』の魅力は、「徳」という一つのテーマから、
• 知識と信念
• 学びと教育
• 人間の本性
• 善とは何か
といった、さまざまな問題が連鎖的に立ち現れてくる点にあります。
この作品は、ソクラテス的な問いの方法から、後に展開されるプラトン独自の哲学へと向かう過渡期の記録でもあります。その意味で、『メノン』は「本格的なプラトン哲学の入口」に立つ一冊だと言えるでしょう。
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おわりに:答えよりも問いを持ち帰る
『メノン』を読み終えたとき、多くの読者は明確な答えよりも、いくつもの新しい問いを手にすることになります。しかし、それこそがこの対話篇の狙いです。
「徳とは何か?」
「知っているとはどういうことか?」
「自分は本当に考えて生きているのか?」
こうした問いを自分自身に向けて考え始めたとき、私たちはすでに、ソクラテス的な哲学の実践に足を踏み入れているのかもしれません。
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