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2021年3Q(7~9月)を振り返る

7月

フェミニズムの現在地

哲学者のジョルジョ・アガンベン曰く。

人間の尊厳はまさに不要不急にある

しかしながら、その不要不急はリスク回避性向とコスパ思考の下で削られ続け、そして今般のパンデミックで息の根を止められつつある。

パンデミック以前に限らず、もっと前ならば責務から逃走しようが、それなりにやっていけるだけの余裕が社会にあったのかもしれないが、そのようなリソースの余裕は年々減っていった。

その結果としてフェミニズムへのバックラッシュと呼ぶべき現象が起きているのかもしれない。

フェミニズムとは社会へのタダ乗りを正当化する偽理論だからだ。

見たいものしか見ない

エコーチェンバー現象の一つの表れでもあるし、そういう御都合主義で社会が回るわけでもなく、いずれは行き詰まる。

キャンセル・カルチャーの時代へ

3月に続いてキャンセル・カルチャー発動。これが意味することは重大だ。

価値よりも論破

何かしらの規範・基準を内在化してそれに従うよりも、その時々の情勢や空気を読んで反応していくやりかたが現状適応的である。
そういう"空虚"な時代の偶像が西村博之なのかもしれない。

オリンピックに思うこと

小山晃弘(狂)氏曰く。

今回の東京オリンピックはまごうことなく自民党によって牽引された祭典だが、その自民党ですらも既に「国家」なる幻想を信じなくなっているのではないか、自分たちの利益と権力基盤だけを守ることに汲々とする個人主義に染められ切っているのではないか。そんな気持ちが湧いてくる。

政権の責任能力自体が怪しい。2009年に非自民政権としての民主党政権が誕生した頃、宮台真司は「任せる政治から引き受ける政治へのシフトが必要」と主張したが、その答え合わせを見ているかのようだ。

そして別稿でメロンダウト氏はこう指摘する。

ようするに無謬でありつづけるために事前のセキュリティーに躍起になっているのが自民政権のそれであった。
思い返すに、このような「態度」は何年も前から顕在化していたのである。今井絵理子氏がものすごく素朴に「批判なき政治」と発言したことがあった。あれは何かの冗談だと当時は思ったものだけれど、今となってみれば、自民政権の態度を如実に表しているものだった。とにかく批判を回避するためであればなんでもする。批判なき政治でありつづけるために統計も改竄するし虚偽答弁もする。政権の行動原理は民主主義ではなく批判なきこと、つまり無謬性に完全に依ってしまっていると、もはや断じてしまって良いであろう。

あらゆるところで指摘されていることだが、ようするに「正しいこと」しか言えない社会になりつつある。そのような障壁がありとあらゆるところにたちはだかっている。それは政治の現場においても例外ではない。それが今般のオリンピック騒動によって顕在化した最たるものだと言えるだろう。

「間違えられない」という減点法で評価される風潮、それがキャンセル・カルチャーの時代である。

自由からの逃走2.0

1月のスレッドを思い出したかのごとく再論。

そして7月末に別の形で触れることになる。

8月

「総研ひとり」開始

この月から本格的にnoteでマガジン「総研ひとり」を始める。
初回からこれである。

裏ジェンダー論のようなシリーズが続くことになる。

小田急線無差別殺傷事件

これはホント、バカ発見器だった。
"フェミサイド"と騒いでいた連中は、10人の被害者のことはどう思っていたのだろうか?

母親論

実は自分は母親の、母親自身が母親の実家から持ち込んだ精神的なゴタゴタの悪影響を受けている自覚がある。そういうバックグラウンドがあったので、このツイートとリプが書けたのだと思う。

母親のダメさ加減は子供に反映される。

そして自分の母親絡みの問題が再び。
当人は可哀想でしかないのだが、子は母親の所有物であり作品、という世界観の人間であるようだ。
残念ながら。

9月

排除型社会を考える

どちらもタイトルだけ見ると無関係なように見えるが、排除型社会という同一のキーワードで語れるテーマである。

女性の女性による女性のための文化

女児アニメ~少女マンガと呼ばれるジャンルの在り方が変化してきたことを指摘しつつ、世間一般の性的な記号、セックスアピールのベクトルに対する認識が間違っていることを指摘した。

ボディコンの荒木久美子師匠、森高千里、セーラームーンの登場から「男性目線を媒介せずに女の子が女の子の視線だけを意識するゲーム」の時代に入ったことは、改めて強調したい。


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