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2022年8月を振り返る

物事はすんなりいかないものであるし、自分のコントロール下にない他人の事情のケアなんて不可能。

7月に過労で"自爆"してしまった、ある意味可哀想な人が身辺に出てしまったので、その思いを強くする。

最後に顔を見た時なんて、どう見ても鬱状態にしか見えなかった。

何とも言いようのない出来事であったが、仕事面も含めてセルフコントロールができていること、それが今時の危機管理なのかもしれない。

今月のテーマ:女性表象の問題

とにかく8月の一番のテーマは"女性と表現"の問題であった。

そもそもロスジェネ世代は、氷河期から成り上がったか否か、という分断がまずありますし(男性でも「勝ち組・負け組」と普通に言いますしね)、人口も多いので一枚岩でないことは確かでしょう。
とはいえ「コギャル前」と「コギャル後」では明らかに女子の表象が違うんですよ。セーラームーンと初代プリキュアの学校制服を見れば一目瞭然です。プリキュアでは作品によってはギャルゲにしかないような構造の制服まであります。ときメモの制服も初代と2で露骨に違う。
私が中高生の頃は「コギャル」最末期だったので、その頃に再放送されていた昭和の学園ドラマを見たときに、制服の違いに驚愕した思い出があります。

二次元オタク文化を敵視する草の根女性が40〜50代に多いことに関する一考察|ウィックジェイ(K/G40xWlKJ) #note https://note.com/k_g40xwikj/n/neea31df63a5d
のウィックジェイ(K/G40xWlKJ)氏のコメント

言われてみれば確かにそうだ。
少女漫画とギャルゲが見た目で区別できない、と言えばわかるだろうか。
その表象の変化については、個人的にも思うところがある。

援助交際、コギャル・コマダム、打算的恋愛…そのようなキーワードが出回った1990年代中盤に加えて、2010年代前半にもある種の画期があるように思える。

それでは1990年代前半を振り返ってみるとどうだったか。

ボディコンの荒木久美子師匠、森高千里、セーラームーンの登場から「男性目線を媒介せずに女の子が女の子の視線だけを意識するゲーム」が始まった時代だろう。

しかしながら女性が自身の性的魅力を自身のものとして扱える程度には女性解放が進んだことの暗黒面は、世代や環境、階級、身分による女というくくりの中での格差の露呈ではなかったのか。

言い換えれば「他人の自由が許せない」人間が炙り出されたとも言える。

そして表象という観点ではもう一つの論点の存在に気づいた。

現実の問題、男らしさ・女らしさというよりも、持って生まれた生物的な身体を前提に本人の好み(フェチ)を乗っけていくスタイルに忠実なのが女性、という印象すらある。

上掲拙稿より

2次元の世界ではかわいいとか美人というのは正義なので、そこには性別というものは入ってこない。

上掲拙稿より

単に性差を無くすというよりは、社会的文脈の無関連化や性の入れ替え可能な記号化、そして現実の虚構化をもたらす一つの観念が「かわいい」だからだ。

上掲拙稿より

従来のジェンダー論で言われるような形とは異なる社会構築主義的な"性"というものが、"二次元"の世界に存在するのではないか。

"二次元"の世界では、かわいいとか美人というのは、現実社会におけるジェンダーと同じ機能、役割を果たしているのではないか。

繁華街や商業地域に行くと、少しおしゃれ着のような服を着た女性2人組が、あたかもデートの如く行動しているさまを見かけるが、仕草や行動を見ていると、ここにも"彼氏"役と"彼女"役が分かれているように見える。

こういう光景を見ると、ジェンダーとは確かに社会構築主義の産物というのが理解できる。

Twitterのおさらい

社会の汎システム化がカルトの付け入る隙を産む

オウム事件の少し前から根本的な問題は変わっていない。
どう見ても狙撃犯の"思う壺"なんだよなぁ…

カッコつけのために女の味方をして自滅した男

シュナムル氏とりゅうちぇる氏。
両名とも社会の徒花だったのかもしれない。

いじめで被害者が死ぬと人生が詰む話

これはマジでそう思うわけである。
今はまだ寸止めで逃げられるが、そのうち訴訟社会化が進んだら、この常識も変わるだろう。

以前に山形マット死事件を取り上げたときはこう指摘した。

統治権力が信用できない社会

補助線を引くとすれば、総"陰キャ"社会と呼ぶべきか。

そして社会学で言うところの「勝ち組・負け組」の分断が生まれる。

その結果、勝ち組の勝ち組による勝ち組のための社会になっていく。

雑感

女性表象の問題は、実体験を補助線にすればするほど、教科書的なジェンダーの枠組みの無効性が露呈してくる。

古くから女児アニメや少女漫画というカテゴリーというか領分の中で培われてきた表現から派生した"萌え"が、再び女児アニメや少女漫画と融合していくように見える現象は1990年代末から確かに存在した。

そして1990年代末までは「地位の優劣を社会の外に出ることで無化する」という心構えがあった。

歳の差恋愛、教師と教え子の恋愛、同性愛、異種族間の恋…等々の描写は、1990年代の少女漫画の一つの売りであった印象がある。

これが2000年代に入ると、「男性目線を媒介せずに女の子が女の子の視線だけを意識するゲーム」事態の変質が起きた。

それが妙にあざとい女児アニメや百合ジャンルの市民権獲得という形で現れたのだろう。

また、ジェンダー・クレーマーは「他人の自由が許せない」連中である、という点は、今後とも言い続けていくつもりだ。

まさに今時のフェミニストの主張は「負け犬の遠吠え」である、と言い続けなければならないわけだ。

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