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セーラームーン30年に思うこと

東京MXで再放送が始まった「セーラームーン」、30周年記念企画とのことだが、30年前という時代を意識してしまうのは人文学的感覚のなせる業か💦

30年前の自分は小学生だったわけで、小学校のクラスメート女子は結構見ていたようだ。その流れかどうかは分からないが「カードキャプターさくら」あたりまでカバーしていた子もいた、というのを成人してから集まった際に本人から聞かされたのは何とやら。

ちなみに自分は裏番組の平成教育委員会を見ていたのだが。

当時から「性的過ぎる」という話もあったが、今となっては「この程度」の表現に見える。

流石に土曜の夜7時というゴールデンタイムが放送時間帯だったことを思えば、良くも悪くも当時の放送コードも「その程度」だったとも言える。

1992年という交差点

1992年と言えば、バブル崩壊直後の時代であり、経済的には暗かったのかもしれないが、一方で妙に開放的な明るい空気が漂っていた頃だ。

そして元号が平成に代わってから4年目、それまでの昭和という時代から少しずつ転換していく中で、新しい時代の息吹が芽生えていた。

ちょうど宮台真司氏が「援助交際」なる言葉を流行らせる直前の、ちょうど渋谷でフィールドワークしていた頃でもある。

異性への期待が消失したという1986年頃からのトレンド、宮台用語で言うところの自己関与化は、確かに作品に現れていた。

自己関与化(a.k.a. 異性への期待の消失もしくは性的退却)と「社会の外」

一つは、見た目上の「同性愛」描写だ。件の「百合のカリスマ」に限らず。

もう一つ指摘しておきたいのは、まだ当時は「社会の外」というものの存在が信じられていた時代だった点だ。

「前世からの恋」という構図が「社会の外」を象徴する。そして「同性愛」というタブーを使って「社会」の「外」に出るという姿勢。

これがセーラームーンに見え隠れする自己関与化という要素である。

1997年の放送終了に見え隠れするもの

ちょうど興味深いツイートがある。

世間的には飽きられただの、長期シリーズ化して途中から見始めるとついていけなくなるので脱落者が増えてきてダメになっただの、という見方が多いが、もう一つの解釈として「微熱の消失」現象も考えらえるだろう。

そして「社会の外」も消えた。

新々宗教ブームの終わりと重なっているわけだが、越境による包括的承認の獲得が果しえぬ夢でしかない、との認識が社会に膾炙したがゆえに、セーラームーンの世界観が受容されなくなってしまったという変化が起きる。

大人と学生の恋愛や同性愛が「社会の外に出る性愛」だった時代から、大人と学生の恋愛は単なる禁止事項に、同性愛は社会の中でも認められるもの転換してしまった今、リメイク版では原作のダークファンタジー要素を前面に出さざるを得ないというのは、「性的退却」の結果だろう。

一方で「女性(キャラ)をエロい目で見ている女性」という自己関与化の結果をどう見るのか。

これに補助線を引くとすれば、同時期に森高千里が出てきてボディコンの荒木師匠こと荒木久美子が活躍していたことを思い出そう。

そこのところの議論は以前にもnoteに書いた。

今回の議論にそろえるとすればこうなる。

  1. エロも含めた女性性への社会の抑圧が弱まってきた

  2. 「性的であること」がネガティブ評価にならない

  3. 女性自身が女性の性的なものを受容、消費する

1.の論点は1960年代以降のウーマンリブ運動、別名女権拡張運動の一つの成果であり、それに伴って2.の変化が起きる。

そして3.は自己関与化だ。これは「男の目線を経由しない」ということだ。

これが深化していった結果の一例がこれだ。

このような少女趣味そのものは古くから存在していたが、ある一定の年齢以降は卒業すべし、という"社会的規範"のような縛りが一時期弱まっていた時代でもある。

これが最近反転してきているように思えるのだが、それは別の話。

おまけ

興味深い指摘であるし、原作者がデビルマン好きということは、同時期の他の永井豪作品も触れていたはずだ。

キューティーハニーは勿論のこと、マジンガーZに出てきたアフロダイAあたりも影響があるんじゃないか、と個人的に睨んでいる。

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