おしゃべりで「異なるあなたとわたし」を広げていくためにも「弱さ」が大事なんじゃないか|『私たちのジェンダー入門』を読んで
こんにちは、やまのてです。
桃山商事の清田隆之さんによる『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門』(朝日出版社)を読みました。
この本では著者の清田さんが、日常の中や様々な作品の中で男性性や女性性に関わって感じたことなどをまとめたエッセイ集です。
無自覚で居れてしまう恐ろしさ
女性の視点から見ると、男性の男性擁護がなんとも無自覚に行われて話にならない感じや、女性から見た社会の恐ろしさに対する自分の無自覚さなどが浮き彫りになりました。
男が平気でやれることを、女性がやれるわけではない、というよく考えれば当たり前のことが、言われるまでわからない怖さというものを感じています。
女の子2人の父であり、姉と妹を持つ男だとしても、全然わかってない。
時代錯誤、無自覚というレッテルを張るのにあまりにも自分がふさわしいことが白日の下にさらされてしまった感じがします。
そういう立場であっても、わからない、思いつかない、配慮できないという現実があるのですね…。
改めて、一生学び続けないとだめだなと思いました。
強くならないことから始めてみる
著者は、こうした無自覚や無理解に対して「おしゃべりしようよ」と提案します。
私が思うのは、おしゃべりを使うためには、お互いが「自分の価値観をゆらぐものであると思っている必要がある」ということです。
そして、難しいのは、現代社会においては「自分の価値を揺らがせること」は弱さにつながること。
個としての強さが各自に求められる資本主義社会では、揺らがない個としてどこでも誰とでもうまく働くことが求められるのに、それをあえて拒絶していくことを提案している。
これは簡単ではなく、タフなことだと思う。
でもそのタフさの先に、「あなたの話」を聞き、「わたしの話」を話す、というやり取りの向こう側が立ち上がってくるのではないかと感じた。
そうやって開示しあいながら、お互いに作用しあいながら問題を解きほぐしていこうという著者の考えに、私は賛同したいと思いました。
(見方によっては強さが様々な問題を生み出しているといえる部分もありそうだ)
別に男性性とか、女性性とかだけではなく、目の前の人が自分と違うものの感じ方をしている、っていうことをおしゃべりを通じて自分に取り入れ、その輪を広げていくっていうことなのだと私は解釈しました。
そうであるならば、おしゃべりとは生活であり、ケアであり、そして政治でもあるのかもしれません。
弱さから見るホモソーシャルの変化
こうした弱さの発露みたいなものが、多数紹介されるのと合わせて、男性たちも男性性によって傷ついている事例などにも言及がありました。
私も完全に忘れていましたが、自分だってホモソーシャルに傷つけられ、失望させられ、今に至っていることが思い出されました。
そうした傷ついた大人たちを見てきた令和の若者たちが、ホモソーシャルの「強さ」の気持ち悪さを乗り越えていく過渡期の片りんみたいなものが様々な作品で断ち現れてきているのかもしれません。
一方でそれをいいことだけではないのじゃないか、と怪しく見ようとする自分もいるのを感じます。
果たしてホモソーシャルや家父長制的なものが、すべてにおいて悪だったのか、というとそう断罪もしきれないもやもやしたものが自分の中に残っている感じもする。
これはいったい何なのだろう?
未練がましいだけなのだろうか?
それとも結論を先送りにしたいのか?
あるいは現代の問題を、今見えている変化と相関させたい気持ちもあるのかもしれない。
一つずつ潰しかないよな、と思います。
ホモソーシャルってじゃあどんなメリットがあったんだよ?とか、家父長制が失われることで生じる社会の損失は?みたいなことを。
全部一人ではできないから、やっぱりそういうことを考えてくれる人が働ける場が必要で、たぶん大学ってのはそういう意味で必要な機関(器官)ともいえるかもしれない。
さっきも書いたけど、引き続き「本、読も」と思わせてくれる本でした。
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この社会で「弱くいることの難しさやしんどさ」をたくさん書き表してくれている本があるのでご紹介。
井上慎平さんの『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』
記事も書いたので、よかったらこっちも見てね!
