深淵の大魔道士 第7話「ハイネ」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ



第7話
白い天井を見上げた時、ラビー・クリステイルは最初、自分がまだ燃えているのかと思った。
胸の奥に、火がある。
けれどそれは、あの時のように命を削る苦しさではなかった。
細く、あたたかく、静かに自分を繋ぎとめている火だった。
「……ここ、は……」
掠れた声が漏れる。
視界の端で、何かが淡く揺れた。
顔を向けると、ベッドの傍らに一羽の鳥がいた。
金と紅を宿した、美しい羽。
神話の中から抜け出してきたみたいな、気高く静かな姿。
不死鳥。
ラビーが目を開けたことに気づくと、不死鳥は小さく首を傾けた。
その金の瞳が、心配そうにラビーを覗き込む。

翼がかすかに震える。
羽のあいだから零れたやわらかな火の粒が、糸のように細くラビーの胸元へ流れ込んでいった。
「……っ」
胸の奥の火が、こくりと脈打つ。
不死鳥は今も、ラビーへ魔力を注ぎ続けていた。
尽きかけた彼女の火を絶やさないように。
命そのものを、そっと支え続けるように。
生きている。
そう理解した瞬間、ラビーは悔しくなった。
自分の火で立っているのではない。
誰かに繋ぎとめられて、ここにいる。
それがありがたいことだと分かる。
分かるからこそ、悔しかった。
「ラビーさん!」
すぐ横から、泣きそうな声がした。
フラワー・マンディが、今にも泣き出しそうな顔で身を乗り出している。
「よかった……ほんとに、よかった……!」
「……そんな顔をしないでくださる?」
そう言ったつもりだった。
けれど声は思ったより弱くて、ラビー自身が少しだけ腹立たしくなった。
フラワーは目元を拭いながら、何度も頷く。
「ごめんなさい。でも、本当に心配で……」
「泣くほどのことではありませんわ」
「泣くほどのことでした」
即答されて、ラビーは言葉に詰まった。
フラワーは弱い。
少し前まで、ラビーはそう思っていた。
花を咲かせるだけの少女。
戦場に立つには優しすぎる少女。
守られる側の人間。
けれど今、ラビーの目の前にいるフラワーは、泣きそうなのに逃げていなかった。
あの校庭で龍を止めた花のように。
自分の知らない強さで、そこにいた。
医務塔の個室。
窓には幾重もの銀の術式が走っている。
扉にも、床にも、天井にも、淡い結界紋様が刻まれていた。
ただの治療室ではない。
守られている。
いや、閉じ込められていると言った方が近いのかもしれない。
「……ずいぶん厳重ですのね」
「そうだね」
椅子に座っていたメルスティンが、穏やかに答えた。
いつもの軽さはある。
けれど、その奥に疲れが滲んでいるのを、ラビーは見逃さなかった。
「フレアが一度ここまで入り込んだからね。結界は張り直した。さらに重ねてある」
フレア。
その名前を聞いた瞬間、ラビーの胸の奥で火が小さく揺れた。
青い炎。
黒いランタン。
紫の火。
そして、自分の焔を贄にして笑った女。
「あの女は……」
「消えたよ。今は追えない」
メルスティンは静かに言う。
「でも、ラビーさん。今はまだ追うことを考えない方がいい」
「わたくしが、また負けるからですの?」
「今は、生きていることを優先してほしいからだよ」
その言い方が、妙に優しくて。
それがかえって、ラビーの胸に刺さった。
自分は、本当に死にかけたのだ。
不死鳥がいなければ。
フラワーが花珠を作らなければ。
メルスティンが時間を支えなければ。
太陽王が不死鳥の羽を持って来なければ。
そして、ハイネがあの黒い魔法で全てを繋ぎ止めなければ。
自分は、ここにはいなかった。
「……ハイネは?」
ラビーは、ようやくその名前を口にした。
部屋の空気が、わずかに変わる。
フラワーが息を呑む。
メルスティンは、ほんの少しだけ視線を落とした。
ラビーはその反応を見て、嫌な予感がした。
「何ですの、その顔は」
「大丈夫だよ」
「大丈夫な人に向ける顔ではありませんわ」
メルスティンは苦笑した。
それから、膝の上に置かれた黒布へ視線を落とす。
そこには、一冊の黒い魔導書があった。

黒い表紙。
鈍く光る金属の留め具。
表面には、読むだけで目の奥が軋みそうな魔導文字が刻まれている。
ラビーは、それを見た瞬間に分かった。
あの魔導書だ。
校庭で、深淵を開いていた本。
フレアとの戦いで、ハイネが庇った本。
そして、ハイネの身体が崩れたあとにも、ひとりでに浮かび上がっていた本。
「……どういうことですの」
声が硬くなった。
メルスティンは、黒い魔導書にそっと手を置く。
「これが、今のハイネちゃんだよ」
意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
「冗談にしては、趣味が悪いですわ」
「冗談ならよかったんだけどね」
メルスティンの声は静かだった。
「正確に言うなら、これはハイネちゃんの本体に一番近いものだ」
フラワーは唇をきゅっと結んでいる。
彼女はすでに知っていたのだろう。
けれど、それでも黒い魔導書を前にすると、痛みを堪えるような顔をしていた。
ラビーは不死鳥の羽を握りしめる。
「では、わたくしたちが見ていたハイネは何ですの」
「魔導書が外へ出している仮初めの身体」
メルスティンは答えた。
「本人ではある。けれど、完全な本人ではない。あの子の実体と魔力の大半は、この本の奥――深淵の底に沈んでいる」
部屋の空気が、冷たくなった気がした。
「沈んでいる……?」
「うん」
メルスティンは少しだけ目を伏せる。
「今から少し、昔の話をしようか。ハイネちゃんが、どうしてこんな形で生きているのか。その話だ」
ラビーは黙った。
聞きたくない気持ちもあった。
けれど、目を逸らす方がもっと腹立たしかった。
自分は知らなかった。
ハイネの正体も。
あの深淵の代償も。
フレアとの関係も。
知らないまま負けた。
なら、今度は知らないままでいたくない。
「聞きますわ」
ラビーは言った。
メルスティンは小さく頷いた。
「百年以上前。この国には、一つの時代そのものみたいな四人がいた」
窓の外で風が鳴る。
「花の大魔道へ至ったサクラ。
十五にして魔法理論の歴史を書き換えたクロノス。
生まれながらに光の大賢者の資質を持っていたヒュンケル。
そして――全ての魔導書を読む力と、底の見えない魔力を持っていたハイネ」
メルスティンの声には、敬意があった。
「後世では、まとめてM4と呼ばれることもある。Miracle Four。奇跡の四人」

ラビーはその名を知っていた。
教科書にも載っている。
魔道史に残る、伝説級の天才たち。
だが、そこにハイネの名前はなかったはずだ。
「ハイネの名前は、記録にほとんど残っていませんわ」
「残さなかったんだよ」
メルスティンは言った。
「あの子自身が望まなかった。深淵の大魔道士という二つ名だけが残り、ハイネ・ベルセルクという名前は歴史の表から薄れていった」
「なぜですの」
「本人にとって、あの力は栄光じゃなかったから」
その答えは、重かった。
ラビーは、校庭で見た深淵を思い出す。
黒紫の魔法陣。
無数の手。
龍族を奈落へ引きずり込む力。
あれは確かに、圧倒的だった。
美しいというより、恐ろしい。
強いというより、世界の底が開いたような力。
「ハイネちゃんはね、十五の頃から少し異質だった」
メルスティンは遠い目をした。
「あの子は全ての魔導書を読めた。古代語も、禁呪も、封印された術式も、本を開けば理解できた。しかも魔力量は底が見えない。普通なら、国家が抱え込むような存在だ」
「それなら、なぜ……」
言いかけて、ラビーは止まった。
なぜ、あんな落ちこぼれみたいに学校へ通っているのか。
そう聞こうとした自分が、ひどく浅く思えたからだ。
ハイネは力を隠しているのだと思っていた。
あるいは、周囲を欺いているのだと。
違ったのかもしれない。
隠しているのではなく、奪われている。
そう思った瞬間、ラビーの胸の奥で火が小さく軋んだ。
メルスティンは、黒い魔導書を見つめたまま続ける。
「昔のハイネちゃんには、まだ家があった」
静かな声だった。
「父と母がいて、食卓があって、面倒くさそうにしながらも帰る場所があった」
家。
父。
母。
食卓。
それは、ラビーにも分かる言葉だった。
「母親は、焔に優れた魔道士だった。厳しくて、不器用で、でもハイネちゃんをちゃんと愛していた」
焔。
その言葉に、ラビーはわずかに目を上げた。
「父親は、古代魔法と魔導書解読を専門にする学者だった。戦う人ではなかったけれど、研究者としてはとても優秀だった」
「ハイネの母親も、焔を……」
「うん」
メルスティンは頷いた。
「だからかもしれないね。ハイネちゃんは、火を見る時だけ、少し複雑な顔をする」
ラビーは何も言えなかった。
自分の焔を見て、ハイネは何を思っていたのだろう。
母親を思い出したのか。
フレアを思い出したのか。
それとも、また誰かが火に飲まれる未来を見ていたのか。
「その時間を壊したのが、龍族だった」
メルスティンの声が、少しだけ低くなる。
「大侵攻の中で、母親は死んだ。討たれたんじゃない。喰われた」
フラワーが息を呑む。
ラビーも、指先に力が入った。
「救援が間に合った時には、もう原形もほとんど残っていなかったと聞いている」
部屋の中が静まり返る。
「その日を境に、父親は壊れた」
メルスティンは続ける。
「最初は泣いていた。妻の名を呼んで、遺されたローブを抱きしめて、食卓で声もなく泣いていた。でも、それは長く続かなかった」
窓の外で、結界紋様が淡く揺れた。
「ある日を境に、父親は母親の話をしなくなった。代わりに語るようになったのは、龍をどう沈めるかだった」
ラビーの胸の奥が、少し冷えた。
「壁には龍の骨格図が貼られ、机には討龍術式の草稿が積まれ、床には夜通し書き殴った魔法式が散らばっていた。食事の席でも、眠る前でも、父親の口から出るのは、龍を滅ぼす方法ばかりだった」
フラワーが小さく呟く。
「それは……悲しみ、だったんでしょうか」
「最初はね」
メルスティンは答える。
「でも悲しみは、行き場を失うと別のものになる」
その言葉が、ラビーの中に残った。
行き場を失った火。
フレアの言葉と、どこかで重なる。
自分の胸にも、同じものがある。
負けたままでは終われないという熱。
奪われたままでは許せないという火。
もしそれが行き場を失えば、何になるのだろう。
「父親はもう、母を失った夫ではなくなっていた」
メルスティンの声は、責めるというより、悼むようだった。
「奪われたものを取り返せないまま、奪ったものだけを見続ける人になっていた」
ハイネは、そのそばにいたのだ。
十五歳の少女として。
母を失い、父が変わっていくのを見ながら。
それでも、きっと何もできずに。
「そして、父親は消えた」
「消えた?」
「何も言わずに家を出た。研究資料も、娘も、全部置いてね」
メルスティンは苦笑した。
けれど、その笑みには怒りよりも疲れがあった。
「残されたハイネちゃんは、うちに来た。まあ、それ以来、当然みたいな顔で居座っているわけだけど」
「……百年以上?」
「そう。百年単位の居候だね」
いつもの軽口だった。
だが、誰も笑わなかった。
「父親が戻ってきたのは、その二年後だった」
空気がまた、重くなる。
「十七歳になったハイネちゃんの前に、父親は突然帰ってきた」
メルスティンの視線が、膝の上の黒い魔導書へ落ちる。
「その腕に、この本を抱えて」

ラビーは、黒い魔導書を見る。
ただ閉じられているだけなのに、見ていると胸の奥がざわつく。
本という形をしているだけで、本ではない。
そんな気配がある。
「見た瞬間に、禁忌だと分かった」
メルスティンの声が低くなる。
「触れれば魔力がざわつく。視線を向ければ、向こうからも見返されている気がする。ただそこにあるだけで、部屋の空気が歪む。あれは書物じゃなかった」
少し間を置いて、彼は言った。
「傷口の匂いを嗅ぎつけて寄ってくる、底のない何かだった」
フラワーの顔色が悪くなる。
ラビーも、自然と息を潜めていた。
「父親は封印を解こうとした。食事も睡眠も削って、ただその一冊に没頭した」
――これで終わらせられる。
――これさえ解けば、龍を沈められる。
――もう何も奪わせない。
メルスティンは、父親の言葉を静かになぞった。
「それは研究者の声じゃなかった。復讐だけで立っている人間の声だった」
ラビーは唇を噛む。
復讐。
その言葉に、自分の胸の火が少しだけ反応した。
フレアに奪われた火。
自分の敗北。
届かなかった焔。
もし今、自分の前に、全てを焼き尽くせる力が差し出されたら。
本当に拒めるのか。
ラビーは、答えられなかった。
「数ヶ月の解呪の末、封印は解かれた」
メルスティンは、黒い魔導書を見つめたまま言う。
「そして、その瞬間に父親は呑まれた」
部屋の温度が下がったような気がした。
「悲鳴は短かった。黒い紙の海みたいな闇が父親の身体へ絡みつき、そのまま深淵の底へ引きずり込んでいった」
「ハイネさんは……」
フラワーの声が震える。
「助けようとした」
メルスティンは答えた。
「父親を助けようとして、手を伸ばした。そして一緒に呑まれた」
沈黙。
それだけで、どれほど恐ろしい光景だったのかが伝わった。

「そこで、深淵は父親ではなく、ハイネちゃんを選んだ」
「選んだ……?」
「父親では足りなかった。魔力量も、適性も、器も。けれどハイネちゃんなら足りた」
メルスティンの声が静かに落ちる。
「全ての魔導書を読む力。底なしの魔力。そして、奪われた痛み」
黒い魔導書の留め具が、かすかに鳴った。
かちり、と。

誰も触れていないのに。
メルスティンの指が止まる。
フラワーが小さく息を呑む。
ラビーは、その音から目を逸らせなかった。
まるで、今の言葉を嫌がったみたいだった。
あるいは、聞きたくない話を無理やり聞かされて、奥で誰かが身じろぎしたみたいに。
メルスティンは一度だけ黒い魔導書を見下ろし、少し声を落とした。
「ごめんね、ハイネちゃん。でも、言わないといけない」
返事はない。
けれど黒い表紙の奥で、何かが沈黙を深くした気がした。
「深淵にとって、あの子は都合がよすぎた」
ラビーは黒い魔導書を睨む。
「それは、選んだのではなく、喰らっただけではありませんの」
メルスティンは少しだけ目を伏せた。
「たぶん、そうだね」
黒い魔導書は何も言わない。
けれど、その沈黙がかえって不気味だった。
「深淵は、ハイネちゃんの魔力のほとんどと実体を奪った。代わりに、あの子を主として外へ出すようになった」
「代わりに?」
「黒い魔導書が作る、仮初めの身体だよ」
メルスティンは、魔導書の表紙に指を置く。
「今、君たちが見ているハイネちゃんの身体は、本物ではあるけれど、本体ではない。深淵の底に沈んでいる実体を、魔導書が外へ投影しているようなものだ」
フラワーの瞳が揺れる。
「だから、ハイネさんは……」
「深淵以外の魔法がほとんど使えない」
メルスティンは頷いた。
「才能がないんじゃない。才能も魔力も、ほとんどこの本に握られている。外へ出せる力は、ほんのわずかだ。だから飛空魔法くらいしかまともに使えない」
ラビーは、学校の窓際で眠っていたハイネを思い出す。
体力測定三十点。
魔法適性三十点。
授業中は居眠りばかり。
飛ぶことだけは得意な、校長のお気に入りの落ちこぼれ。
あれは、落ちこぼれだったのではない。
力を奪われていたのだ。
「百八十年以上」
メルスティンは言った。
「ハイネちゃんの本体は、深淵の底に沈んでいる」
フラワーは、胸元の白い花のブローチを両手で包んだ。
ハイネに見つけてもらった日のことを思い出していた。
誰にも選ばれなかった自分に、たった一票を入れてくれた人。
花魔法を、役に立たないものだと笑わなかった人。
その人が、百年以上も帰れない場所に沈んでいる。
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
怒りではなかった。
悔しさでもなかった。
ただ、帰る場所を作ると託された光が、今はあまりにも小さく感じられた。
百八十年。
その長さを、ラビーはすぐには想像できなかった。
人なら何度も生まれ、死ぬ。
国の形さえ変わる。
歴史になってしまうほどの時間。
その間、ハイネはずっと、深淵の底にいた。
「眠っている、とは少し違う」
メルスティンは静かに続ける。
「眠れば時間は過ぎる。けれど深淵の底では、時間は腐るだけで進まない。何度春が来ても、何度人が生まれて死んでも、あの子の本体だけは、あの日の闇に取り残されたままだ」
フラワーの目から、涙が落ちた。
ラビーは泣かなかった。
泣けなかった。
ただ、胸の奥で火がひどく静かになっていた。
自分は、ハイネに負けたと思っていた。
あの深淵に届かなかったことが悔しかった。
守られたことが屈辱だった。
けれど、あの力は、ハイネが望んで得たものではない。
母を奪われ。
父を奪われ。
自分自身まで奪われて。
それでも世界を守るために使われてきた力。
「……助ける方法は、ないんですの」
気づけば、ラビーはそう訊いていた。
メルスティンは少しだけ黙った。
その沈黙だけで、答えは分かってしまった。
「少なくとも、今の時代にはない」
そう言ったメルスティンの声は、少しだけ乾いていた。
何度も同じ答えに戻ってきた人の声だった。
探して、試して、諦めきれずに、けれど救えなかった人の声。
フラワーが俯く。
「魔導書を開き、深淵の底に沈んだハイネちゃんを完全に救い出せる者は、今はいない。下手に触れば、こちらが呑まれる。最悪、ハイネちゃんの仮初めの身体すら保てなくなる」
「だから……今は本の中で眠っているんですか」
フラワーが問う。
「うん。フレアとの戦いで身体を一度崩した。再構築はできたけれど、負担が大きかった。今は実体を解いて、本の中で休ませている」
ラビーは、黒い魔導書を見る。
この中に、ハイネがいる。
そう思うと、ただの本には見えなかった。
怖い。
それは変わらない。
でも、怖いだけではなくなってしまった。
「……ふざけていますわね」
ラビーの声が、低く落ちる。
メルスティンが顔を上げる。
「何がかな」
「全部ですわ」
ラビーは不死鳥の羽を撫でながら言った。
「母を奪われ、父を奪われ、自分の身体まで奪われて、それでも落ちこぼれのふりをして学校に通っている。人を助けておいて、自分は本の中で眠るしかない。そんなの、あまりにも一方的ですわ」
フラワーが、少し驚いたようにラビーを見る。
ラビーは顔を逸らした。
「勘違いしないでくださる? 同情ではありません。ただ、気に入りませんの」
メルスティンは、小さく笑った。
「それでいいよ」
その時、黒い魔導書の留め具が、もう一度だけ鳴った。
かちり。
先ほどよりも小さく。
けれど、確かに。
ラビーには、それが文句のように聞こえた。
勝手に可哀想だと思うな。
勝手に怒るな。
勝手に理解した気になるな。
そんなふうに、眠っているはずのハイネが、奥から小さく抗議したみたいだった。
ラビーは黒い魔導書を見下ろす。
「……文句があるなら、自分で起きて言いなさい」
フラワーが目を丸くする。
メルスティンも一瞬だけ黙り、それから困ったように笑った。
「ラビーさん、いいね」
「何がですの」
「たぶん、ハイネちゃんにはそれくらいがちょうどいい」
黒い魔導書は、それきり黙った。
けれど、さっきよりも少しだけ、部屋の空気があたたかくなった気がした。
その時だった。
医務塔の壁を走る銀の術式が、かすかに明滅した。
メルスティンの表情が変わる。
軽さが消えた。
懐中時計が開き、銀の針が細かく震える。
「……妙だな」
「何ですの」
ラビーが問う。
メルスティンはすぐには答えなかった。
窓の外。
扉。
天井。
床。
幾重にも重ねられた結界紋様が、ほんのわずかに波打っている。
「フレアがここへ入り込んだ件だけど」
メルスティンは、ゆっくり口を開いた。
「力ずくで突破されたにしては、術式の乱れ方がおかしい」
フラワーの顔色が変わる。
「それって……」
「外から破られたんじゃない」
メルスティンの声は静かだった。
「内側から、結界が一瞬だけ緩められた可能性がある」
部屋の空気が凍った。
「学園の中に、協力者がいるということですの?」
「まだ断定はしない。でも、疑わない理由もない」
不死鳥が、ラビーの傍らで低く羽を震わせた。
まるで警戒するように、金の瞳を扉へ向けている。
フラワーは鞄を握りしめる。
その中には、サクラのフルートがあるのだろう。
ラビーは、胸の奥の火を感じていた。
命は繋がった。
ハイネの過去も知った。
けれど、安心できる場所などどこにもない。
守られているはずの医務塔。
幾重にも張られた結界。
それでも、誰かが内側から扉を開けたのかもしれない。
メルスティンは黒い魔導書を抱え直した。
「今のハイネちゃんは、本の中で眠っている。この状態でまた踏み込まれたら、本当に危ない」
「なら、守ればいいですわ」
ラビーは即答した。
メルスティンが少し驚いたように見る。
「ラビーさん、まだ立つのも危うい状態だよ」
「立てないなら、座ったまま守ります」
不死鳥が、小さく鳴いた。
ラビーはその羽に触れる。
「わたくしは、また守られるだけで終わるつもりはありません」
フラワーも、ゆっくり顔を上げた。
「私も……覚えておきます。ハイネさんのことも、今の話も、ここにいる私たちのことも」
その声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
メルスティンは二人を見た。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「ハイネちゃんは、良い子たちを見つけたね」
黒い魔導書の表紙に、淡い黒紫の光が走った。
ほんの一瞬だった。
けれど、部屋の誰もが見た。
メルスティンが目を細める。
フラワーが息を呑む。
ラビーは、不死鳥の羽を握ったまま、黒い魔導書を見つめる。
それは返事だったのかもしれない。
違う、と言いたかったのかもしれない。
うるさい、と言いたかったのかもしれない。
あるいは、ただ眠りの底で、誰かの声に少しだけ反応しただけかもしれない。
けれど確かに、そこにハイネがいた。
深淵の底に沈んでいても。
本の中で眠っていても。
まだ完全に、消えてはいない。
フラワーは、そっと魔導書へ向かって呼びかけた。
「ハイネさん」
返事はない。
けれど黒い表紙の奥で、ほんのわずかに何かが揺れた気がした。
深淵の底から、こちらを見返すように。
ラビーは小さく息を吐く。
「まったく」
それは呆れたような声だった。
けれど、不思議と少しだけやわらかかった。
「本になっても、手間のかかる人ですわね」
白い部屋に、静寂が戻った。
不死鳥の火だけが、かすかに揺れている。
かつて世界を沈めた深淵の大魔道士。
誰よりも強いと思っていた少女。
その正体は今、一冊の本の中で眠っている。
守られるだけでは終わらない。
ラビーは、不死鳥の羽に触れた。
胸の奥で、まだ頼りない火が揺れている。
けれどその火は、さっきより少しだけ、自分のものに近づいた気がした。
「……起きたら、文句くらい聞いてあげますわ」
少し間を置いて、ラビーは続けた。
「その代わり、今度はわたくしの火も見ていただきます」
返事はない。
けれど黒い魔導書の表紙に、ほんの一瞬だけ、淡い黒紫の光が走った。
それが抗議なのか、返事なのか、ただの揺らぎなのかは分からない。
でも、ラビーは少しだけ口元を緩めた。
その火の余韻だけが、白い部屋に静かに残った。
第8話へつづく。
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