深淵の大魔道士 第3話「残り火」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ|



翌朝、フラワー・マンディは鞄の中を何度も確かめていた。
教科書。
筆記具。
魔法演習用の小型杖。
そして、その奥に布で包んだ一本のフルート。
サクラの聖域で託された、花の大魔道具。
まだ吹いてはいけない。
ハイネにそう言われたから、布で包んでいる。
勝手に鳴らないように。
誰にも見られないように。
そして何より、自分が怖くなって、手放さないように。
「……重い」
重さそのものは大したことがない。
けれど昨日から、胸の奥に何かが乗っていた。
サクラの聖域。
桜の大樹。
メルスティンの献杯。
春へ還っていく龍族。
花びらになって消えたサクラ。
あの光景を思い出すたび、鞄の中のフルートがただの道具ではないことを思い知らされる。
誰かが命を使って残した、春の続き。
そう思うほど、布で包んで隠していることが後ろめたかった。
大切にしているつもりなのに、隠している。
その矛盾が、胸の奥をちくりと刺す。
*
教室に入ると、いつも通りの朝があった。
生徒たちの話し声。
椅子を引く音。
窓から差し込む光。
黒板の前で教材を並べる教師。
昨日見た聖域が嘘みたいに、世界は普通に続いている。
フラワーは席につき、窓際を見た。

ハイネ・ベルセルクは、すでに机に頬をつけて眠っていた。
黒髪を少し乱し、袖の中に片手を入れたまま、舟を漕ぐどころか沈没している。
昨日、サクラの大樹の前で静かに立っていた人と同じとは思えない。
けれど、もう笑えなかった。
あの人は、きっとたくさんのものを知っている。
自分にはまだ触れられない重さも、花の怖さも、深淵の底も。
それでも、こうして学校の窓際で眠っている。
まるで、普通の少女みたいに。
「……普通、なのかな」
呟いた時、隣の席の生徒が声をかけてきた。
「フラワー、どうしたの? 昨日からぼうっとしてない?」
「えっ、あ、ううん。大丈夫」
「ほんと? 顔色悪いよ」
「ちょっと、寝不足かも」
嘘ではない。
昨夜はほとんど眠れなかった。
フルートのこと。
サクラのこと。
ハイネのこと。
自分の花のこと。
昨日までの自分は、花魔法を「役に立たない魔法」だと思っていた。
けれど、今は違う。
役に立たないのではない。
分からないのだ。
花で守るとは、何なのか。
命を繋ぐとは、どういうことなのか。
帰る場所を残すとは、どんな覚悟なのか。
分からないから怖い。
けれど、分からないままでいたくない。
フラワーは鞄の奥にそっと手を触れた。
布越しに、フルートの輪郭が指に当たる。
冷たいはずなのに、なぜか微かにあたたかかった。
*
昼休み。
フラワーはひとり、校舎裏の小さな庭へ向かっていた。
古い石畳と、小さな噴水と、季節外れの花壇。
生徒たちがあまり来ないその場所で、フラワーは噴水のそばに立ち、杖を構えた。
水を集める。
昨日の聖域で感じた命の巡りを思い出しながら、水面へ意識を沈める。
水。
葉。
光。
花は、そのすべてから成る。
ハイネはまだ光を教えてくれない。
フルートも使ってはいけない。
なら今できるのは、目の前にある水と葉の気配を、丁寧に感じ取ることだけだった。
「咲いて」
小さく囁く。
水面に、薄桃色の花が一輪浮かんだ。
けれど次の瞬間、水面が揺れて、花は形を崩した。
「……だめだ」
もう一度。
もう一度。
何度試しても、花は長く保たなかった。
咲くことはできる。
けれど、留められない。
一話の校庭でもそうだった。
花は咲いた。
龍を一瞬だけ止めた。
でも、すぐに焼けた。
守るには、あまりにも脆い。
焦れば焦るほど、水面は乱れる。
水面が乱れるほど、花は形を失う。
まるで、今の自分みたいだった。
「焦ってるね」
背後から声がした。
フラワーはびくっと肩を跳ねさせて振り返る。
そこにいたのは、メルスティンだった。
いつもの長い外套。
穏やかな微笑み。
その手元には、銀の懐中時計が握られている。
「こ、校長先生……!」
「ここではメルスティンでいいよ」
「い、いえ、学校なので……」
「真面目だねえ」
メルスティンは笑いながら、噴水の縁に腰掛けた。
「少し話せるかな?」
フラワーは小さく頷く。
「昨日から、ずっと抱えている顔をしてる」
「……抱えている、ですか」
「うん。フルートだけじゃなくて、サクラのことも、ハイネちゃんのことも、自分の花のことも」
図星だった。
「私……どうしたらいいのか、分からなくて」
「うん」
「サクラさんの花は、百年も聖域を守っていました。でも私の花は、すぐ燃えてしまう。龍を止められたのも、一瞬だけでした」
自分で言いながら、胸が苦しくなる。
「ハイネさんは、私に才能があるって言ってくれました。でも、そう言われるほど、自分が遠く感じます」
メルスティンは黙って聞いていた。
相槌も、励ましも、すぐにはくれない。
その静けさが、逆に話しやすかった。
「サクラさんのフルートも……怖いです。嬉しくないわけじゃないんです。でも、私が持っていいものなのか、分からない」
「持っていいかどうかを、今すぐ決めなくてもいいよ」
「え?」
「託されたものって、受け取った瞬間に全部分かるわけじゃない。むしろ、分からないまま持ち続ける時間の方が長い」
噴水の水面に、風が触れる。
小さな波紋が広がった。
「サクラも、最初から自分の花の意味を分かっていたわけじゃないよ。よく失敗してた。咲かせすぎて部屋を花で埋めたり、泣いてる子を慰めようとして花粉でくしゃみさせたり」
フラワーは思わず瞬きをした。
「そんなことが……?」
「あるよ。伝説になる前の人間には、だいたい恥ずかしい時代がある」
メルスティンは少し笑った。
けれど、その笑みはすぐ静かなものへ変わる。
「でも、サクラは忘れなかった。失敗した時のことも、誰かが笑ったことも、自分の花が届かなかった悔しさも」
「忘れない……」
「そう。昨日、君が言った言葉だね」
――忘れたくないです。
昨日、サクラの大樹の前で言った言葉。
「忘れない力は、花に近い」
メルスティンは懐中時計を開いた。
銀の針が静かに時を刻んでいる。
「けれど、忘れないことは痛い。痛いまま全部抱えていたら、人はいつか動けなくなる」
その声に、ほんの少し影が差した。
フラワーは、桜の根元で献杯していたメルスティンの背中を思い出す。
春が来るたびに、今年もいないと思う。
あの言葉の重さを、この人は百年抱えている。
「だから、君には少しだけ時の感覚を教えておきたい」
「時の……感覚?」
「時の魔法、と呼ぶにはまだ早い。ただの種だよ」
メルスティンは指先で水面に触れた。
その瞬間、噴水の水滴がひとつ、空中で止まった。
落ちる途中だった水滴が、時間から切り離されたみたいに宙に浮いている。

「すごい……」
「すごくないよ。今のは止めただけ」
メルスティンは水滴を見つめる。
「時の魔法で一番大切なのは、止めることでも、戻すことでもない」
「じゃあ……?」
「流れを知ること」
水滴がゆっくり動き出す。
落ちる。
けれど、落ちきらない。
メルスティンの指先がわずかに動くと、水滴は細い円を描き、再び水面へ戻った。
「物事には、流れがある。水の流れ。魔力の流れ。感情の流れ。選択の流れ。人はそれを見落とすと、いきなり結果だけを掴もうとする」
フラワーは、さっき咲かせようとした花を思い出した。
咲かせよう。
守ろう。
早く、形にしよう。
そう焦るほど、花は崩れた。
「君は感じ取る力が強い。たくさん拾える。だからこそ、流れの途中で迷いやすい」
メルスティンは、噴水のそばの小さな白い蕾へ視線を向けた。
「見ていて」
懐中時計の針が、かちりと鳴る。
蕾の周りに、薄い銀の輪が浮かんだ。
時間が、ほんの少しだけ遅くなる。
蕾はまだ、咲いていない。
けれどフラワーには見えた。
花びらが開く前の、かすかな緊張。
内側から外へ向かおうとする力。
水が茎を上がり、光が薄い花弁に届き、命が形になる直前の一瞬。
咲く前に、もう花は動いている。
「……あ」
次の瞬間、蕾はゆっくりと開いた。
白い花が一輪、風の中に咲く。
「今の一瞬が、“前”だよ」
メルスティンは言った。
「結果だけを見ると、花は突然咲いたように見える。でも本当は、その前に流れがある。守る時も同じだ。壊れる前、燃える前、沈む前、言葉になる前。そこに気づけるかどうかで、選べるものが変わる」
フラワーは、咲いた白い花を見つめた。
花が咲く前の一瞬。
それは、これまで見ようとしたことのない場所だった。
「私にも……見えるようになりますか」
「君はたぶん、見えすぎるくらい見えるようになる。だから、扱い方を覚えた方がいい」
そう言って、メルスティンは懐から小さな紙片を取り出した。
銀色の細い魔導文字が書かれている。
円でもあり、波紋でもあり、時計の針にも似ていた。
「これを持っていて」
「これは……」
「時の魔法の初歩術式。使うためじゃない。感じるためのものだよ」
フラワーは恐る恐る受け取った。

紙片は軽い。
けれど、刻まれた文字を見ていると、不思議と胸の鼓動がゆっくりになる。
「朝と夜に一度ずつ、この術式を見ながら呼吸して。無理に魔法を発動しなくていい。水が落ちる前の一瞬、花が咲く前の一瞬、感情が言葉になる前の一瞬。そういう“前”を感じる練習をするんだ」
「前……」
「君がいつか大きなものを守ろうとする時、たぶん必要になる」
その言い方に、不安がよぎった。
「それは……サクラさんのフルートに関係ありますか?」
メルスティンはすぐには答えなかった。
「関係あるかもしれないし、ないかもしれない」
「校長先生」
「ずるい答えだね。でも、未来を確定させる言葉は、あまり好きじゃないんだ。時の魔法士としてはね」
フラワーは紙片を胸元に抱く。
「私は……何かを防ぐために、これを覚えるんですか?」
「たぶん」
メルスティンは、今度は誤魔化さなかった。
「最悪を防ぐために」
その言葉だけが、冷たく胸に落ちた。
何のことなのかは分からない。
けれど、軽い言葉ではないことだけは分かった。
「怖がらせたかな」
「……少し」
「ごめんね」
「でも」
フラワーは紙片を見つめた。
銀色の文字が、淡く光っている。
「忘れないために必要なら、覚えます」
メルスティンの目が、ほんの少し優しくなる。
「うん。君なら、そう言うと思った」
その時、校舎の鐘が鳴った。
昼休みの終わりを告げる音。
フラワーが校舎へ戻ろうとした時、背後からもう一度声がした。
「フラワーさん」
振り返る。
メルスティンは噴水のそばに立ったまま、静かに言った。
「ハイネちゃんの言うことを、全部そのまま信じなくていい」
「え……?」
「信じるな、という意味じゃないよ。ただ、あの子は自分のことになると、すぐに一番痛い選択を正しいと思い込む」
風が吹いた。
「だから君は、君の見たハイネちゃんを覚えていて」
昨日、ハイネはフラワーを見つけてくれた。
なら今度は、自分がハイネを見失わないようにしなければならない。
そんな気がした。
フラワーは小さく頷いた。
「はい」
胸元で、鞄の中のフルートがかすかに温かくなった気がした。
*
同じ頃。
医務棟の最奥で、ラビー・クリステイルは目を覚ました。
白い天井。
薄いカーテン。
消毒薬の匂い。
身体のあちこちに残る鈍い痛み。
「……っ」
起き上がろうとして、ラビーは顔をしかめた。
魔力枯渇。
軽度の火傷。
全身の筋肉痛。
身体は、確かに戦った後のものだった。
けれど、記憶が足りない。
龍族の群れ。
自分の焔。
巨大な火球。
フラワーの花畑。
そこまでは覚えている。
花畑が焼けた。
龍が残った。
自分は魔力を使い果たした。
そこまでは。
その先がない。
何かを見たはずだった。
とてつもなく恐ろしいもの。
空を塗り替える何か。
自分の焔など比べものにならない、圧倒的な力。
けれど思い出そうとすると、頭の中が白く滑る。
掴みかけた記憶が、指の間からこぼれる。
「……何ですの、これ」
ラビーは額に手を当てた。
忘れている。
誰かに忘れさせられている。
そう気づいた瞬間、腹の奥に熱が灯った。
敗北を嫌う。
無様を嫌う。
そして何より、自分の知らないところで自分を操作されることを嫌う。
「わたくしに、何をしましたの……?」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ハイネ。
フラワー。
校長。
龍族。
それとも、記憶の向こうにいる誰か。
ベッド脇の机には、見舞いの花が置かれていた。
薄桃色の小さな花。
たぶん、フラワーが残したものだろう。
一瞬だけ、龍族が止まった。
あれは何だったのか。
綺麗なだけではない。
火力も防御力もないはずの花が、確かに龍の動きを鈍らせた。
認めたくない。
けれど、無視もできない。
「……腹立たしいですわね」
ぽつりと呟いた時だった。
部屋の隅で、空気が揺れた。
「誰ですの」
返事はない。
代わりに、青い炎が灯った。
それは、ラビーの知る炎ではなかった。
赤ではない。
橙でもない。
熱く燃え上がるのに、どこか冷たい。
夜の底で、ひとつだけ燃え残った火のような青。
その炎の中から、ひとりの女が現れた。
長い銀髪。
妖狐めいた、美しく鋭い目元。
黒い外套の裾に、青い焔が絡みついている。
ただ立っているだけで、部屋の空気が変わった。
ラビーは反射的に杖を探そうとした。
けれど手元にない。
「警戒しなくていいよ。今のあなたと戦うつもりはないから」
「名乗りなさい」
「偉いね。状況が分からなくても、声は折れない」
女はベッドのそばへ歩み寄る。
「私はフレア」
その名に、ラビーの呼吸が止まる。
五十年前、龍族の大侵攻をただ一人で食い止めたとされる、爆焔の大魔道士。
教科書で見た肖像画とは少し違う。
けれど、纏っている炎の質が、人間の域ではなかった。
「……爆焔の、フレア」
「そう呼ばれることもあるね。でも、今の私はただの残り火みたいなものだよ」
残り火。
その言葉とは裏腹に、ラビーの肌は粟立っていた。
この女は危険だ。
それが理屈より先に分かる。
けれど同時に、目を離せない。
青い炎が、美しすぎた。
「あなたが、なぜここに」
「見に来たの」
「何を?」
「あなたの火」
フレアは、ラビーの顔を覗き込むように少し身を屈めた。
「昨日、あなたは面白いものを見たでしょう?」
ラビーの胸が跳ねる。
「……何の話ですの」
「忘れているんだね。可哀想に。綺麗に蓋をされてる」
「あなた、何を知っていますの」
「知っているというより、感じたんだよ。深淵の匂いを」
深淵。
その言葉が、ラビーの中の白い記憶に触れた。
頭の奥が軋む。
黒い何か。
底のない何か。
手。
無数の手。
「……っ」
「無理に思い出そうとすると痛いよ」
「黙りなさい」
「いいね。その意地。でも、思い出したいでしょう?」
答える必要はなかった。
フレアはゆっくり手を伸ばす。
青い炎を纏った指先が、ラビーの額の少し前で止まった。

「何をする気ですの」
「蓋を開けるだけ」
「勝手に触れないでくださる?」
「触れないよ。燃やすだけ」
次の瞬間。
ぱきん。
硝子の膜が割れるような音がした。
ラビーの視界が白く弾ける。
そして、閉ざされていた記憶が一気に流れ込んできた。
龍族の群れ。
自分の焔。
フラワーの花畑。
焼けた校庭。
降下してくる龍。
そして。
黒紫の巨大な魔法陣。
地面が開く。
無数の黒い手が伸びる。
龍が絶叫しながら奈落へ引きずり込まれていく。
自分の身体が浮く。
黒い手に優しく掴まれている。
その先にいた少女。
黒い魔導書を抱え、空に浮かぶハイネ・ベルセルク。
「――ハイネ」
名を呼んだ瞬間、ラビーの身体がぐらりと傾いた。
フレアが、それを静かに受け止める。
「見えた?」
ラビーは息を荒げながら、フレアを睨んだ。
「あなた……何を……」
「本当のことを返しただけ」
「なぜ」
「だって、もったいないじゃない。あなたほどの火が、何も知らないまま燻っているなんて」
ラビーは歯を食いしばる。
思い出した。
自分は見た。
ハイネの深淵を。
自分の焔が届かなかった現実を。
フラワーの花が、龍を止めた瞬間を。
そして、自分が守られたことを。
その事実が、胸の奥を焼いた。
「……わたくしは」
声が震える。
「わたくしは、負けたんですのね」
フレアは笑わなかった。
ただ、青い炎を揺らしながら言う。
「負けたと思えるなら、まだ燃える」
その言葉に、ラビーは顔を上げる。
フレアはどこからともなく、小さなランタンを取り出した。
黒い装飾の施された、古いランタン。
中には、紫を帯びた小さな炎が揺れている。
見た瞬間、ラビーの胸の奥の火が反応した。
「これは……」
「あなたにあげる」
「いりませんわ」
即答した。
フレアは楽しそうに笑う。
「偉いね。知らないものを簡単に受け取らない。いい判断」
「なら、なぜ差し出しますの」
「欲しくなるから」
ランタンの炎が揺れた。
その紫は、不思議とラビーの内側へ入り込んでくる。
昨日の敗北。
記憶を消された屈辱。
ハイネへの対抗心。
フラワーの花への違和感。
その全部に、炎が触れる。
「あなたの火は、まだ綺麗すぎる」
フレアが言う。
「誇り高くて、真っ直ぐで、よく燃える。でも、そのままでは深いところへ届かない」
「深いところ……」
「そう。ハイネのいるところ」
ラビーの指先が震えた。
「あなた、ハイネさんと知り合いですの?」
フレアの目が、一瞬だけ遠くなる。
「私は、あの人に火を教わった」
ラビーは息を呑む。
「ハイネが……あなたに?」
「そう。昔の話だよ」
フレアはランタンを見つめる。
「でも、あの人はいつも途中で手を離す。危ないから。早いから。まだ駄目だから。そうやって、誰かの火を止めようとする」
その言葉に、フラワーのフルートを止めたハイネの姿が重なった。
まだ早い。
きっと、フラワーにもそう言ったのだろう。
「優しさだよ。たぶんね。でも、止められた火は、行き場を失う」
ランタンの炎が、ふっと強くなった。
「ラビー・クリステイル。あなたは、止められたい?」
ラビーは答えなかった。
止められたいわけがない。
自分の焔は、自分の誇りだ。
自分の価値だ。
自分がラビー・クリステイルである証だ。
それなのに昨日、その焔は届かなかった。
ハイネの深淵にも。
龍族の群れにも。
そして、フラワーの花が触れた何かにも。
ラビーは、見舞いの花へ視線を落とした。
薄桃色の花。
綺麗なだけだと思っていた。
戦場では役に立たないと思っていた。
けれど昨日、龍族は確かにあの花の前で止まった。
自分の焔は、龍を落とせても、止めることはできなかった。
フラワーの花は、倒せなくても、龍の中の何かに届いた。
その事実が、一番認めたくなかった。
胸の奥で、火が嫌な音を立てる。
「あなたはもっと燃えられる」
フレアの声が、静かに部屋へ染み込む。
「赤より深く。青より暗く。誇りだけでは届かない場所まで」
「……それを使えば、届くと?」
「使うかどうかは、あなたが決める」
フレアはランタンを机の上に置いた。
「私は、選択肢を置いていくだけ」
ラビーはランタンを睨む。
受け取ってはいけない。
明らかに危険だ。
この女も、この炎も。
けれど、目を逸らせない。
紫の火が揺れるたびに、胸の奥の焔が呼び返す。
もっと燃えろ。
もっと深く。
もっと、誰にも届かない場所まで。
「……あなたの目的は何ですの」
フレアは少しだけ笑った。
その笑みは美しかった。
けれど、どこか壊れていた。
「ハイネ先生に、見てほしいだけ」
「先生……?」
「私の火が、どこまで綺麗になったか」
恋にも似た執着と、祈りにも似た狂気が混ざっていた。
フレアは窓辺へ向かう。
青い炎が足元に揺らめく。
「また来るよ、ラビー」
「待ちなさい」
「待たない」
フレアは振り返り、楽しげに言った。
「火は、待つと消えちゃうから」
その姿が青い炎に包まれる。
最後に残ったのは、かすかな熱と、机の上の黒いランタンだけだった。
医務室に静寂が戻る。
ラビーはしばらく動けなかった。
頭の中では、記憶が何度も繰り返されている。
ハイネの深淵。
フラワーの花。
自分の敗北。
そして、フレアの言葉。
あなたはもっと燃えられる。
ラビーは、もう一度見舞いの花を見た。
薄桃色の花は、静かに揺れている。
あんな小さな花が、龍を止めた。
自分は、火で龍を落とした。
でも、龍の何かには届かなかった。
フラワーは、花で龍を止めた。
ハイネは、深淵で龍を沈めた。
では、自分の焔は何なのか。
誇りか。
力か。
ただ燃えるだけのものか。
「……違いますわ」
ラビーは震える手を伸ばした。
触れてはいけない。
分かっている。
それでも。
指先が、ランタンの取っ手に触れた。

中の紫の炎が、嬉しそうに揺れた。
その瞬間、ラビーの胸の奥で、何かが小さく燃え始めた。
怒りか。
屈辱か。
憧れか。
焦りか。
名前のない熱。
「……わたくしは」
ラビーは、ランタンを見つめながら呟いた。
「まだ、負けたままでは終われませんわ」
窓の外では、夕暮れが静かに校舎を赤く染めていた。
その赤の中で、ランタンの紫だけが、夜の始まりみたいに揺れている。
誰にも知られないまま。
ひとつの火種が、ラビー・クリステイルの中へ落ちた。
第4話につづく。
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