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深淵の大魔道士 第4話「散らさぬ意志とひとしずくの希望」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ


闇の中で、紙のめくれる音がした。

ぺらり。

それだけで、ハイネ・ベルセルクは自分がどこにいるのか分かった。

足元はない。
空もない。
上下すら曖昧な、底のない黒。

深淵の底。

そこに、一冊の黒い魔導書が浮かんでいる。

本の形をしている。
けれど、本ではない。

傷口の匂いを覚えている獣のように。
泣き声の方向へ這ってくる影のように。
それは静かに、ハイネを見ていた。

『――龍を滅ぼそう』

声がした。

耳元から聞こえたのか。
頭の奥から響いたのか。
それすら分からない。

『この魔力があれば、必ずやれる』
『本当は憎いだろう?』

ハイネは息を止めた。

黒い手が、闇の底からゆっくり伸びてくる。

『お前の母を喰った龍が』
『父を壊した龍が』
『サクラを奪った世界が』

違う。

そう言いたかった。

けれど、声が出ない。

『花は守れなかった』
『光は間に合わなかった』
『優しいものは、いつも遅い』

ぺらり。

またページがめくれる。

その音だけで、胸の奥が冷たくなる。

『沈めろ』
『届かない深さへ』
『奪われる前に、すべてを』

無数の黒い手が、ハイネの足元から這い上がってくる。

龍を沈める手。
戦場を終わらせる手。
世界ごと口を塞ぐ手。

違う。

私は、そんなことをしたいわけじゃない。

けれど。

何も奪われない場所があるのなら。
誰にも届かない深さへ、痛みごと沈められるのなら。

それは、本当に悪いことなのだろうか。

ハイネの指先が震えた。

その時だった。

闇の中に、薄桃色の花びらがひとひら舞った。

黒い手に触れた瞬間、花びらは燃えなかった。
沈みもしなかった。

ただ、そこにあった。

小さな春の欠片。

『――まだ、花を嫌いになっていないのか』

魔導書の声が、低くなる。

ハイネは、その花びらを見つめた。

サクラの花。
フラワーの花。

そして、昨日渡されたばかりの、あの少女の怖がりながらも手放さなかったフルート。

花は遅い。

それでも。

あの花は、龍を一瞬だけ止めた。

「……うるさい」

ハイネはようやく声を出した。

「私は、まだ沈めるだけの化け物にはなってない」

黒い手が、一斉に止まる。

次の瞬間、闇が割れた。



目を開けると、見慣れた天井があった。

メルスティンの家の客間。
薄曇りの朝。
窓の外では、まだ春の湿った空気が静かに流れている。

ハイネは額に手を当てた。

「……最悪」

喉の奥に、夢の冷たさが残っている。

いや、夢ではない。

あれはいつも、深淵の底から来る。
眠りの隙間に入り込んで、ハイネの中に残った痛みを撫でていく。

奪われる前に沈めろ。

その声は、百年以上前から変わらない。

階下から、ぱたぱたと足音がした。

「ハイネさーん! 時間、大丈夫ですか?」

フラワーの声だった。

ハイネはゆっくり息を吐く。

「……だいじょうぶです」

「全然、大丈夫じゃない声です!」

少しだけ、口元が緩んだ。

あの声は、現実の音がする。

闇の底ではなく、朝の廊下から届く音。

ハイネはベッドから起き上がり、黒い魔導書へ視線を向けた。

魔導書は静かに閉じられている。

けれど、まるでさっきの会話など知らないふりをするように、重たく沈黙していた。

「……今日は出番ありません」

そう呟いて、ハイネはローブを羽織った。

今日は、フラワーの水の修行。

花を咲かせる前に、まず水を留める。

そして、そのために会わせる相手がいる。

正直、あまり会いたくない相手だった。



森の奥の泉は、鏡のように空を映していた。

木々の葉から落ちる朝露が、水面に触れて小さな波紋を作る。
風は弱い。
鳥の声も遠い。

そこだけ、世界から少し切り離されたみたいに静かだった。

フラワーは泉の前で、胸元を押さえる。

鞄の中には、サクラのフルート。
そして昨日、メルスティンから渡された銀色の術式紙。

花の重さ。
時の種。
忘れないこと。

それら全部が、まだ胸の中でうまく並んでいない。

「緊張していますか?」

隣でハイネが尋ねた。

「少し……」

「だいじょうぶです」

「ハイネさんがそう言うと、逆に大丈夫じゃない気がします」

「……どういう意味ですか」

フラワーは小さく笑った。

その時、泉の向こうから声がした。

「遅かったね、ハイネ」

水辺に立っていた男が振り返る。

長い薄青の髪。
白に近い外套。
瞳は、水の底に光が沈んだような淡い色をしている。

人というより、泉そのものが形を取ったような人だった。

「時間ぴったりです」

ハイネが淡々と言う。

「君の“ぴったり”は、世間では遅いと言うんだよ」

「メルスティンみたいなことを言わないでください」

「彼よりは時間に厳しいつもりだけどね」

男は穏やかに笑った。

それから、フラワーへ視線を向ける。

その瞬間、フラワーの背筋が自然と伸びた。

見られている。

顔でも、服装でも、魔力量でもない。
もっと奥の、魔法が生まれる前の場所を見られている気がした。

「君が、フラワー・マンディ」

「は、はい」

「僕はヨハン。水の大魔道士と呼ばれることもあるけれど、今日はただの水係でいいよ」

「水係……?」

「そのくらいの方が緊張しないだろう?」

フラワーは返事に困った。

ハイネがぼそりと言う。

「この人、やわらかく見えてわりと意地悪です」

「君ほどではないよ」

「私は意地悪じゃありません」

「自覚がないなら重症だね」

二人のやり取りは穏やかだった。
けれど、距離が近いわけではない。

昔から知っている。
けれど、踏み込みすぎない。

そんな関係に見えた。

ヨハンはハイネを一瞥する。

「それにしても、君が誰かをここへ連れてくる日が来るとはね」

「必要だからです」

「それだけ?」

「それだけです」

ヨハンは泉の水面を見た。

水面には、ハイネの黒いローブと、フラワーの不安げな顔が並んで映っている。

「水面は、覗き込んだ人の顔も映すよ」

「……何の話ですか」

「フラワーさんの修行の話だよ」

「なら、私を見ないでください」

「君が勝手に映っているだけだ」

ハイネは少しだけ眉を寄せた。

フラワーには、そのやり取りの意味がよく分からなかった。
けれどヨハンの言葉が、ハイネのどこかに触れたことだけは分かった。

ヨハンは泉の水面に指を触れた。

すると、水が一滴だけ浮き上がる。

それは透明なまま空中に留まり、丸い珠になった。

「花の魔法は、水と光と葉の複合だ」

ヨハンは言った。

「でも今の君に必要なのは、花を増やすことではない」

フラワーは息を呑む。

「では、何を……?」

「留めること」

水珠の中に、小さな花びらが一枚落ちた。

花びらは水の中で、ゆっくり揺れている。

「君の花は広がる力が強い。咲かせる力も、感じ取る力もある。でも、留める力がまだ弱い」

その言葉に、フラワーは昨日の噴水を思い出した。

水面に咲いた花。
すぐに崩れた花。

自分の魔法は、いつも一瞬だけだ。

龍を止めたのも。
花を浮かべたのも。
守れたと思った瞬間に、すぐ壊れてしまう。

「守るためには、広げるだけじゃ足りない」

ヨハンは水珠をフラワーの前へ差し出した。

「包む。
支える。
形を保つ。
流れを読んで、壊れる前に整える」

フラワーは、水珠の中の花びらを見つめた。

「まずは、この水珠を君の魔力で保ってごらん」

「はい」

フラワーは杖を構える。

水へ意識を伸ばす。

掴むのではなく、添える。
メルスティンが見せてくれた“前”を思い出す。
水が落ちる前の一瞬。
花が咲く前の一瞬。
崩れる前の一瞬。

けれど、考えすぎた。

水珠が震える。

「あっ……」

ぱしゃり。

水が弾け、花びらが泉へ落ちた。

フラワーは肩を落とす。

「すみません……」

「謝る必要はないよ」

ヨハンは穏やかに言った。

「今の君は、水を持とうとした。だから崩れた」

「持とうとした……」

「守りたいと思うほど、人は握る。けれど水は握るほど逃げる」

フラワーは自分の手を見る。

握りしめた指先が、白くなっていた。

「もう一度」

ヨハンが新しい水珠を作る。

今度は、フラワーはすぐに魔力を伸ばさなかった。

呼吸をする。
術式紙に刻まれた銀色の文字を思い出す。

結果ではなく、流れ。

水は、すでに流れている。
花びらは、落ちたがっているのではない。
水の中で、ただ揺れている。

そこに、ほんの少しだけ魔力を添える。

水珠が震えた。

けれど、崩れない。

一秒。
二秒。

三秒目に、また水が弾けた。

「……三秒」

フラワーが小さく呟く。

一話の花も、三秒で燃えた。

自分はまだ、三秒しか守れないのかもしれない。

そう思った瞬間、胸が沈みかけた。

「三秒も保った」

ハイネの声がした。

フラワーは顔を上げる。

ハイネは眠たげな顔のまま、けれど真っ直ぐフラワーを見ていた。

「最初は、弾けました。次は三秒。進んでます」

「でも……」

「でも、じゃないです」

ハイネにしては珍しく、少しだけ強い声だった。

「三秒守れたなら、次は四秒です」

その言い方があまりに真面目で、フラワーは少しだけ泣きそうになった。

三秒。

たった三秒。

でも、ハイネはそれを失敗とは呼ばなかった。

「……もう一度、お願いします」

ヨハンは静かに頷いた。

何度も繰り返した。

水珠を作る。
花びらを浮かべる。
魔力を添える。

弾ける。
崩れる。
乱れる。

それでも、フラワーはやめなかった。

三秒。
四秒。
二秒。
五秒。

時々短くなる。
けれど、少しずつ分かってくる。

水は、止めるものではない。
流れたがっているものを、無理に閉じ込めるのではない。

ただ、形をなくさないように、外側からそっと支える。

ヨハンが静かに言った。

「君は、花を咲かせる時、相手の方へ伸びすぎる」

「伸びすぎる……?」

「助けたい。
守りたい。
分かりたい。
その気持ちが強いほど、魔力が前へ出る」

フラワーは、思わずハイネを見た。

ハイネは少し離れた場所で、黒い魔導書を抱えたまま泉を見ている。

その横顔には、今朝の夢の名残のような疲れが少しだけあった。

「優しさは、悪いものじゃない」

ヨハンは続ける。

「でも、相手の中まで入り込みすぎる優しさは、時に相手の息を奪う。花も同じだ」

フラワーの胸が、きゅっとなる。

サクラのフルート。
ハイネの深淵。
メルスティンの時の種。

自分は全部を知りたいと思っていた。
全部を覚えていたいと思っていた。

でも、全部抱えようとしたら、きっと潰れてしまう。

「守るって、近づくことだけじゃないんですね」

フラワーが言う。

ヨハンは微笑む。

「そうだね。近づきすぎないことも、守ることの一つだ」

それから、ヨハンは水面越しにハイネを見た。

「君にも聞かせたい言葉だけど」

「私は聞いてます」

「聞くことと、受け取ることは違う」

ハイネは黙った。

泉の水面だけが、静かに揺れている。

「沈めることは、近づかないための究極の方法だ」

ヨハンは続けた。

「すべてを底へ置けば、もう傷つけ合わない。けれど、それは守ることとは少し違う」

ハイネの指が、黒い魔導書の表紙を押さえる。

「……今は、フラワーさんの修行中です」

「そうだね」

ヨハンはあっさり引いた。

けれど、フラワーには分かった。

今の言葉は、ハイネの中に残った。

水面に落ちた小石のように。
すぐには見えなくても、奥で波紋を広げている。

フラワーは、もう一度水珠に手を伸ばした。

今度は、花びらを見つめすぎない。

水の流れを見る。
花びらの揺れを見る。
そして、その周りにある空白を見る。

そこにいていい。

ハイネがいつか言った言葉が、胸の奥に落ちてくる。

咲こうとしなくていい。
守ろうとしすぎなくていい。

ただ、そこにあっていい。

フラワーの魔力が、水珠の輪郭に沿って静かに広がった。

水は逃げなかった。
花びらも沈まなかった。

一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。

ヨハンが目を細める。

「そのまま」

フラワーは息を止めない。
肩に力を入れない。

十秒。

水珠の中で、薄桃色の花びらが静かに揺れている。

「……できた」

声が震えた。

ヨハンが頷く。

「成功だ」

たった一滴。
たった一枚の花びら。

それでもフラワーには、何か大切なものを初めて落とさずに持てた気がした。

ハイネが、少しだけ表情を緩める。

「よかったです」

その声が嬉しくて、フラワーは小さく笑った。

「ハイネさんのおかげです」

「私は何もしてません」

「三秒を、失敗って言わなかったから」

ハイネは言葉に詰まった。

視線を逸らし、小さく咳払いをする。

「……事実を言っただけです」

ヨハンはそんな二人を見て、どこか遠い目をした。

「君は、ずいぶん変わったね」

「誰に言ってますか」

「君にだよ、ハイネ」

ハイネは少しだけ眉を寄せる。

「変わってません」

「そう思っているのは、本人だけだね」

ヨハンはそれ以上、深追いしなかった。

ただ泉の水面を見つめ、静かに言う。

「フラワー。今日の感覚を忘れないように」

「はい」

「君の花は、いつか大きなものを包むことになるかもしれない。その時、焦って咲かせるのではなく、まず留めることを思い出して」

大きなもの。

その言葉に、フラワーは鞄の中のフルートを思った。

そして、ハイネの黒い魔導書も。

「……はい」

その時だった。

ふいに、フラワーの胸元がざわついた。

火の気配。

けれど、それはラビーの焔のような赤ではない。

もっと深く、夜に滲むような紫。

「……いま、何か」

フラワーが顔を上げる。

ハイネの表情が変わった。

ヨハンも泉の向こうへ視線を向ける。

「気のせいではなさそうだね」

ハイネの指が、黒い魔導書の表紙に触れた。

「……最悪です」

その声は、朝の夢の時よりも低かった。



同じ頃。

医務棟の個室で、ラビー・クリステイルは窓辺に立っていた。

退院の許可は、まだ出ていない。

けれど、もうベッドに寝たままでいる気にはなれなかった。

身体は重い。
魔力も完全には戻っていない。
それでも、立っていたかった。

負けたまま横になっているのが、どうしても嫌だった。

机の上には、黒いランタンが置かれている。

フレアが残していったもの。

触れてはいけない。
そう思う。

危険だと分かっている。
あの女の言葉を信じるほど、自分は愚かではない。

けれど、ランタンの中で揺れる紫の炎から、目が離せなかった。

昨日の記憶が、何度も蘇る。

ハイネの深淵。
フラワーの花。
自分の敗北。

そして、フレアの声。

――あなたはもっと燃えられる。

「……馬鹿にして」

ラビーは呟く。

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

フレアにか。
ハイネにか。
自分にか。

薄桃色の見舞い花が、机の端に置かれている。
フラワーが残した小さな花。

ラビーはそれを見た。

あの花は、龍を一瞬止めた。

自分の焔は、龍を撃ち落とした。
けれど、止められなかった。

倒すことと、止めることは違う。

認めたくない事実だった。

「……腹立たしいですわね」

ラビーは、ゆっくりランタンへ手を伸ばす。

触れてはいけない。

それは分かっている。

この炎は、自分の火ではない。
自分の誇りに似た顔をして、内側へ入り込んでくる別の何かだ。

悔しさを燃料にする。
屈辱を美しく見せる。
負けたくないという思いを、もっと深い場所へ連れていこうとする。

だから、触れてはいけない。

分かっているのに。

紫の炎が、ふっと揺れた。

まるで、待っていたみたいに。

指先が取っ手に触れる。

その瞬間、胸の奥で火が跳ねた。

「っ……!」

熱い。

けれど、痛みではない。

ラビーの中にある焔が、ランタンの火に呼び返されている。

赤い火が、紫に触れる。
誇りが、屈辱に触れる。
負けたくないという思いが、もっと深く燃えたいという欲に変わっていく。

嫌だ。

そう思った。

こんなものに引きずられたくない。

けれど同時に、もっと知りたいと思った。

自分の火が、どこまで行けるのか。
赤より深く、青より暗い場所に、本当に届くのか。

ハイネの深淵に。
フラワーの花が触れた、龍の奥に。
そして、フレアが見ているという“もっと深い火”に。

「……わたくしは」

ラビーはランタンを持ち上げた。

炎が、嬉しそうに揺れる。

「まだ、負けたままでは終われませんわ」

それが正しい選択かどうかは分からない。

けれど、ここで目を逸らしたら、自分の火まで見失う気がした。

窓の外では、夕暮れが校舎を赤く染めていた。

その赤の中で、ランタンの紫だけが、夜の始まりみたいに揺れている。

ラビーの瞳にも、同じ色が一瞬だけ映った。

誰にも知られないまま。

ひとつの火種が、彼女の中へ落ちていく。

その火はまだ、小さかった。

けれど、消える気配はなかった。

第5話へつづく。


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