深淵の大魔道士 第5話「黒いランタン」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ



黒いランタンの中で、紫の炎が揺れていた。
ラビー・クリステイルは、それを机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
触れてはいけない。
そう思う。
危険だと分かっている。
あの女――フレアの言葉を信じるほど、自分は愚かではない。
けれど、指先にはまだ熱が残っていた。
ランタンに触れた瞬間、胸の奥で跳ねた火。
自分の焔が、別の何かに呼び返された感覚。
赤より深く。
青より暗く。
誇りだけでは届かない場所まで。
フレアの声が、耳の奥に残っている。
「……馬鹿にして」
ラビーは低く呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
フレアにか。
ハイネにか。
自分にか。
窓の外では、夕暮れが校舎の壁を赤く染めていた。
医務棟の部屋には、薄桃色の見舞い花がひとつ置かれている。
フラワーが残した花。
小さく、柔らかく、頼りなく見える花。
けれど、あの花は龍を止めた。
一瞬だけとはいえ、確かに。
自分の焔は龍を撃ち落とした。
けれど、龍の中にある何かには届かなかった。
倒すことと、止めることは違う。
その事実が、どうしても胸から消えない。
「……わたくしの焔は」
ラビーは、自分の手を見つめた。
火は出していない。
それでも、掌の奥にはいつも火がある。
クリステイル家の令嬢として。
焔使いとして。
誰よりも強く、美しく燃えることを求められてきた。
燃えることは、誇りだった。
燃えることは、証明だった。
燃えることは、ラビー・クリステイルであることそのものだった。
なのに。
ハイネの深淵には届かなかった。
フラワーの花が触れた場所にも届かなかった。
「……まだですわ」
ラビーはランタンを見つめる。
紫の炎が、静かに揺れる。
それは答えをくれる火ではない。
正しい道を示す火でもない。
ただ、胸の奥にある悔しさへ、甘く触れてくる。
もっと燃えられる。
もっと深くなれる。
負けたままでいいのか。
そう囁くように。
違う。
これは、わたくしの火ではない。
そう分かっているのに。
この火だけが、今の自分の悔しさを否定しなかった。
負けたままでいたくないという醜さまで、美しいと言ってくれた。
だから、目を逸らせなかった。
「わたくしは、わたくしの焔で届いてみせます」
そう言ったはずなのに。
その夜、眠るまでずっと、ランタンの炎は視界の端で揺れ続けていた。
*
七十年前。
まだハイネ・ベルセルクが、今より少しだけ人の前に出ていた頃。
彼女のもとへ、一人の少女が押しかけてきた。
銀の髪。
狐を思わせる鋭く妖しい目元。
まだ十五のはずなのに、どこか完成されすぎた魔力の匂い。
少女は、ハイネを見るなり言った。
「あなたに教わりたいの」
ハイネは露骨に嫌そうな顔をした。
「……他をあたってください」
「嫌」
「面倒です」
「じゃあ、面倒じゃなくなるまで毎日来る」
「なりません」
「じゃあ毎日来る」
「話が通じない」
「通じてるよ。あなたが嫌がってるのは分かった」
少女はにこりと笑った。
「でも、私は諦めない」
フレア。
その名を聞いた時、ハイネは嫌な予感がした。
火の魔力を持つ者は多い。
だが、フレアの火は少し違っていた。
ただ燃えるのではない。
何かを焼き尽くす前から、すでに燃え尽きる未来の匂いがした。
危うい。
そう思った。
だからこそ、ハイネは距離を取った。
けれどフレアは、距離を取られるほど近づいてきた。
翌日も。
その翌日も。
雨の日も。
雪の日も。
屋敷の門前に立ち、窓の下で手を振り、庭先で勝手に焚き火をしていたこともある。
「帰ってください」
「教えてくれたら帰る」
「教えません」
「じゃあ帰れない」
「迷惑です」
「知ってる」
あまりにも堂々と迷惑だった。
結局、ハイネは根負けした。
ほんの少しだけ。
本当に基礎だけ。
火を暴走させないための制御だけ。
そう自分に言い聞かせて、フレアに魔法を教えた。
それが間違いだったのかもしれないと気づくのに、そう時間はかからなかった。
フレアは速すぎた。
火を教えれば焔を掴み、
焔を見せれば、その先の理へ届く。
一を渡せば十を越える。
十を止めれば、百へ勝手に走っていく。
「すごいでしょ、ハイネ先生」
そう笑う顔は、無邪気だった。
けれど、その火はあまりにも人の身に余っていた。
「フレアさん」
ある日、ハイネは言った。
「もう少し、火を抑えてください」
「どうして?」
「そのままだと、あなた自身が燃えます」
「燃えたら、もっと綺麗じゃない?」
ハイネは言葉を失った。
フレアは、自分の火を恐れていなかった。
恐れないのではない。
恐れる前に、魅入られている。
火に選ばれたのではなく、火に恋をしているみたいだった。
だから、危険だった。
ある日、フレアはひとつの黒いランタンを手にして現れた。
中では、青い炎が揺れていた。
それを見た瞬間、ハイネの顔色が変わる。

「それ、どこで手に入れたの」
「秘密」
「渡して」
珍しく、ハイネの声が強くなった。
「それは危険です。あなたが扱っていいものじゃない」
フレアは、ランタンを胸元へ抱き寄せた。
「嫌」
「フレアさん」
「だって、これは私に似合う焔だもの」
青い炎が、フレアの瞳に映っていた。
美しい。
けれど、冷たい。
命を温める火ではない。
命を燃料にして、もっと美しく燃えようとする火。
「渡して」
ハイネが手を伸ばす。
その一瞬前に、フレアは青い炎の残像だけを残して消えた。
それが、七十年前。
そして二十年後。
今から五十年前。
龍族の大侵攻が空を覆った日。
迎え撃とうとするハイネとメルスティンの前に、ひとりの女が現れた。
銀髪を夜風に揺らし、妖狐のように美しく、禍々しく。
その手には、かつてのランタンがあった。
「遅かったじゃない、ハイネ先生」
そう笑った次の瞬間、世界が青く焼かれた。
龍族の群れが、一頭、また一頭と空で弾ける。
あまりにも美しい焔だった。
あまりにも、人の身に余る焔だった。
ハイネは、その火を止めることができなかった。
止める前に、龍族が焼かれていく。
青い炎は空を埋め、黒い翼を次々と落としていく。
それは勝利だった。
誰の目にも、そう見えた。
けれどハイネには、違って見えた。
フレア自身が燃えていた。
龍を焼いているのではない。
自分の命を炎へ変えながら、龍ごと空を焼いている。

最後の一撃で大群を吹き飛ばした直後、フレアを包む青い炎が、不意に揺らいだ。
空中で膝をつく。
燃え尽きる直前の炎のように。
彼女はハイネを見た。
いつもの不敵な笑みはもうなくて、そこには昔の少女のような目だけが残っていた。
「……ハイネ先生」
震える声。
「助けて」
伸ばした手は、届く前に青い炎に呑まれた。
ハイネはその手を掴めなかった。
指先に、熱だけが残った。
その日から、フレアは消えた。
勝利の英雄として語られながら。
五十年前の大侵攻を止めた伝説として讃えられながら。
ハイネの中には、別の声だけが残った。
助けて。
あの声は、今でも時々、深淵の底まで届く。
それから五十年。
残り火だけが、どこかで燃え続けていた。
*
翌朝。
ハイネはいつも通り、箒も使わず、だるそうに宙へ浮いたまま登校していた。
黒いローブの裾が風に揺れる。
眠たげな目は半分閉じている。
隣を歩くフラワーが、少し困ったように見上げた。
「ハイネさん、また浮いてます」
「歩くの、面倒なので」
「見つかったら怒られますよ」
「その前に着けば、たぶん大丈夫です」
「そういう問題でしょうか……」
気の抜けたやり取り。
いつもの朝。
――のはずだった。
ふ、と空気が変わった。
熱。
けれど、それはただの焔ではない。
赤ではなく、もっと深く。
夜の底へ沈むような紫の熱。
ハイネの瞳が、はっきりと揺れた。
次の瞬間、彼女は地面へ降りる。
フラワーも息を呑んだ。
校門の向こうから、ラビー・クリステイルが歩いてくる。
赤い髪。
まっすぐな背筋。
クリステイル家の令嬢らしい気高さ。
一見、いつもと変わらない。
けれど、片手に下げられた黒いランタンだけが、あまりにも異質だった。
中で揺れているのは、紫を帯びた炎。
その火を見た瞬間、フラワーの胸元がざわついた。
昨日、泉で感じた火の気配。
夜に滲むような、不穏な熱。
「ラビーさん……」
フラワーが名前を呼ぶ。
ラビーは立ち止まらない。
二人の横を通り過ぎる、その瞬間。
ほんの少しだけ、口元を歪めた。
その笑みは、いつもの高慢さとは違っていた。
濡れたように暗く、どこか焦げていた。
「ラビーさん」
ハイネの声が、珍しくはっきり響く。
ラビーが、ゆっくり振り返る。
「あら。深淵の大魔道士さん」
その呼び方に、フラワーの肩が震えた。
ハイネの顔から、血の気が引く。
「……そのランタンは危険です。私に預けてください」
「嫌ですわ」
即答だった。
ラビーはランタンを軽く持ち上げる。
「これは、大切な人から譲り受けたものです」
「大切な人?」
ハイネの声が冷える。
「フレアさんですか」
その名を聞いた瞬間、ラビーの瞳がわずかに揺れた。
けれどすぐに笑みを作る。
「ええ。あなたの、昔の生徒だそうですわね」
ハイネの指が、黒い魔導書の表紙に触れる。
「返してください」
「なぜ?」
「危険だからです」
「また、それですの?」
ラビーの声に、火が混じる。
「危険だから。まだ早いから。触れるな、使うな、近づくな」
ハイネは黙った。
ラビーは一歩近づく。
「あなたは、そうやって何でも止めるのですね」
「止めなければ、燃え尽きるからです」
「燃え尽きるほど燃えたこともない人が、分かったように言わないでくださる?」
フラワーは息を呑んだ。
ラビーの言葉は鋭い。
けれど、その奥には傷があった。
負けたままでは終われない。
届かなかったままではいられない。
自分の焔を、自分で信じたい。
その気持ちが、紫の炎に触れて歪み始めている。
「ラビーさん」
ハイネが一歩踏み出す。
「それは、あなたの火じゃありません」
ラビーの表情が変わった。
「……何ですって?」
「その炎は、あなたの悔しさに入り込んでいる。あなたの火のふりをしているだけです」
「わたくしの火を、あなたが決めるのですか」
「違います」
「違いませんわ」
ラビーはランタンを握りしめる。
「あなたは何でも知っている顔をして、結局こちら側へは来ない。高いところから見て、危ないと言って、手を伸ばして、でも本当の意味では任せない」
「ラビーさん」
「昨日もそうですわ」
その言葉に、ハイネが止まる。
「わたくしは負けました。あなたにも、龍族にも、フラワーさんの花にも」
フラワーの瞳が揺れる。
「だから、わたくしはもっと深い火へ行きます」
紫の炎が、ふっと揺れた。
「誰かに止められるためではなく、わたくし自身の焔で届くために」
ハイネは小さく息を吸った。
「……放課後、校舎裏へ来てください」
「逃げませんのね」
「逃げる理由がありません」
「なら、証明して差し上げますわ」
ラビーは外套を翻す。
「わたくしの火が、ただの綺麗な焔ではないことを」
そう言い残し、校舎へ入っていった。
紫の炎の残り香だけが、朝の空気に薄く滲んでいる。
フラワーは、ハイネを見る。
「ハイネさん……」
「最悪です」
ハイネは低く言った。
「でも、まだ間に合います」
その言葉が、自分自身へ言い聞かせているように聞こえて、フラワーは胸が苦しくなった。
*
放課後。
校舎裏は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
古い石壁。
伸びた影。
風に揺れる草。
その中心に、ラビーが立っていた。
黒いランタンを手にしている。
中の紫炎は、朝よりも濃くなっていた。
ハイネとフラワーが近づくと、ラビーはゆっくり顔を上げる。
「来ましたのね」
「ランタンを返してください」
「相変わらず、そればかりですわね」
ハイネは表情を変えない。
「それ以上持っていれば、あなたの火が変質します」
「変質ではなく、進化かもしれませんわよ」
「違います」
「なぜ言い切れますの?」
「同じものを見たことがあるからです」
その瞬間、校舎裏の影がぬるりと揺れた。
青い炎が、足元から咲く。
フラワーの背筋が凍る。
影の中から、ひとりの女が現れた。
銀の髪。
妖狐めいた美しい顔。
黒い外套。
足元に絡みつく青焔。
フレア。
彼女は、ハイネを見た瞬間、うっとりと目を細めた。
「久しぶり、ハイネ先生」
空気が、じり、と燃える。
ハイネはフラワーの前へ出た。
「フレアさん」
「その声。懐かしい」
フレアは微笑む。
「相変わらず、止める時だけは優しいね」
「ラビーさんを巻き込まないでください」
「巻き込んでなんかいないよ」
フレアはラビーへ視線を向ける。
「この子は自分で火を持った。そうでしょう?」
ラビーは答えなかった。
けれど、ランタンを握る手に力が入る。
「……あなたは、助けてと言った」
ハイネが小さく言った。
フレアの笑みが、ほんの一瞬だけ止まる。
「五十年前、あなたは助けてと言った。私は、その手を掴めなかった」
青い炎が、ゆらりと揺れた。
「だから今度は、止めます」
フレアはしばらく黙っていた。
やがて、ひどくやわらかく笑った。
「違うよ、ハイネ先生」
その声は甘かった。
けれど、焦げたように歪んでいた。
「あの時、助けてほしかったんじゃない」
ハイネの瞳が揺れる。
「見てほしかったの」
青い炎が、強くなる。
「私がどこまで燃えられるのか。
私の火がどこまで綺麗になるのか。
最後まで、あなたに見ていてほしかった」
ハイネは何も言えなかった。
「でもあなたは、私を止めようとした。助けようとした。綺麗だとは言ってくれなかった」
フレアはラビーのランタンへ目を向ける。
「だから、続きを作るの」
「フレアさん」
「今度こそ、見てね」
その声が落ちた瞬間、戦いが始まった。
「フラワーさん」
「は、はい」
「水珠を作って。その中に入ってください」
「え……?」
「等身大です。泉でやったことを思い出して。水を留めて、外の熱を逸らす」
フラワーの喉が鳴る。
「私にも、できるでしょうか」
「できます」
即答だった。
「三秒守れたなら、次は十秒守れた。今度は、もっと守れます」
その言葉に、フラワーは杖を握り直した。
水を集める。
焦らない。
掴まない。
そこにあっていい。
透明な水珠が、フラワーの身体を包む。
少し歪んでいる。
けれど、崩れない。
ハイネはそれを確認すると、黒い魔導書を開いた。
「メルスティン」
何もない空間が歪む。
銀の光とともに、メルスティンが現れた。
「呼ばれる気はしてたよ」
「フレアを止めてください」
「君は?」
「ラビーさんを止めます」
メルスティンは一瞬だけ、ハイネを見た。
「無理はしないように」
「無理しないと止まりません」
「そこは否定してほしかったな」
フレアが笑う。
「いいね。役者が揃った」
ラビーの炎は、以前とはまるで違っていた。
赤ではない。
紫を帯びた焔。
真っ直ぐ燃え上がるのではなく、空気に染み込むように広がってくる。
避けたはずの場所で、遅れて熱が噛みつく。
「どうしましたの、深淵の大魔道士さん!」
ラビーが杖を振るう。
紫炎の槍が、幾本も空を裂く。
ハイネは反撃しない。
浮遊魔法で紙一重にかわし、影の手で軌道をずらし、ラビーの足元を崩さないように距離を取る。
「戦わないのですか!」
「戦いに来たわけじゃありません」
「なら、止められるものなら止めてみなさい!」
ラビーの炎が、さらに濃くなる。
強い。
ハイネは認めざるを得なかった。
ラビー・クリステイルの火は、本物だ。
誇りも、努力も、悔しさも、すべて焔へ変えられるだけの才能がある。
だからこそ危うい。
フレアが欲しがるのも当然だった。
一方で、メルスティンとフレアの戦いは、炎と時間の食い合いだった。
青焔が走る。
時間が歪む。
一瞬先に燃えるはずの空間を、メルスティンがずらす。
だが、フレアは読んでいた。
ずらされた時間の先へ、青い火を置いてくる。
「五十年前に燃え尽きたはずじゃなかったのかな」
メルスティンが言う。
フレアは笑った。
「燃え尽きたよ」
青い炎が、彼女の髪を揺らす。
「でも、残り火って消えないんだよ。誰かが見てくれるまで」
「ずいぶん厄介な残り火だ」
「あなたに言われたくないな。百年、春に囚われてるくせに」
メルスティンの目が、ほんの少しだけ冷える。
フレアは楽しそうに笑った。
「怒った?」
「少しね」
「よかった。まだ燃えるんだ」
フラワーは、水珠の中で必死に呼吸を整えていた。
外では炎が飛び交っている。
青。
紫。
黒。
衝撃が来るたび、水珠が大きく歪む。
怖い。
熱い。
逃げたい。
けれど、崩さない。
守る。
ただ守る。
水は握らない。
流れを読む。
壊れる前の一瞬を見る。
「そこにあっていい……」
小さく呟く。
水珠は震えながらも、どうにか形を保っていた。
その時、フレアの視線がふっと動いた。
ラビーへ。
そして、甘く囁く。
「ラビー」
その声は、戦場に不釣り合いなほど優しかった。
「ハイネと魔導書を、同時に狙って」
ハイネの瞳が見開かれる。
「ラビーさん、だめです!」
けれど遅かった。
ラビーの紫炎が凝縮される。
それは槍の形を取り、一直線に走った。
狙いはハイネではない。
その背後に浮かぶ、黒い魔導書。
ハイネは迷わなかった。
魔導書を庇う。
紫炎の槍が、ハイネの胸を貫いた。
「ハイネさん!」
フラワーの悲鳴が響く。

ハイネの身体が、音もなく崩れた。
血ではない。
真っ黒な液体のようなものが、地面へ溶けるように流れ落ちていく。
ラビーの顔色が変わる。
「な……」
人の崩れ方ではなかった。
主を失ったはずの黒い魔導書が、ひとりでに浮かび上がる。
ぺらり。
ページがめくれる。
その音が、校舎裏の空気を凍らせた。
「まずい、ハイネちゃん!」
メルスティンが叫ぶより早く、深淵が開いた。
黒紫の魔法陣が地面に広がる。
そこから無数の黒い手があふれ出した。
一本。
十本。
百本。
それは龍を沈めた時の手と同じだった。
けれど今、その手が向かったのは、ラビーだった。
「っ――!」
黒い手が、ラビーの腕を掴む。
足首を掴む。
腰へ絡みつく。
紫炎が爆ぜる。
だが、焼き切れない。
ラビーの瞳に、初めて本物の恐怖が差した。
フレアが、笑った。
「そう。そこだよ」
耳元で囁くように。
「その手を焼き尽くすつもりで、全火力を燃やしなさい」
ラビーの心臓が跳ねる。
この手を焼く。
深淵を焼く。
ハイネのいる場所へ届く。
その誘惑は、あまりにも甘かった。
「ラビーさん、聞いちゃだめ!」
フラワーが叫ぶ。
けれどラビーの中では、すでに火が膨れ上がっていた。
悔しさ。
恐怖。
屈辱。
届きたいという願い。
すべてが、ランタンの炎へ吸い上げられていく。
違う。
これは、わたくしの火じゃない。
そう思った。
けれど、もう遅かった。
自分の火と、ランタンの火の境目が溶けていく。
どこまでが誇りで。
どこからが屈辱で。
どこからがフレアに与えられた炎なのか。
分からなくなる。
紫が沈む。
その奥から、黒青い炎が噴き上がった。
ランタンの中に、同じ色の火が灯る。
それはラビー自身の焔でありながら、これまでのどの火より深く、強く、美しかった。

黒い手が、一斉に焼き切れる。
深淵が揺らぐ。
ハイネの魔導書が、苦しむようにページを震わせた。
フレアが、恍惚とした目でその炎を見つめる。
「……なんて綺麗なの」
かすれた声。
「これまでのどの炎よりも深く、強く、そして衰えない」
ラビーは膝をつきそうになりながらも、炎を止められなかった。
自分の火なのに。
自分の身体から出ているのに。
もう、自分だけのものではない。
そう気づいた時には、遅かった。
フレアの影が、ぬるりと伸びる。
ラビーの手から、ランタンだけを奪い取った。
「なっ……!」
ラビーが叫ぶ。
フレアはランタンを胸元へ抱き寄せる。
その仕草は、長いあいだ焦がれ続けたものを、ようやく腕の中へ迎え入れるみたいだった。
「ありがとう、ラビー」
優しい声だった。
「あなたの炎は、最高の贄になった」
「返しなさいッ!」
ラビーが飛び出そうとした瞬間、身体の内側で黒青い炎が暴れた。
「っ……!」
膝が崩れる。
命そのものを燃やされるような痛みが走る。
メルスティンがすぐに駆け寄り、ラビーを抱きとめた。
「動くな!」
ラビーの身体は、炎に包まれていた。
美しい。
けれど、死に近い火だった。
フレアの全身を包む青焔は、一気に膨れ上がる。
五十年前、龍族の大群を焼き払ったあの焔よりもなお深く、なお激しい。
それでいて、少しも乱れず、美しさだけを纏って燃え盛っていた。
銀髪が熱風に舞い上がる。
妖狐めいた横顔が、青い炎の中で浮かび上がる。
フレアは黒青の炎を宿したランタンを見つめ、うっとりと微笑んだ。
「見ていて、ハイネ先生」
視線は、地面に浮かぶ黒い魔導書へ向いている。
「あなたが止めた火は、ここまで綺麗になったよ」

黒い魔導書のページが、わずかに震えた。
フラワーは、水珠の中で涙を浮かべる。
「ハイネさん……」
フレアはランタンを胸に抱えたまま、踵を返す。
「また会いに来るよ」
その声は甘く、どこか哀しかった。
「次は、ちゃんと私を見てね」
青い炎が揺れる。
陽炎のように、その姿が消えていく。
あとには、青い焔の残像だけが、しばらく空気に焼きついていた。
静寂が落ちる。
残ったのは、焦げた空気。
黒紫の余韻。
そして、燃え尽きかけたラビー。
地面に残された黒い魔導書が、ゆっくりとページを閉じる。
メルスティンはラビーを地面へ横たえると、すぐに懐中時計を掲げた。
銀色の魔法陣が開く。
「……戻ってきなさい、ハイネちゃん」
光が降る。
魔導書の前に、黒い粒子が集まる。
輪郭が生まれ、骨格をなぞり、肉体がホログラムのように再構築されていく。
やがて、ハイネは再びそこに立っていた。
けれど、息をつく暇はない。
ラビーが苦しげに呼吸をしている。
青黒い炎はまだ消えない。
消えないまま、彼女の命を削っている。
ハイネの顔から、完全に色が消えた。
「……時間がない」
フラワーは水珠を解き、ふらつきながら駆け寄る。
「ハイネさん、ラビーちゃんは……!」
ハイネはラビーの炎を見つめた。
それは強く燃えているように見えて、違った。
燃え盛っているのではない。
消える直前の火が、最後に大きく揺れているだけだ。
ハイネは震える指で黒い魔導書を抱え直す。
「このままでは、炎と一緒に命が落ちます」
メルスティンの表情が険しくなる。
「やるしかないね」
ハイネは頷いた。
「アルクレイスを呼んでください」
「公務中でも?」
「叩き起こしてでも」
フラワーは二人の会話の意味が分からない。
けれど、ハイネの声が今まで聞いたことがないほど切迫していることだけは分かった。
ハイネはラビーのそばに膝をつく。
黒青い炎が、その頬を照らす。
「ラビーさん」
返事はない。
それでもハイネは、静かに言った。
「あなたは、まだ終わりません」
夕暮れの校舎裏で、青黒い炎だけが、死の間際の星みたいに揺れていた。
第6話へつづく。
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