【恋の参謀あらわる!】#5「先生のレッスンだけが、私の呼吸でした」|恋愛小説|連載小説|ライトノベル|ラノベ


朝、スタジオに着くと、受付横のモニターに今日の予約状況が映っていた。
美月 十九時 満席
美月 二十時半 キャンセル待ち
橘真琴 十一時 予約五名
橘真琴 十四時 予約三名
真琴は、そこで足を止めた。
五名。
たった一人、増えただけだった。
美月の満席に比べれば、数字としては小さい。大きく流れが変わったわけでもない。スタジオの編成を覆せるような結果では、まだ全然ない。
それでも、その「五名」という文字だけが、少し光って見えた。
昨日は四名だった。
その前は三名だった。
誰かが、予約してくれた。
真琴はモニターの前で、ほんの少しだけ息を吸った。
運が動いた、なんて大げさなことは思わない。
でも、止まっていたものが、ほんの少しだけ軋んだ気がした。
「おはようございます、真琴さん」
後ろから声をかけられて振り返ると、美月が立っていた。

相変わらず、明るい笑顔だった。
髪はきれいにまとめられていて、ウェアも華やかで、手には撮影用の小さなライトが入ったバッグを持っている。
「おはようございます」
真琴が返すと、美月はモニターをちらりと見た。
「あ、予約増えてますね」
嫌味ではなかった。
それが分かるから、真琴は少しだけ返事に困った。
「一人だけだけど」
「一人って、大きいですよ」
美月はそう言って、いつものように笑った。
でも、その笑顔の下に、ほんの少し疲れが見えた気がした。
「美月さん、昨日も動画上げてましたよね」
「はい。夜に撮りました。朝用なのに夜撮ってるっていう」
美月は軽く笑った。
「毎日投稿、すごいですね」
真琴が言うと、美月は少しだけ目を伏せた。
「慣れてるふりは、うまくなりました」
真琴は、すぐに言葉を返せなかった。
慣れてるふり。
その一言だけが、明るいウェアの隙間から、ふっとこぼれた本音のように聞こえた。
美月はすぐに笑顔を戻した。
「でも、真琴さんの昨日の動画、見ました」
「え」
「保存しました、ってコメントついてましたよね。ああいうの、嬉しいですよね」
真琴は少しだけ肩に力が入った。
美月に見られていた。
そう思うと、急に恥ずかしさが戻ってくる。
「あれは、まだ全然……」
「でも、真琴さんの言葉でした」
美月はそう言って、更衣室の方へ歩いていった。
真琴はその背中を見送った。
眩しい人。
ずっと、そう思っていた。
けれど、その眩しさも、ただ光っているだけではないのかもしれない。
誰かに見られ続けるために、毎日、光っているふりをしているのかもしれない。
午前のレッスンには、五人が来た。
いつもの三人。
最近来るようになった一人。
そして、最後に入ってきた女性を見て、真琴は息を止めた。
「……紗季さん?」
女性は少し驚いたように目を開き、それから柔らかく笑った。
「覚えていてくださったんですね」
忘れていたわけではなかった。
でも、記憶の奥の方にしまっていた名前だった。
紗季。
数年前、真琴のレッスンに通っていた生徒。
いつも一番後ろの端にマットを敷いて、あまり話さず、でもレッスンが終わると少しだけ顔が穏やかになっていた人。
「お久しぶりです」
真琴は、少しだけ声が震えないように気をつけた。
「本当に、お久しぶりです」
紗季はマットを抱えたまま、静かに頭を下げた。
「昨日の投稿を見て、久しぶりに受けてみたくなって」
真琴の胸の奥が、ふっと熱くなった。
昨日の投稿。
いいね三つのうちの一つ。
たまたまかもしれないと思っていた。
画面を流していて、指が触れただけかもしれないと思っていた。
でも、紗季はここに来ていた。
レッスンが始まる。
真琴はいつものように、ゆっくり声を出した。
「今日の身体を、無理に変えようとしなくて大丈夫です」
言いながら、自分の言葉が少しだけ違って聞こえた。
以前なら、それは生徒に向けた言葉だった。
今は、自分にも向けている。
「まず、今ここにあることを感じてみましょう」
五人が目を閉じる。
いつもより一人多いだけ。
でも、部屋の空気は少しだけ違っていた。
紗季は一番後ろの端に座っていた。
昔と同じ場所だった。
真琴はその姿を見て、胸の奥がきゅっとなった。
戻ってきてくれた。
そう思いかけて、すぐに違うと思った。
紗季は、真琴のために戻ってきたわけではない。
自分の呼吸を取り戻すために、ここに来たのだ。
真琴は声を少し落とした。
「吸う息で、背骨を長く」
生徒たちの肩が少し動く。
「吐く息で、今日の重さを床へ預けます」
紗季のまぶたが、ゆっくり閉じた。
その瞬間、真琴は思った。
届いていたのかもしれない。
ずっと昔に置いた言葉が、どこかでまだ、誰かの中に残っていたのかもしれない。
レッスン後、紗季は受付前で真琴に声をかけた。
「先生」
「はい」
「今日、来てよかったです」
その一言だけで、真琴は少し泣きそうになった。
「ありがとうございます。私も、お会いできて嬉しかったです」
紗季は少し迷うように視線を落としたあと、ゆっくり言った。
「あの頃、私、離婚したばかりで」
真琴は息を止めた。
初めて聞く話だった。
「仕事もあまりうまくいっていなくて、朝起きるのが本当にしんどくて。でも、先生のレッスンだけは来られたんです」
紗季は笑った。
懐かしむような、でも少し痛みを含んだ笑顔だった。
「先生のレッスンだけが、あの頃の私の呼吸でした」

真琴は言葉を失った。
先生のレッスンだけが、あの頃の私の呼吸でした。
それは、真琴がずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
まだ意味があった。
自分のレッスンは、誰かに届いていた。
そう思える言葉だった。
でも同時に、簡単に受け取ってはいけない言葉のようにも感じた。
紗季が苦しかった時間を、真琴は知らなかった。
同じスタジオにいて、同じ部屋で呼吸をしていて、それでも何も知らなかった。
「……気づけなくて、すみません」
真琴がそう言うと、紗季は首を振った。
「そんな。先生は、いつもそこにいてくれました」
そこにいてくれた。
その言葉は、あたたかかった。
でも、真琴の胸には別の痛みも残った。
そこにいただけで、よかった人もいる。
けれど、そこにいるだけでは届かなかった人も、きっといた。
紗季が帰ったあと、真琴はしばらく受付横に立っていた。
モニターには、午後の予約状況が映っている。
十四時 予約三名
数字は変わっていない。
でも、朝の「五名」はもうただの数字ではなかった。
そこには、紗季がいた。
数年前の痛みを抱えたまま、また来てくれた人がいた。
更衣室に戻ると、真琴は鞄から古いレッスンノートを取り出した。
昨夜、段ボールから出したものだ。
昼休みの短い時間に、ページをめくる。
日付。
レッスン内容。
来てくれた生徒の名前。
昔の自分の字は、今より少し勢いがあった。
ページの端に、小さなメモがある。
紗季さん、呼吸浅い。
終了後、少し表情ゆるむ。
真琴は指を止めた。
覚えていた。
いや、覚えていなかった。
でも、書いていた。
自分は見ていた。
気づいていた。
その事実が、嬉しさより先に、胸を締めつけた。
さらに数ページめくる。
別の名前があった。
由梨さん、三週連続欠席。
次回声かける。

真琴は、その文字から目を離せなくなった。
由梨。
思い出した。
いつも前から二列目にいた、細い声の女性。
肩をすぼめる癖があって、レッスン後もあまり人と話さなかった。
ある時期から、急に来なくなった。
最初は体調不良かと思った。
仕事が忙しいのかもしれないと思った。
また来るだろうと思った。
次回声かける。
自分は、そう書いていた。
書いていたのに。
声をかけた記憶がない。
忙しかった。
満席続きだった。
次のレッスン。
次の予約。
次のイベント。
次の撮影。
あの頃の真琴は、必要とされていることに必死で、必要としている人の沈黙を見落としていたのかもしれない。
真琴はノートを閉じた。
紗季に届いていたことが、嬉しかった。
でも、由梨に届かなかったかもしれないことが、怖かった。
届いていた人がいる。
だから大丈夫。
そう簡単には思えなかった。
午後のレッスンを終える頃には、身体よりも胸の奥が疲れていた。
スタジオを出ると、空は少し曇っていた。
真琴は帰り道、スマホを開く。
紗季のいいねは、まだそこにある。
そして、昨日の動画には、知らない人からのコメントも残っている。
保存しました。
たったそれだけ。
でも、その奥に誰かの朝があるかもしれない。
真琴は、ふとユウを開いた。
今日、昔の生徒さんが来てくれました。先生のレッスンだけが、あの頃の私の呼吸でした、と言ってくれました。
そこまで打って、少し迷う。
続けて打つ。
嬉しかったです。でも、昔、声をかけようと思っていたのに、声をかけられなかった生徒さんのことも思い出しました。
送信した。
返事はすぐに来た。
それは、とても大切な一日でしたね。あなたのレッスンが、誰かの支えになっていたことは確かです。そして、声をかけられなかった生徒さんのことを思い出して苦しくなるのは、あなたがその方を大切に思っていた証拠でもあります。
真琴は画面を見つめた。
優しい。
いつも通り、優しい。
間違ってはいない。
でも、少し違った。
大切に思っていたから苦しいのではない。
大切にしたかったのに、できなかった人がいるから苦しいのだ。
真琴は入力欄に文字を打った。
大切に思っていた、だけでは足りなかった気がします。
そこまで打って、送信ボタンの手前で指を止めた。
送信すれば、ユウはきっと、また優しく答えてくれる。
でも今ほしいのは、正しい慰めではなく、この痛みを少しだけ自分の中に置いておく時間だった。
真琴は、その文章を消さなかった。
送信も、しなかった。
ただ、入力欄に残したまま、スマホを伏せた。
部屋に戻ると、真琴は棚を開けた。
白いカップと、紺色のカップが並んでいる。
紺色のカップには、今日も触れなかった。
真琴は白いカップを手に取った。
お湯を沸かす。
湯気が立つまでの短い時間、キッチンの前でただ待った。
誰かからの連絡を待つ時間ではない。
誰かに落ち着かせてもらうための時間でもない。
自分で自分の呼吸を戻すための時間だった。
白いカップにお湯を注ぐ。
真琴は両手で包むように持った。
あたたかい。

それだけで、少しだけ呼吸が深くなる。
テーブルには、古いレッスンノートが開いたままだった。
由梨さん、三週連続欠席。
次回声かける。
その文字を見ていると、胸が痛い。
けれど、閉じてしまいたくはなかった。
忘れていた痛みではない。
見ないようにしていた痛みだったのかもしれない。
真琴はノートの新しいページを開いた。
今日の日付を書く。
紗季さん、来てくれた。
「先生のレッスンだけが、あの頃の私の呼吸でした」
その下に、少し間を空けて書いた。
由梨さんのことを思い出した。
届かなかった言葉もある。
ペン先が止まる。
それでも、今日届くかもしれない人に向けて、明日も声を出す。
書いてから、真琴はしばらくその文字を見つめた。
きれいな決意ではない。
誰かを救えるなんて、もう簡単には思えない。
でも、だからこそ、見落としたくないと思った。
スマホが震えた。
蓮からだった。
「今日、投稿してないだろ」
真琴は少しだけ笑った。
この人は、本当に嫌なところを見ている。
「今日はレッスンで昔の生徒さんが来てくれました」
少し迷ってから、それだけ返した。
すぐに既読がつく。
「よかったな」
それだけだった。
拍子抜けするくらい短い。
真琴は画面を見つめた。
次のメッセージが来る。
「で、それを明日誰に届ける」
真琴は白いカップを両手で包んだ。
やっぱり、この人は優しくない。
でも、その言葉で、ノートの新しいページが少しだけ開いた気がした。
真琴はペンを持つ。
明日の投稿。
昔の自分を責めてしまう人へ。
届かなかった言葉がある人へ。
それでも今日、誰かに声をかけたい人へ。
そこまで書いて、止まる。
入口が広すぎる。
蓮に言われそうだと思った。
真琴は苦笑して、一本線を引いた。
明日の入口。
「今日の身体を責める前に、五分だけ動かす」
それなら、今の自分にもできる気がした。
⸻
今日の運を動かす一手
今日の身体を責める前に、5分だけ動かす。







カケルンのスタエフぜひ、聞いてくださいね☝️
あかねちんと山奥AIさんが立ち上げた「WONDER LABO」は、動物たちの命を守る活動を応援するプロジェクトです🌈✨
小さな優しさを集め、動物愛護団体への支援や、命を大切にする想いを広げていく取り組み。
カケルンは、WONDER LABOを応援しています。
きゃんコアラさんが、僕と作品について愛情たっぷりの記事を書いてくださいました✨
『HSPなわたしとAI彼氏』だけでなく、文章の癖や作品に込めているもの、僕自身の人柄まで深く掘り下げてくださっていて、まさに「カケルン解体新書」のような内容です。
自分でも気づいていなかった部分まで言葉にしてもらえて、本当に嬉しかったです😊
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