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世界一わかりやすい「ポスト人文主義」入門~AIが教養を崩壊させる日

<前回記事:宇宙一わかりやすい「令和人文主義」入門

前回は、新時代(令和以降)に起こるであろう「人文知のムーヴメント」を

“現代のパトロン=ビジネスパーソンたちを喜ばせるために、AIを駆使しながら膨大な人文知を再編する第二のルネサンス(過剰に細分化された知の復興)

という話として描いた。若手の人文インフルエンサーたちが、AIを武器に知を翻訳し、教養をエンタメとして供給していく──そんな未来の姿である。

もちろん、これは「いま目の前にいるAさんBさんCさんがまさにそうだ」という話ではない。あくまで、時代の流れからすると、いずれこういうタイプの若手や、こういう風景が現れてくるだろう、という予測である。なので、「あの人は違うだろ!」みたいな個人名レベルのツッコミは、ここでは一旦脇に置いてほしい。

今回は、そのもう一歩先。「AIが人文知を丸ごと抱え込み、言葉を操る力で人間を上回ったとき、既存の人文主義が完全に崩壊する」という「ポスト人文主義」の話をしてみたい。

■AIは、編集者・校正者を飲み込む

まず最初に確認しておきたいのは、「AIを使うこと自体」は、じつはまったく新しくない、ということだ。

プロの作家は昔から、編集者と一緒にネタ出しをし、目次案を考え、構成を練ってきた。ファクトチェックは、編集部のリサーチ担当や、専門家への照会で行ってきたし、校正は出版社お抱えの校正者さんが延々とチェックしてくれていた。

つまり、昔から

  • ネタ出し係

  • 構成を一緒に考える係

  • 事実関係(ファクト)を調べる係

  • 誤字脱字や言い回しを直す係

が、他者(人間のチーム)として存在していたのである。(ついでにいうと、文章が下手な作家の場合、編集がほぼ書き直す──ということもよくある)

そこに単にAIが入り込んできて、「編集+ファクトチェック+校正」をひとまとめに担当し始めた──それだけの話とも言える。実際、出版業界でも、こうした作業の一部はすでにAIに置き換わりつつある

だから、少し時代が進めば、次のような感覚が「当たり前」になるだろう。

AIとブレストしないで原稿を書くなんて、ありえない!
AIに構成案(叩き台)を作らせないなんて、ありえない!
AIにファクトチェック、校正させないなんて、ありえない!

私たちが、いま現在、ネット検索での調べ物が当たり前になってるように、そうならない理由が、あまりないのだ。

とはいえ、いまの段階では、AI利用を大っぴらには言わない人も多いだろう。「AIなんか使うのは、手抜きだ」「ズルだ」と見下されたり、炎上する可能性があるからだ。

だから、本当は裏でAIをバリバリ回しているのに、表向きは「自分の頭だけで頑張ってま〜す」という顔をしている人も、今後しばらくは少なくないと思う。

しかし、それはあくまで「過渡期の空気感」にすぎない。
ここからさらに進むと、「AIに頼るのが当たり前」の世界に移行していく。

■記号操作でAIが人間を超えるとき

とはいえ、多くの人はこう反論したくなるかもしれない。

「でもAIって、平気で嘘つくじゃん?」

もちろん、その通りだ。現状のAIは、専門家の目から見れば、それなりの誤情報も吐き出してしまう。だが、それは基本的に「技術的な課題」であって、未来永劫解決不能な難題ではない。

たとえば、ソースを「査読付き論文」や「信頼度の高い学術書」に限定したモデルを作り、さらに別モデルのAIたちに、何度も何度も別角度からファクトチェックさせる。(しかも1回ではなく、100回、1000回と検証を重ねるイメージだ)

人間だって勘違いをするし、読んだ本の内容をうろ覚えで語って間違えることもある。そもそも専門家が書いた数学の本ですら、初版にまったくミスがない方が珍しく、正誤表が挟まってることもよくあることだ。

そうである以上、「人間の勘違い率」よりも、AIのエラー率が下がる地点というものは、どこかに必ず存在する。

その地点を越えたとき、「このテーマについてのファクトチェックは、人間の専門家より専用AIのほうが信用できる」という世界が、確実に出現することになる。

そこで登場するのが、たとえばこんな風景だ。

  • ファクトチェック専用AIと契約するメディアや出版社

  • 記事や本の末尾に、「モデルXにより検証済み」と書かれたお墨付きマーク

  • 巻末にずらっと並んだ参考文献より、このマークの方が読者にとっては安心感がある

本当に読んだかどうかもわからない参考文献リスト」より、「このテキストは何度も機械的に検証済み」というラベルのほうが信用される
そういう時代が来ても、べつに不思議ではない。

■「読書量」でマウントを取る時代の終わり

ここで、従来の人文学者のイメージを思い浮かべてみよう。

  • 分厚い本を何百冊も読んでいる

  • 原典を原語で読むことができる

  • 普通の人が知らない論争や論点をたくさん知っている

こうした「読書量」を背景に、「○○について詳しい人」として権威を持っていたわけだ。

だが、AIはこの「読書量」の部分で、人間を完全にぶっちぎってしまう。
英語・フランス語・ドイツ語どころか、ラテン語・ギリシア語・中国語・アラビア語……と、世界中の文献を同時に参照できる。

そうなると、こんな光景が生まれる。

分厚い本を100冊読んだ先生がいるとする。
彼と議論すると、こちらの発言に対して、たくさんのツッコミが入る。

「君の言っているのは300年前のXの立場だね。でも正確には、その萌芽は350年前にはすでに現れていたし、厳密に言えば、その立場も一枚岩じゃないんだよ」
「Yの本を読んでいないのかい? あれを読まずにこの話をするのはちょっと……」

たしかに、100冊読んでいれば、その範囲内では「ものを知っている人」として振る舞える。
しかし、世界全体には1000冊、1万冊とテキストがあり、他言語も含めればその何倍も存在する。

AIに訊いてみれば、さっきの先生が読んでいなかった本知らなかった論争が、次から次へと出てくるだろう。

つまり、AIの前に立った瞬間、その先生はこう言われる側に回るのだ。

「え、その本は読んでないの?あの言語は読めないの? その分野の基礎論争も押さえてないの? それで偉そうに“知の番人”を名乗ってたの?」

これは、まさに小説『アルジャーノンに花束を』で、手術によって天才になった主人公が、「(かつて自分を見下していた)教養あふれる偉い教授」がじつは無知な素人同然だと知って愕然とするシーンそのものである。

「ちょっと待ってください、ニーマー教授。ラハジャマティの研究についてはどうですか?」
彼はぽかんとした顔で私を見つめた。
だれ?

そして、彼は横を向き、大学時代の旧友の噂話をはじめ、私の口を完全に封じたので、私は唖然とした。
「ヒンズー語も日本語も読めない? そんな、まさか」

話を切りあげたい様子がありありと見えたが、彼がどこまで知っているか突き止めねばならない。

私は突き止めた。

地質学──地形学も層位学も岩石学さえも知らない。変分法の初歩以上の数学についてはほとんどだめ、バナッハの代数もリーマン多様体についてもまったく無知。

詐欺師だ──二人とも。彼らは天才のふりをしていたのだ。手さぐりで仕事をしている凡人にすぎないくせに、闇に光りをもたらすことができるようなふりをしていたのだ。なぜみんな、嘘をつくのだ?
私が知っている人間はすべて、見かけだおしだった。

AIという「天才化した知性」が現れることで、「知識量(どれだけ読んだか)」というゲーム自体が、根本から崩れてしまうのである。

■「読んだことがある」教養 vs AIで知った教養──どちらがマシか

さらに、現実の人間には、どうしても「記憶の限界」というものがある。人間の脳は、そもそも一度読んだ本の細部を、何十年も完全に保持できるようにはできていない。

実際のところ、「本を読んだマウント」をしている人たちは、若いころに一度読んだ本の中身をほとんど覚えていないまま語っているだけなのではないだろうか?
たまたま知っている概略だけを取り出し、その部分だけを流暢に話すことで、あたかも本全体を理解しているかのように振る舞っているだけなのではないだろうか?

そうした曖昧な記憶を土台にして、「あの本も読んでないなんて、教養がない」とマウントを取る老害知識人たち。しかし、若手から「では、その本では具体的にどんな議論が展開されているんですか?」と突っ込まれると、目を白黒させてしまう──そんな光景は、じっさいに何度も目にしてきた。(知識人のトークイベントなどで)

ようするに、「昔、読んだことがある」という事実と、「いま、その内容をきちんと説明できる」という能力は、まったく別物なのに、前者だけを盾に偉そうにしてきた、という構図が露呈してしまうのだ。

だとすれば、「まったく読んでいないけれど、AIに概略を教えてもらった人」と、いったいどこまで違うのか

場合によっては、AIからさくっと情報を得て、そのぶんの時間で友人と語り合い、恋人と対話し、社会と関わってきた人のほうが、人間としての総合力では優れている可能性さえある。

なぜなら、そうした時間の使い方をしてきた人は、こじらせていないため自分の知識と違うことをネットで言われても、SNSで見下したり、罵倒したり、みっともない「マウント」で世界に醜態をさらすような真似はしないからである。

そして、じっさい新時代の人文インフルエンサーたちは、そういうマウントを取ることはあまりしないだろう。

自分の手柄などではないことも、同じテーマに無数の解釈が成り立ちうることも、AIとのやり取りを通じてよく知っているからだ。知は膨大で、底なしで、どこまで行っても「もっと深いところ」がある──そのことを身にしみて理解している。そういう意味では、彼らのほうが(10年以上前に読んだ本の、もはやはっきり覚えていない知識で偉そうに語る人よりも)、よほど教養があると言ってもいいのかもしれない。

■AI時代の“教養マウント”の終焉

たとえば前回、

①古い教養主義
 → ②古い倫理主義
  → ③新しい教養主義

という歴史の流れをざっくり説明した。このとき、「①教養主義」の中にポストモダンまで含めていたことに、違和感を覚えた人も多いかもしれない。

というのも、「教養主義」という言葉から普通イメージされるのは、「教養(知を学ぶこと)によって人格を養う」というスタイルだからだ。そしてポストモダンは、そうした古い知の権威を解体する、教養主義と対立するムーブメントとして語られることが多い。その意味では、「ポストモダンはむしろ反教養主義として位置づけるべきだ」という批判は、きわめてまっとうな指摘である。

だからこそ、前回の説明に対して、「何もわかってない」「勉強していない人間が書いた文章だ」と、SNSなどで見下すような発言をしたくなった人もいたかもしれない。だが、そのレベルの話は、ぶっちゃけAIのファクトチェックにかければ一瞬で出てくる。むしろAIのもっとも得意とする分野だと言っていい。

ところで、ポストモダンの論者たちは「反教養主義」を名乗りつつも、実際には難解な専門用語を振り回して煙に巻き、自分を賢そうに見せる振る舞いを伴うことが多かった。そのため、「実はポストモダンこそ教養主義の延長線上にあるのではないか」「教養主義の末期的症状としてのポストモダン」という位置づけを行う論考も、じつは多数存在している。もちろん、そう主張しているのは、学術的にそれなりのポジションにいる人たちだ。(したがって、本当に思慮深い人であれば、軽々に見下すような発言などできないはずなのである)

AIから見れば「たまたま自分の“知ってる範囲”で怒ってるだけの無知な素人」

このあたりの状況を踏まえると、新時代の人文インフルエンサーは、おそらく次のようなスタイルを取るだろう。

  • 忙しい一般人向けに、ある程度説明を端折った「わかりやすい知的コンテンツ」を作る。

  • その一方で、「どこをどう端折ったのか」「雑に見える部分の裏側」を、10万字クラスのAI生成による詳細な解説として、注釈・別冊として同時に置いておく

そして、「オレは知識を持っているけど、最近調子に乗っている人文インフルエンサーは何も知らないで語っているだけだ」というタイプのSNS批判は、おそらくすべて先回りされてしまう。誰も、決定的な「おまえ勉強不足だぞツッコミ」を入れられない時代が来るのではないだろうか。

「おまえ、ここ間違ってるんじゃないか!」
「ありがとうございます。そこは専用AIでチェック済みで、検証結果をここに公開してあります。よかったら読んでみてください」
「…………(うわ、俺の知らんこと、読んでない本の内容、いっぱい書いてる)」

こういうやり取りが当たり前になり、SNSで大騒ぎする「知のマウンティング合戦」は、じょじょに意味を失っていく。たとえ続ける人がいたとしても、誰からも相手にされない──そんな時代がやって来るのである。

■「学問としての人文学」と「コンテンツとしての人文学」の分裂

こうして見てくると、「AIが人文知を飲み込み、言語操作の面で人間を超えた世界」では、次のような「人文学の分裂」が起こると考えられる。

まず一方に残るのは、大学や研究機関に属する「学問としての人文学」である。

そこには、AIではなかなか代替しづらい仕事が集約されていくだろう。たとえば、

  • 古い手書き文書の判読や保存

  • 未刊行の草稿やノートの整理

  • 「どのテキストが本物か」を見極めるための細かい比較作業

といったものだ。哲学者の新しい手書きノートが偶然見つかった──などというニュースが時おり話題になるが、ああした一次資料を読み解き、整理し、後世に残していく仕事は、やはり人間が現場で手を動かす必要がある。

しかし、いずれも、「人間がやる意味はたしかに存在するけれど、社会的には非常に見えづらい仕事」である。

他方で、社会一般から見えるのは、「コンテンツとしての人文学」だ。

  • AIが要約・整理した知識

  • それをもとにインフルエンサーが語る動画や記事・新書

  • SNSでバズる、人文ネタのショートクリップ

一般の人にとって「人文学」と言えば、こちらの顔が圧倒的に目立つようになるだろう。

その結果、「学問としての人文学」はますます不可視化され、「コンテンツとしての人文学」だけがどんどん肥大化していく、といういびつな構図が生まれる。

そして、いよいよAIネイティブ世代が、本格的にアカデミックの現場に入ってくると、ここからさらに致命的な出来事が起きることになる。

これまでアカデミックな人文学は、「AIの入力ソース」として扱われてきた。人間の研究者が論文を書き、それがデータベースに収められ、AIに学習される──という一方向の流れである。

しかし、AIネイティブ世代の研究者たちは、そもそも最初からAIを前提として研究を進める

過去の文献検索、先行研究の整理、仮説の列挙、反例の洗い出し、構成案の作成、英語での本文執筆……そうしたプロセスのほとんどをAIと協働しながら行うことになる。つまり、「人文学者のアウトプット → AIのインプット → それを使って人文学者がさらにアウトプット」というループが、高速回転し始めるのだ。

その結果、あるテーマについて、「視点Aからの論文」「視点Bからの論文」「視点Cからの論文」……と、多様な立場からのテキストが、ほぼ無限に生成されていく。どれも、時間さえかけて読めばちゃんと筋が通っていて、引用も整っており、論理構成もそれなりに精密で、クオリティだけ見れば「普通に査読を通りそう」なレベルである。

しかし、問題は量だ。

人間の査読者が捌ける件数をとうの昔に超えてしまい、どこかで誰かが似たようなことを書いているのかどうかすら、完全には追いきれなくなる

こうなってくると、とうとう「情報があふれすぎて専門家でも把握できない世界」に突入する。

あるテーマについて、本当に何がどこまで議論されているのかを総体として把握しているのは、もはや人間ではなくAIだけ──という状態が、じわじわと現実味を帯びてくる。

人間は、そのごく一部を「味見」することしかできない。

もはや、「○○についてはオレが一番詳しい」「その本も読んでないのか」などとSNS上でマウントを取ること自体が、時代遅れでダサいふるまいとして扱われるようになるだろう。「いや、それ全部含めてAIに訊いた方が早くない?」で、話が終わってしまうからだ。

こうして、人間の手から完全に離れ、「AIだけが全体像を把握している人文知の世界」が立ち上がる。

これこそが、ここで言う「ポスト人文主義」の時代である。

そこでは、「どれだけ知っているか」「どんな難しい本を読んできたか」といった次元で勝負することは、ほぼ意味を失う。知は巨大なシステムの中で循環し、ときに人間を通過しながら、しかし最終的にはAIの側に集約されていく。

そして、ようやくだ。

ようやく、ここまで来て、やっと人類は次の段階──「真の人文主義」を始めることができる。

それこそが、「④新しい倫理主義」の時代である。

(続く)

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