『ジョジョで学ぶ実存哲学』~実存とは「うるせーよ現実みろ!」である
<前回記事:『ジョジョで学ぶ実存哲学入門』>
哲学における重要なキーワードとして「実存(じつぞん)」という言葉があり、これを重視する立場を「実存主義」と呼ぶ。この「実存主義」という立場で哲学を展開したのが、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトル──誰もが名前ぐらいは聞いたことがあるであろう有名な哲学者たちである。
■実存とは何か?
本書では、「ジョジョ=実存哲学(実存主義の哲学)」という構図を主張していくわけだが、そもそも「実存」とは、一体何なのだろうか?
まず、「実存」とは「現実存在」の略である。
海外から伝わってきた哲学用語に「existentia(エクジステンティア)」という言葉があり、本来これは「現実存在」と訳されるべき用語だったが、日本の哲学者・九鬼周造がこの言葉をなぜか短縮。
「現実存在? 現実の“実(じつ)“に? 存在の“存(そん)“? けっ! これからは、てめーを『実存(じつぞん)』って呼んでやるぜ!」
──と、九鬼周造が言ったかどうかは定かではないが、ともかく、
現実存在 → 実存(じつぞん)
という感じで、真ん中の漢字が「実」と「存」と続くことから「実存」と呼ばれるようになり、この短縮形が有名となった。以後、「現実存在」という正式な言葉よりも、「実存」のほうが日本では広く使われるようになったのである。
※ようは、「空条承太郎」が「条承」と続くので「ジョジョ」と呼ばれたのと同じ話で、「実存」とは「現実存在のニックネーム」だったのである。
※ついでに言うと、「実存」の大元の語源であるラテン語「ex-sistere」は「外に立つもの」という意味であり、「スタンド(=そばに立つもの)」と似た意味を持っている。
では、この「現実存在(=実存)」とは、そもそも何なのか?
これはそのまま、「現実の存在」という意味である。
つまり、「見たり触れたりできる、目の前にある現実のもの」のことだ。
え? それだけのこと?──そう思うのも無理はない。なぜ哲学者たちは、そんな当たり前のことを、わざわざ「実存」なんて小難しい名前で呼んで、ありがたがっているのか?
その理由は、この「現実存在」という概念が、「本質存在」という考え方に対するカウンター(反抗)として登場してきた、という歴史的背景にある。
■「本質存在」とは何か?
さて、また新しい用語が出てきた。
「本質存在」。
専門家には怒られるかもしれないが、あえて入門書のノリで言わせてほしい。
哲学というのは、ざっくり分ければたった二つの流れしかない。
①本質主義:「本質存在が大事だよ」という哲学
②実存主義:「いやいや、現実存在の方が大事だよ」という哲学
そう、哲学といえば難解で、素人には到底理解できないものだと思われがちだが、実のところ、この二つしかないのだ。したがって、もしあなたが、「本質存在」と「現実存在」がそれぞれどんなものかさえ分かれば、「哲学は全部わかった」と言ってよいだろう。
では、「本質存在」とは何か?
これも簡単な話。読んで字のごとく、「本質の存在」という意味である。
もともと「本質」とは、「物事の根本的な性質」のことであり、もちろん「見たり触れたりできない、概念的なもの」である。そして、「伝統的な哲学(いわゆる普通の哲学)」は、この「本質(=本質存在)」を延々と探究し続けてきた。
実際、
「正義の本質とは何か?」
「幸福の本質とは何か?」
──といった問いは、まさに「哲学っぽい問い」だろう。
※たとえば、「愛とは何か?」「人間とは何か?」などを哲学は考えてきたわけだが、これはようするに「愛の本質とは何か?」「人間の本質とは何か?」を問いかけているのである。
さて、こうした「本質」について考える伝統的な哲学を「本質主義」と呼ぶわけだが、一見すると、それはとても立派で素晴らしい営みに思える。
だが、ここにはちょっとした落とし穴がある。
それは、「本質」を重視しすぎると、現実に生きている個人(=現実存在)を「切り捨てがち」になってしまう、という点だ。
たとえば、偉そうな先生がやってきて、「人間の本質とはこういうものなんだよ」と、偉そうに語ったとしよう。あなたはきっと、こう反発したくなるはずだ。
「いやいや、あんたの決めた『人間像(=人間の本質)』を勝手に押しつけないでくれます? 私は『私の現実』を生きてるんだからさ!」
──そう。同じことが哲学の歴史でも起きたのだ。つまり、偉い先生たち(過去の哲学者たち)があまりに「本質」を振りかざしすぎたので、ついにムカついて反旗を翻す者たちが現れたわけだ。それこそが「実存主義」の哲学者たちである。
彼らの主張は、ただひとつ、ざっくりまとめるとこうだ。
「本質本質うるせーよ! もっと現実に目を向けろ!」
そして、彼らは次のように「反抗」する。
本質「人間の本質とは、これこれである」
実存「うるせーよ! 現実に生きてるオレの人生を無視して語んな!」
本質「幸福の本質とは、こうだ」
実存「うるせーよ! そんなもん、現実に生きてるオレが決めることだわ! 」
ようするに、実存主義とは、(偉そうに「これが正解だ」と上から押しつけてくる)頭でっかちな本質主義に「立ち向かうもの」であり、「机上の空論ばかり語ってないで、もっと『現実の存在(=実存)』から物事を考えろ!」という思想なのである。
■万人共通の答えより大切なもの
それに、そもそもである。
「○○の本質はこれこれだ」と誰かに言われたとして、あなたはそれを信じられるだろうか?
たとえば、歴史上の有名な哲学者が言った、哲学教授が言った──そんな「権威づけ」があれば、多少は耳を傾けるかもしれない。だが、そういう先入観なしに、もし、彼らが、そのへんの近所のやつとして「幸福とはこういうことだ」「正しく生きるとはこういうことだ」と語ってきたら、きっとこう思うはずだ。
「は? おまえに、何がわかんねん」と。
それに、その主張の「正しさ」を証明することもできない。「ふーん、それが正義の本質だって言うけどさ、それって本当に正しいの?」──で終わってしまう話である。
もちろん、本質主義の哲学者たちは、そんな反応を認めない。彼らは、この宇宙に「これぞ正義だ!」という完璧な定義(=本質存在、イデア)が存在すると信じており、人間はそれを探究し、それに到達するべきだと思っている。そして、「理性を働かせれば、いつか必ずそこに辿り着ける」とも信じている。ようするに、彼らは「時代や人間を超えて成立する」ような、万能でパーフェクトな「答え(正解)」を探してるわけだ。
しかし、だからこそ、その言説はどうしても万人共通の、誰にでも当てはまるような内容にならざるを得ない。少し悪く言えば、「一般論」に落ち着かざるを得ないということでもある。
──そんなものが、はたして本当に大事だろうか?
実存主義の代表であるキルケゴールは、こんな言葉を残している。
「大切なのは、私にとって真理であるような真理を見つけることだ。そして、私がそのために生き、死ねるような理念を見つけることである」
キルケゴールが求めたのは、「万人にとっての真理」ではなく、「私にとっての真理」、つまり「自分が生死を賭けるに値するような真理」であった。
──実際、その通りではないだろうか?
誰にでも当てはまるような「幸福」
誰にとっても正しい「正義」
──そんなもの、見つけたところでどうだっていい。
本当に大切なのは、現実に生きてる私が、
「そのために生きてるんだよ!」
と言えるような幸福
「そのためなら死んだっていい!」
と言えるような正義
──そういうものを見つけること。
そこまで思えるような「幸福」や「正義」こそが、本当の幸福であり、本当の正義なのではないだろうか?
つまり、万人共通の、絶対的な答えなんか、どうでもいいのだ!
こうした実存主義の態度を、的確に表現しているセリフが『ジョジョ』にある。第七部『スティール・ボール・ラン』に登場する、ジャイロ・ツェペリのこのセリフだ。
「俺は『納得』したいだけだ!
マルコが本当に処刑されなくてはならないのか!?
ジョニィが見つけたがっている『遺体』とは何者なのか?
『納得』はすべてに優先するぜッ!」
ジャイロが求めているのは、「正解」や「絶対的な真理」ではない。
「俺自身が納得できるかどうか」──それだけだ。
もし本質主義者なら、「正解」を探したかもしれない。
「何が正しいのか」を理性的に導き出そうとしたかもしれない。そして、その「正しさ」や「正解」に従おうとしたかもしれない。
だが、ジャイロは違う。
「そんなものはどうだっていい! いいから俺を納得させてくれ!」と叫ぶのだ。
この精神こそが、実存主義の核なのである。
■まとめ
今までの話を図にしてまとめてみよう。

特に重要な違いは、「真理に対する態度」である。あなたはどっちの哲学に共感を覚えるだろうか?
本質主義:万人共通の真理を探せ!
実存主義:オレが納得できる真理を探せ!
さて、「実存主義」がどういう雰囲気か、だいぶわかってきたのではないだろうか。実存主義とは、「今、現実に生きている私(あなた)」を重要視し、その視点からすべてを考えようとする哲学体系なのである。
さあ、これで説明の下地は完成した。
「本質主義 VS 実存主義」の構図が理解できたところで、次章からは、より具体的にジョジョの名シーンを参照しながら語っていきたいと思う。
(To Be Continued...)
■おまけ
蛇足であるが、銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーの言葉を紹介したい。
「私は少し歴史を学んだ。それで知ったのだが、人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。生命以上の価値が存在するという説と生命に勝るものはないという説とだ。人は戦いを始めるとき前者を口実にし、戦いをやめるとき後者を理由にする。それを何百年、何千年も続けて来た」
ここで言う生命とは、「現実存在」だと思ってもらえばいい。そして、前者は本質主義であり、後者は実存主義である。本質主義は、「現実の存在(個人の人生、命)」よりも価値のあるものがこの世にあると信じて、それを求めようとする(そして、そのためには手段は問わない)。一方、実存主義は、「現実の存在」こそが価値であり、それ以上のものはないと考える。
歴史とは、この二つの主義が、シーソーのように上下しながら進展していくものなのである。
そして、今は本質主義の時代が起こりつつある、と私は見ている。この辺の話もいずれ書きたいと思っている。
※このnoteでは、哲学や科学など、人類が考えてきた「知」を面白く解説しています。初めての方は、以下の記事から読むのがおすすめです。
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