『ジョジョで学ぶ実存哲学』~吐き気をもよおす“邪悪”の正体
<前回記事:実存とは「うるせーよ現実みろ!」である>
前回の記事で述べたように、「哲学の歴史」とは、ざっくり言えば、
本質主義 VS 実存主義
という対立の歴史である。
本質主義とは、
「正義の本質とは何か?」
「幸福の本質とは何か?」
といった問いに対して、完璧で間違いのない“究極の答え(=真理)”を求める哲学であり、いわゆる“一般的な哲学”のことである。
一方、実存主義とは、
「そんなもん人間にわかるわけないだろ!オレたちは、何が正しいかもわからないまま、この不条理な世界に放り込まれた“現実の存在(=実存)”なんだからよ。だから、不安を抱えたまま、間違ってるかもしれないけど自分で決断していくしかないんだ!」
という哲学である。
※ちなみに別記事では、これを白哲学(=本質主義)と黒哲学(=実存主義)という形で整理しているので、そちらも参照してほしい。
さて、本シリーズの目的は、「ジョジョ=実存主義哲学である」ということを明らかにすることだった。
ということは、当然こうなる。
主人公側(歴代ジョジョ)=実存主義(不安の中で決断する)
ラスボス側(ディオ、カーズなど)=本質主義(不安のない究極の状態を求める)
つまり、ジョジョの戦いとは、スタンドバトルである以前に、
実存 VS 本質
という、“哲学的立場(=生き方)”をめぐる戦いなのである。
■本質主義は“行き過ぎる”と邪悪になる
ここまでの話で、ジョジョの敵は「本質主義」である、という位置づけをした。すると、こう思う人もいるかもしれない。
「じゃあ、本質主義(=本質を求める一般的な哲学)って悪なの?」
誤解してほしくないのは、本質主義それ自体が悪だと言っているわけではない、ということである。
「正義の本質とは何か?」
「理想の社会とは何か?」
これらを考えること自体は、決して悪ではない。
だが、問題は、それが“行き過ぎた”ときだ。
前述のとおり、本質主義は、常に「究極の答え(=真理)」を求める。仮に、本質主義の立場の人が、何らかの答えを出したとしよう。
「完璧な正義とは、〇〇である! これが真理だ!」
「理想社会を実現する政治思想とは、〇〇である! これが真理だ!」
だが、人間は神様ではない。
人間は「実存(=現実存在)」であり、不完全な存在なのだから、その答えが“間違っている可能性”は十分にある。いや、むしろ、“間違っている可能性”のほうが高いぐらいだろう。
だから本来なら、人は「不安」になる“べき”である。
たとえば、次のようにだ。
「完璧な正義とは、〇〇である──と言ってしまったけど、でも、本当かな。間違っているかもしれないよな。私には正しく思えても、他の人にはそうじゃないかもしれないし」
正解(=真理)がわからず、人間が人間である以上、この「間違いを犯す恐れ」──すなわち「不安」からは逃れられない。
しかし、“行き過ぎた本質主義”は、この「不安」を引き受けない。
むしろ、こう考える。
「完璧な正義とは、〇〇である──と言ったが、これは“絶対的に正しい答え”のはずだ。だから、むやみに疑うべきではないし、不安に思う必要もない。そして、もし文句を言うやつがいたら、排除しなくてはならない。なぜなら、これは“絶対的に正しい答え”──真理だからだ!」
さあ、こうなってしまったら、もうおしまいだ。
こういう人は、とてつもなく独善的で、暴力的になる。
よくSNSなどで見かけないだろうか。正義の名のもとに、他者を口汚く攻撃している、いわゆる「知識人」たちを。
彼らの言っていることは、基本的には正しい。
「差別はよくない!」
「被害者に寄り添え!」
まったくその通りだ。何ひとつ異論はない。
しかし、そうは言ってもだ。
個人にはそれぞれ事情や現実があるだろうし、たった一度きりの人生の中で培ってきた価値観や、世界の見え方というものだってある。それに“敬意を払う”という態度も、あっていいはずだ。
だが、彼ら──行き過ぎた本質主義者たちは、そんなことは考慮しない。
なぜなら、「俺たちは正しく、あいつは間違っている」からだ。
だから、自分が掲げた理想に反する者たちに対して、相手の事情などお構いなしに、謝罪するまで徹底的にやり込めようとする。
そして、この構図を巨大化させたものが、
“粛清”であり、“虐殺”である。
「正義を守るために、“粛清”しなくてはならない」
「理想社会を実現するために、“虐殺”しなくてはならない」
これは、歴史上、しばしば起きてきたことである。
行き過ぎた本質主義は、自らの正しさに固執するがゆえに、「邪悪」と呼べるほど、どこまでも残酷で、暴力的になれるのだ。
■理想はなぜ人を残酷にするのか
しかし、よく考えてみると、不思議ではないだろうか。
だって、本質主義とは、本来、「正義」や「理想」など、正しいものを求める立場のはずである。
それなのに、なぜ粛清や虐殺といった、あれほど残酷な行為が可能になるのか。
もちろん、「個人(実存)」よりも「理想(本質や真理)」を優先する思想だから、という説明もできるだろう。実際、歴史を振り返れば、大量虐殺を行ってきた人々は、例外なく「理想」を叫ぶ側だった。その意味では、
個人 < 理想
という“本質主義の構図”が生み出す必然とも言える。
だが、実存主義の哲学は、ここからさらに踏み込み、本質主義が「吐き気をもよおすような邪悪」へと変貌する理由を、こう分析する。
それは、彼らが“不安から目を背けるから”なのだ、と。
■吐き気をもよおす邪悪の正体
少し、私たち自身の日常に目を向けてみよう。
私たちの毎日は、基本的に「不安」だらけである。
あなたは「A」が正しいと思っているかもしれないが、その隣には「いや、Bだ」と言う他者がいる。未来には何が起こるかわからないし、下痢腹かかえて公衆トイレを捜しまくることだってあるだろう。
このように、他者に囲まれ、先の読めない未来の中で、理不尽な出来事に振り回されながら生きていく。
──これが、私たちの現実だ。
実存主義の哲学にとって、人間とは、こうした不確実な世界に放り込まれ、不安を抱えたまま生きる存在なのである。
それがまさに「実存」──“現実の存在”である、ということなのだ。
そして実存主義とは、この呪われた状態から目を背けるな、という哲学である。
不安はある。保証はない。それでも、“勇気”を振り絞って前を向いて“決断”して生きろ。
それが「生きる」ということなのだ、と。
だが、行き過ぎた本質主義は、それに耐えられない。
だから、世界を作り替えようとする。
反対する他者を排除し、
不確定な要素を排除し、
理不尽な運命を排除し、
つまり、「不安」そのものを消そうとする。
そして、これこそが、「吐き気をもよおす邪悪」の正体である。
邪悪とは──いいか、よく聞け。真の邪悪とは、
単純に欲望にまみれた分かりやすい悪のことではない。
それは、自分が「実存」──不安定で、間違いだらけの“現実の存在”であることを忘れ、“不安”を拒絶し、自分の“安心”のために、他者を排除し、犠牲にし、踏みつけにするやつのことだ。
それこそが、邪悪の正体なのだ。
吐き気をもよおす邪悪は、悪意から生まれるのではない。
“不安から目を背けたとき”に生まれるのである。
■ジョジョのラスボスの共通点
さあ、ここまでの話を踏まえて、『ジョジョの奇妙な冒険』のラスボスたちを見ていこう。
彼らには、はっきりとした共通点がある。
それは、
実存の拒否
──すなわち「度を超えた不安の排除」
である。
たとえば第一部のラスボス、ディオ・ブランドーは、こう言う。
「人間ってのは能力に限界があるなぁ。
おれが短い人生で学んだ事は……
人間は策を弄するほど予期せぬ事態で策がくずされるってことだ!
人間を超えるものにならねばな……
おれは人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!」

これは、単なる悪役の高笑いではない。
哲学的な宣言である。
人間とは、不安定な存在だ。
予期せぬ事態に振り回される存在だ。
失敗する存在だ。
それが「実存」──現実の存在である。
だが、ディオはそれを拒否する。
不安があるなら、不安そのものを消せばいい。
限界があるなら、人間をやめればいい。
予測不能があるなら、支配すればいい。
つまり彼は、
実存に耐えきれず、それを捨てて、本質(=絶対的存在)を過度に求めた男
なのである。
そして、まさに『ジョジョ』とは、
「不安を拒絶し、不確定を排除しようとする邪悪なる者たち(=行き過ぎた本質主義者たち)」と、
「不安を抱えたまま、それでも勇気を持って決断する者たち(=実存主義者たち)」
その戦いを描いた物語だったのだ。
さあ、お膳立てはできた。
次は、第二部から第七部までのラスボスたちのセリフを振り返ってみよう。
(To Be Continued...)
※このnoteでは、哲学や科学など、人類が考えてきた「知」を面白く解説しています。初めての方は、以下の記事から読むのがおすすめです。
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