メディアの話 「評論」の耐用年数。
私が、高校時代位の時に
ロックを聞こうとすると
ラジオから情報を入手するか
雑誌で新譜案内を見るしかなかった
で、音楽雑誌というのがあった
その評論と言う奴が、しばしばひどかった
ただの感想文と好き嫌いを、わざわざ難しく書くだけ
特にひどかったのが
雑誌があった。
評論家のダメな部分を煮しめたようなレビューの数々
次にどんなアルバムが出るのか、それを知るために立ち読みすると
思い込みに満ちた文章が。
で。今見ると
記憶以上にひどかった
80年代
評論ごっこをしてる人たちは
マスで流行っているものを否定しないと
自分たちのダサい場所が維持できなかった
とも言える。
その意味で誰もが情報発信できるようになったSNSの
個人のレビューの方が、
実は当時の雑誌然世紀の雑誌の評論なんかより
はるかに読み応えがあったりする
昔の雑誌文化がすごかった。
雑誌の情報発信がすごかったっていうのは、
かなり大きな補正バイアスが入っている
永久保存されちゃうのは
評論家より遥かに耳のいい
世界中のリスナーが選んだ
マイケルジャクソンの音楽と
幼稚なマイナー思考の感想文を隅っこで書いていた
評論というジャンルの残骸だったりする。

とある映画の評論を読んで、とっても勉強してるんだけど、とっても弱いなと思った。
何が弱いか
それは人の知識によりかかっちゃってる点である。
これってものすごく難しい話で、どういうことかって言うと、評論家とか学者と言うのは、既に形節や権威となっている。先輩の言葉をいちいち借りないと表現ができない。
しばしばその構造になっている。
論文の方というのがそれが前提となってるから。
まぁしょうがないんだけど
でもそのかけ方はしばしば
であんたはどう思ってるのが
徹底的に消えてしまう。
つまり他者から引用した言葉をいくらつなげても、
その人の言葉とその人の体が一致してない。
こうした言葉は徹底的に弱い。
どこで弱いか
単純な話だ。
その業界の外側にいる人たちに
全く伝わらない。
引用しないでたらめな言葉の方が強くて
普及しちゃったりすることがしばしばある。
内容はめちゃくちゃだったり間違ってたりする。
ここでその良いとか悪い話はしない。
悪いケースはいっぱいある。
ただそっちの言葉がしばしば強かったりする。
どこで強いか。
その業界の外側にいる。ほとんどの人たちに対して。
正しいか間違ってるかとは関係なく
伝わってしまう。言葉と言うのは
引用を前提としてない
その言葉を発した人の肉体と
その言葉がセットになった瞬間だ。
これはまぁ間違いない。
私自身が大学で仕事をしてるから、文章を書くときは、むしろ自分の前提となってるデータ、それから前例、事例はなるべくちゃんと記すようにしている。
その上で自分自身の体から出てきた言葉が
どっからどこまでか。
両方を満たすってのが実に難しいと言う事はものすごく自覚している
