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「急に具合が悪くなる」と6月の蝉と真夏の灰について。

「急に具合が悪くなる」

浜松北部のサンストリートのシネコンで見る。

東京で初日2日目に見たのに続き、2回目である。

今回は、80代の母親と。

手前の「マイケル」に次々と人が吸い込まれる中、決して小さくない劇場にいたのは。

私たち2人。

入っていない映画館に行ったことは何度もある。

が、自分と母親の2人だけ、というのは初めて、である。

この老母とこの映画をたった2人で、
地方=カントリーサイドのシネコンで観るということ自体が、
この映画の主題と大きく関わるのだが、その話はまた別に。

繰り返すが、映画は2回目である。

実はいくつも確かめたかったことがある。

浜松で。

それが個人的に達成できた。

こっから先は「ネタバレ」である。

読みたくない人は読まないでください。

そして以下は、考察でもなんでもない。

ただ、思ったことである。もしかしたら、こんなことを思ったのは、私1人かもしれない。

最初にこの映画を観た時に

「とんでもないものを見た」というか「体験した」というか「参加した」という感覚に覆われた。

間違いなく、今年どころか自分の映画体験の中でもダントツの「革命」的映画だった。

だけど、たった一つ、ものすごーく引っかかったところがある。

内容ではない。

シナリオでもない。

映像でも、俳優の演技でもない。

もちろん演出でもない。

それは。

蝉の声、である。

映画では、

パリで、真理がマリー・ルーの働く施設の庭で倒れのち、ベッドにふせって「ちっくしょう」とつぶやく。

6月16日という日付(たしかそう)

画面が暗転して、トンネルが現れる。

向こうからやってくるのは新幹線。

パリから京都に舞台が移る。

京都の街を経て、2人は京都の田舎の山の麓にタクシーで着く。

両親が亡くなった後の真理の実家だ。

で、タクシーを降りた瞬間、

ツクツクホウシの蝉時雨が2人に降り注ぐ。

さらにミンミンゼミが合唱。

え? どうして

翌日の早朝、2人は山に登り、真理の家を見下ろしながら、カップヌードルを食べる。

マリールーは、真理にいう。

「パリに戻ろう」と。「全部私が観る」と。

真理は穏やかに笑って首を横に振る。

「いいえ、もう決まったことなの」

2人の背景にクマゼミの鳴き声が響く。

朝だ。

え、どうして?

なぜ、私が「え、どうして?」と思ったか。

単純だ。

セミが鳴くはずはないからだ。

この映画は、

2025年6月6日(だったと思う)から始まる

映画の中では、翌6月7日、

老人介護施設の経営をめぐり、現場と対立した

ディレクターのマリー・ルーが路面電車に乗っている最中

追っかけてきた少年が気になり、

彼が明らかに自閉症であることを察し、保護者を待つ。

そこにやってきたのが真理と、彼女が演出する舞台の役者(長塚京三)。

真理からもらったチラシ。

6月13日
彼女は、仕事仲間からちょっと休め、と言われ、真理の舞台に行く。

舞台が上がった後、2人はセーヌ川沿いを散歩し、

マリー・ルーの施設で夜通し喋り続け、

翌朝(おそらく6月14日)、真理は施設の様子を見ているとき、倒れる。

そして

たった2日後の6月16日の日付。

彼女たちは京都に。

郊外の実家に戻ると蝉時雨。

ここで、本来ならば、全日本人が気づくはずだ。

6月半ばの日本のど真ん中、京都で、

ツクツクホウシもミンミンゼミもクマゼミも鳴くはずはない、

ということを。

だから、え、っと思ったのだ。

なぜ6月の梅雨時の京都で真夏のセミが鳴いているの。

しかも、そのセミの鳴き声は漫然と流しているのではない。

明確に、意図的に、セミを重要な「俳優」として使っている。

実は、1回目に観たときは、

「あれ、緻密な濱口竜介監督が、案外、雑なことをするなあ」と思ったのだった。

映画があまりに「完璧」に面白いので、逆にその「雑さ」が気になったのであった。

だって、濱口竜介だぞ。

あの濱口監督が、そんな雑なこと、するだろうか。

で、今回、もう一度観た。

最初に観た記憶の通り、
蝉が鳴く。

6月半ばの京都で。

で、その蝉の鳴き声を聞きながら
今度は、別の疑念が浮かんできた。

そして、ドラマが後半に進むに至って、
この疑念は確信となった。

その確信とは、

真理はすでに死んでいた。

ということだ。

いつ死んだのか。

京都に行く直前。

パリの施設で倒れ、
マリールーの手を握って「ちっくしょう」とつぶやいたすぐ後だ。

あそこで、真理はすでに亡くなった。

6月16日というのは、マリールーが京都に着いた日ではない。

パリの施設で倒れて2日後

「急に具合が悪くなって」

おそらく、真理の死んだ日だ。

そのあとの真理は
全て
マリー・ルーの
長塚京三の
自閉症の孫の中に現れる
「亡霊」である。

なぜ、そう言い切れるか。

答えは映画の中に全てあった。

実は映画の中の時制は、真理が倒れたあと、
シークエンスごとにわざと順番をずらしている。

京都に行ったマリー・ルーは、
生きている真理と行ったのではない。

彼女は、真理の「亡霊」を抱えたまま、
真夏の京都に行った。

そのとき、長塚京三と孫も一緒だ。

2人は、真理の燃え尽きた「遺灰」を抱えていた。

映画ではしかし、
マリールーと長塚、孫とをあえて一緒に写さない。

もちろん、あえて、だ。

長塚と孫が、遺灰を抱えているシーンは、映画の最後に登場する。

2人は、真理とマリールーが登った山に登り、
2人がカップヌードルを食べた、全く同じ場所で、真理の遺灰を投げる。

その背景に聞こえるのは、またしてもセミの声だ。

そう。

映画の中盤で、真理とマリールーが同じ場所でカップヌードルを食べた時に鳴き始めたクマゼミと同様。

映画半ばでは、
クマゼミの声を背景に
「もう戻れない」と京都のこの場で真理に言わせながら、
次のカットでは、再び、パリの施設に戻り、
マリールーと真理は一緒にいる。

今度は、
真理はアーティストとして施設にいる老人たちの治療に加わる、
というシーンになる。

あれ

あの「もう戻れない」って言いながら、戻れてるじゃん。

戻れてなかったのだ。

京都からこっちの真理は
亡霊なのだから。

映画では
パリに戻った
そのあと、
再び、真理は施設で倒れる。

今度は
真理の病床に長塚が現れる。

目が覚めた真理はいう。

「夢みたい」

「そう、夢を見ているんですよ」

長塚京三が穏やかに語る。

夜9時。
白夜に近いパリの遅い夕陽が長塚の影を壁に映す。

そして、この長塚の言葉そのものが真実だ。

ここに真理はいない。真理は亡霊=夢なのだ。

みんなにとって。

最後、真理が見守る中、
長塚は一人舞台を施設の老人たちの前で披露し、
真理とマリールーが抱き合って顔を見つめる

そこで映画は最後に向かう

2つのシーンが交互に流れる

パリと京都

パリ

すやすやと眠るマリールー。
その横に古株のヤニ中のイカした老婆。

「眠らせとけよ」と、看護師にいう。

立って歩く、老人たち。

足元にはマロニエの黄色い葉っぱ。
木々は色づいている。

明らかに秋だ。

そして今が秋であることを明確にわかるようにカメラは落ち葉と梢を映す

このシーンと交互に映されるのが
すでに記した
長塚が孫と、京都の山で真里の遺灰を投げる映像だ。

こちらは、真夏の日本。京都

蝉時雨である。

ドラマ半ばに流れた、真里とマリールーのカップヌードルのシーンと同様。セミ時雨。

交互に映されるラストシーン。

ラストのパリのシーンと、京都のシーンの時制は異なる。

時制がおんなじ、繋がっているのは、
物語半ばの真理とマリールーがカップヌードルを食べるシーンと
ラストの、長塚と孫が、同じ場所で真理の遺灰を投げるシーン。

おそらく
同じ日の早朝、
マリールーは真理の亡霊と共に山に登り、
カップヌードルをクマゼミの声を背景に食べ、
それから数時間後、
今度は同じ場所に長塚と孫は登って、
真理の肉体=灰を、生まれ故郷に戻す。
背景に流れるのは、やはりセミの声だ。

繰り返す

真理は、
6月、パリで亡くなった。

その後
パリで荼毘に付され、
蝉の鳴く真夏
マリールー 長塚、孫は、
真理を偲んで
彼女の実家へと一緒に出向いた

その過程で、
マリールーは真理の意思をつぐ。

不可能を可能に、内と外を混ぜる試みを達成する。

真理はもういない。

でも真理はいる。

最後の最後まで真理の意思を生かす。

そのための仕掛けとして
映画では、説明をせず、
真理を、亡霊として生かし続けた。

だから、映画でマリールーが起こした最後の革命は、
肉体のある人間としてはマリールーが1人でやった。

でも、亡霊としての真理がずっと助けてくれた。

それが、亡霊の真理が京都でマリールーに施した「足裏マッサージ」なのである。

だから、亡霊の真理は、マリールーに言う。

「なめんなよ、マリールー」

なぜ、6月半ばに、
鳴くはずのないセミが鳴いているんだ。

ツクツクホウシが。ミンミンゼミが。
そしてクマゼミが。

セミは鳴いていた。

ただし真夏だ。

6月半ばじゃない。

あの場所に
いなかったのは、蝉じゃない。

生きた真理の方だった。

何度も繰り返す。

ドラマ半ばの真里とマリールーがいる
蝉の鳴く真夏の京都には
同じタイミングで、長塚と孫がいる。
真理の遺灰と共に。

マリールーと一緒にいる真理は、
すでに遺灰。

つまり亡霊である。

以上は私の妄想に過ぎない。

そして
濱口監督は、
私のこんなくだらない謎解きのために、
仕掛けを用意したのでは
もちろんない。

突然亡くなってしまっても、人は生きる。

それは、
この映画の原作である
「急に具合が悪くなる」(晶文社)の、
磯野真穂さんと宮野真生子さんとの往復書簡を
読めばわかる。

原作では、最後に「最高の夏」がやってくる。

ステージ4のガンを抱える宮野さんに向けた、磯野さんの言葉だ。

その最高の夏を迎えようとする瞬間、宮野さんはこの世を去る。

書籍には
その最後の死自体は一切語られていない。

なぜ、磯野さんは宮野さんの死を語らなかったか。

明確に理由があったからだ。

その磯野さんの表現を志を、
映画は、
濱口監督は、
ストレートに汲んだ。

「ちっくしょう」のあとの
真理は
マリールーの中にいる。

「ちっくしょう」のあとの真理とマリールーのやりとりは
原作の
往復書簡ができなくなり真夏が訪れる直前になくなった
宮野さんと磯野さんのやりとりそのものだ。

つまり磯野さんから一方的な
往復しない書簡

原作の時制と構造と意思とを
100パーセント活かしつつ
映画的物語性をどう体現するか

結果とられたのが
二つの時制を作り
ずらす

説明は、蝉の鳴き声に任せる

蝉に気づかなくても構わない

ストレートに映画として観ればいい

世界に向けてはそれでいい

もしかしたらカンヌ映画祭の審査員も気づかなかったかもしれない。

原作を読んでいないかもしれないから。

日本でセミがいつ鳴くか、体感的に知っている人はそんなにいないかもしれないから。

でも、セミがいつ鳴くか

日本人はみんな知っている

だから
日本人は気づく

あれ と

さらに原作を読んでいると、気づく

原作と同じなんだと。

この映像トリックに気づくと、
映画は
原作の真意を
トリックによってきっちり踏襲していることがわかる。

つまりこの映画には
2つの物語が隠されている。

ストレートな映画

その中からこぼれ落ちる、映像化できない原作の真意。

映画の真理は
宮野さんだ。

真理は真夏になるまで亡くなっていない。

死んだとしても。亡くなっていない。

だって、最高の夏を迎えるのだから。

だから、
亡霊の真理は
マリールーに
原作の宮野さんが
磯野さんに向けた最高のセリフを
マッサージをされながら言うのだ。

「なめんなよ、マリールー」。

そして蝉時雨が降る。

彼岸の声として。


なお、もう一つの「妄想」がこちらです。


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