⑤百人一首の新しい楽しみ方 [上]
(古典和歌・現代短歌と歌人の人生を紹介しています。note連載後加筆して2027年に単行本化する予定です)
多くの人が名前を知っている古典文学といえば『源氏物語』『徒然草』などが思い浮かぶが、中身に触れたことがある人がいちばん多いのは、かるた遊びも含めると『百人一首』かもしれない。
筆者の百人一首体験は、中学生のときに冬休みに全部暗記せよというハードな宿題を出されたこと、高校時代には美しい歌ことばに惹かれ、20歳前後には恋心を詠んだ名歌に熱中した。しかしその後は、有名な和歌ばかりで新味を感じないという不遜な思い込みから遠ざかっていた。久しぶりにこの1年ほど、和歌・短歌について書く以上は百人一首をあらためて基本から知ろうと、多くの文献に接した。その結果、歌人の人生ドラマを知ったり、古代・中世の歴史と絡めて鑑賞したりすると楽しみが倍化することを知った。
そこで、自分の文学体験をもとに百人一首ならではの魅力と、百人一首だけではわからない古典和歌の感動について、上・中・下の3回で記したい。
※タイトル画像は、東京国立博物館所蔵の19世紀・江戸時代の「百人一首かるた」をアップにしたもの。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
(1)『百人一首』魅力と限界
百人一首の特徴を再確認しながら、これから書くことの一端を予告したい。講釈のつもりではないので読み飛ばしていただいて差支えない。
● 選ばれた100人の歌人の中には伝説上の人物も含まれるが、彼らが生きた時代は7世紀の飛鳥時代から13世紀の鎌倉時代までの約600年に及ぶ。古代の王権が確立したあと、貴族の中で藤原氏が圧倒的な権力を固めた平安時代を経て、武士による政権掌握に至る期間だ。百人一首の和歌が選ばれたときはすでに武家の世だから、皇室と貴族が主役だった雅(みやび)な王朝文化の精髄を振り返り、残すことも撰者の意図だったかもしれない。百首は概ね時代順に配列され、政治権力争いなど歴史上の「敗者」が多く選ばれているのも特徴だ。
● 王朝和歌を選びまとめた集には天皇や上皇が編纂を命じる「勅撰集(勅撰和歌集)」と、そうでない私撰集がある。百人一首の和歌はすべて勅撰集(具体的には古今和歌集から続後撰和歌集までの10集)から選ばれている。万葉集の時代の歌人も一部いるが、万葉集から直接選ばれたわけではない。万葉集ならではの数多くの魅力あふれる歌は百人一首には無い。
● 勅撰集から選ばれているとはいえ、百人一首そのものは良い歌を私的に選んだ私撰の「秀歌集」なので、撰者の自由度が大きかった。そのことがこのあと記す「恋の歌の多さ」につながったとみられるし、歌の配列(並び順)を含め、撰者が込めたメッセージを推し量るという、謎解きに似た楽しみがある。
● どんなに優れた歌人でも1首だけで、複数の和歌は選ばれていない。中にはその歌人のものとは言えない作が選ばれていたり、もっと良い歌があるのにという疑問が呈されたりすることも多い。言い方を変えると、百人一首には選ばれていない、各歌人のさらなる傑作を知ることの興味は尽きない。
● 「よみ人知らず」の和歌は百人一首の対象になっていない。下級貴族や僧侶の歌人は含まれているが、無名の庶民の歌は百人一首では味わえない。
(2)恋の諸相
100首のうち43首が恋の歌である。恋をテーマにした歌の比率の高さは百人一首最大の特徴かもしれない。「忍ぶ恋」「逢瀬を待つつらさ」「死を考えるほどの恋の苦しみ」「結ばれて思いを達した後につのる苦悩」「相手の心変わりの疑い」など、さまざまな段階の恋心を鑑賞できる。
代表的な恋歌を4首挙げよう。数字は百首の中の通しナンバーである。
30 有明のつれなく見えし別(わかれ)より暁ばかり憂きものはなし
壬生忠岑(みぶのただみね)
どのような状況で詠んだのかについて、古来、解釈が分かれている。
A 夜に訪ねて明け方まで待ったのに冷たく拒絶され、逢えずに空しく引き上げた。
B 逢えて結ばれたが名残りは尽きず、明け方の月を見て帰らなければならないのがせつなかった。
C すでに結ばれている仲だが、別れるときの相手の様子がいつになく素っ気ない感じがした。
この歌が出典である古今和歌集(最初の勅撰集)の中に置かれている位置(前後の歌を含む配列)から判断すると、「まだ結ばれていない恋」としてAの解釈が有力だということになる。一方、この歌を選んだとみられる藤原定家は「つれなく見えたのは月」だとBのように解釈したようだ。でも筆者は少数説のCに惹かれる。【夜を一緒に過ごしたのに、別れのときの相手のつれない態度は自分への愛が冷める兆候のように思えた。それ以来不安が消えず、そんな別れ方をした暁の時間帯ほどつらいものはなくなった】と取りたいのだ。

鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
Cの解釈をしたいひとつの理由は、別の和歌を連想したからだ。鎌倉時代末期の勅撰集『玉葉和歌集』に選ばれている源頼貞という歌人による恋の歌で、このほうが別れの場面の叙述がもっとストレートでわかりやすい。
暁のわかれのきはにしられけりまたとおもはぬ人のけしきは
(岩佐美代子『玉葉和歌集全注釈 中巻』笠間書院 より)
【一夜を共にして明け方に別れる瞬間に、あの人の表情から「再び逢いたい」と思っていないことがわかってしまった。】
引き続き恋の歌。
40 しのぶれど色に出(い)でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
平兼盛
【あの人への恋の思いを隠そうとしてきたが、ついに表情に出てしまった。周囲の人から「恋の物思いをしているのですか」と尋ねられるほど・・・。】
43 逢ひ見ての後(のち)の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり
藤原敦忠(あつただ)
【思いがかなってあなたと結ばれたのに、その後の苦しみ・不安・疑心暗鬼は想像を絶するものだと知った。それに比べたら思いを遂げる以前の物思いは取るに足らなかった。】
敦忠は母親が在原業平の孫で、その血筋なのか色好みとして知られた。百人一首の歌の相手は特定できないが、私家集の『敦忠集』には醍醐天皇の皇女の雅子(まさこ)内親王への恋を詠んだ多数の和歌がある。内親王が斎宮に選ばれたため、その恋は実らなかったという。
53 歎(なげ)きつつひとり寝(ぬ)る夜(よ)の明くるまはいかに久しきものとかは知る
右大将道綱母(みちつなのはは)
【なかなか訪ねてきてくれないあなたを待ち焦がれながら一人で過ごす夜がどんなに長く感じられるか、つれないあなたは知っていますか。】
『蜻蛉日記』の作者として有名な歌人で、相手の藤原兼家が噓をついて別の女の家に行ったためにこの歌を突き付けたと経緯が記されている。
なお、これら4首は一応、歌人自身の体験に基づいた心情を詠んだ可能性が高いと思うが、古典和歌では時代が下るにつれて「題詠」といって、与えられたテーマの歌をフィクションとして作るやり方が盛んに行われた。題詠でなくても男が女に、あるいは女が男に成り代わって和歌を詠むことも当たり前に行われ、百人一首にもたとえば男の僧侶が女性の恋心を詠んだ歌がある。こうした詠み方は歌のリアリティーが薄れる面はあるが、題詠や代詠であっても歌人の過去の実体験が反映することはあったと思う。
藤原定家が女性に成り代わって詠んだ和歌を1首、紹介したい。
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
(岩波文庫『新古今和歌集』より)
【あの人は今ごろ、別の女性のところからの帰り道で有明の月を見ているのだろうか。私が彼の訪れを待ちながら見ている同じ月を・・・。】
※初句の「さ」は「帰るとき」という意味の接尾語。
この歌がフィクションなのに味わい深いのは、性別や時代を超えて変わらない恋の真実を的確に表現しているからだろう。
今年四月に101歳で亡くなった文化勲章受章者の歌人・岡野弘彦に、定家の歌に通じる想いを詠んだ短歌がある。これは失恋の実体験なのだろうか。
わがおもふをとめこよひは遠くゐて人とあひ寝(ぬ)るさ夜(よ)ふけにけり
(『岡野弘彦全歌集』青磁社 所収の第四歌集「天の鶴群(たづむら)」1987年 より)
(2)古典文学で受け継がれた危険な恋
平安時代の文学では、身分を超えた秘密の恋や禁忌(タブー)を破るスキャンダラスな恋が題材として好まれた。その代表格は伊勢物語で、在原業平(ありわらのなりひら)とされる主人公の恋愛遍歴の中でも ▼のちに清和天皇に入内した二条后・藤原高子(たかいこ)との恋と、▼文徳天皇の娘で伊勢神宮に斎宮(さいぐう/さいくう)として仕えていた恬子(やすこ)内親王との一夜が2つの山場となっている。いずれもフィクションなのか事実なのかは判定しがたいが、こうした禁断の恋を描いた伊勢物語の影響をおそらく受けて、『源氏物語』では ▼主人公の光源氏が父親である天皇の后の藤壺と密通し、それによって生まれた男児が出自を秘されたまま天皇として即位したり、▼初老となった源氏が正妻として迎えた女三の宮に対し青年貴族の柏木が一方的な思慕を募らせて密かに思いを遂げ、これまた秘密の子が生まれるという、一層過激なストーリーが記されている。
百人一首にもこうした「危険な恋」の系譜を継ぐ和歌が2首ある。しかもいずれも男女とも実在の人物であることが、これらの歌の出典になった勅撰集での詞書(ことばがき)でわかるので、物語とは違う真実味がある。
20 わびぬれば今はたおなじ難波(なには)なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
元良(もとよし)親王
【秘密の恋が周囲に知られて苦悩する今となっては、もう自分の身はどうなってもかまわない。難波の海にある澪標(みおつくし)という名のように、わが命が尽きてもあなたと逢いたい】
※出典となった後撰和歌集の詞書:「事いできてのちに、京極御息所につかはしける」
元良親王は陽成天皇の第一皇子だが、生まれたとき既に父帝はときの権力者・藤原基経によって退位させられていて、天皇になれなかった。王朝時代屈指の色好みとされ、この歌の相手の女性は宇多天皇の晩年の寵愛を受けた京極御息所(みやすどころ)である。天皇に愛された女性との密通が露見したあとの破れかぶれの激情が込められ、この歌人の面目躍如たるものがある。政治的な意味での敗者の一面も、のちの世に好まれたのだろう。
(陽成天皇については次回の[中]で取り上げる。)
63 今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな
藤原道雅(みちまさ)
【直接逢うことができなくなった今となっては、「もうあなたとの恋はあきらめました」と、人を介さずに伝える方法があったらいいのに】
※出典となった後拾遺和歌集の詞書:「伊勢の斎宮わたりより上りて侍りける人に忍びて通ひけることを、おほやけもきこしめして、守り女(め)など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける」
この歌の恋の相手は、三条天皇(退位して三条院)の皇女で前の斎宮だった当子(まさこ)内親王であることが後拾遺集の詞書からわかる。詞書の「おほやけ」が三条院のことで、道雅が娘と密通しているという噂に三条院は憤った。道雅は内親王との逢瀬を断たれ、一方当子内親王は出家して5年後に亡くなった。三条院もこのできごとの直後に没している。
(三条院については次回の[中]で取り上げる。)
「斎宮」は伊勢神宮に仕えた未婚の内親王で、伊勢物語では前述のように在原業平とされる主人公と現役の斎宮との一夜限りの密会が描かれた。源氏物語でも源氏の愛人・六条御息所の娘で斎宮の任を終えた秋好(あきこのむ)中宮に対し、源氏が下心を抱いてなんとか踏みとどまる場面がある。
歴代の斎宮の暮らしやエピソードについては三重県明和町にある県立斎宮歴史博物館の展示が大変充実しており、1970年から発掘調査が始まった博物館周辺の斎宮跡と合わせて一見の価値がある。

広大な敷地では今も発掘調査が続いている(三重県明和町)
なお、斎宮歴史博物館では現在、「王朝文学と斎王」と題して伊勢物語や源氏物語などの文学作品に描かれた斎宮についての企画展が8月23日までの予定で開かれている。
恋の歌の多彩なバリエーションについては、現代短歌も含めて秋に3回シリーズで書きたい。
(4)百人一首に無い哀傷・挽歌の絶唱
筆者が古典和歌に強く惹かれた最初のきっかけは恋のさまざまな段階・場面の真情を詠んだ歌に感動したことだったが、その後、家族や知人を亡くしたときの悲しみを詠んだ和歌にも心を奪われるようになった。万葉集では「挽歌」、古今集以降は「哀傷」と呼ばれるテーマだ。大事な人を喪った気持ちを和歌に表現すると、心の痛みは消えないまでも立ち直りの小さな一歩になる場合もあったのではないかと思う。
そんな「哀傷」の和歌が、実は百人一首には1つも無い。前述のように恋の歌が43首もあり、春夏秋冬の四季をテーマにした歌も計32首。哀傷の歌を入れる余地がなかったのか。あるいは、百人一首の原形はのちに述べるように藤原定家が大切な知人に贈るものだったことから人の死を主題にした歌はふさわしくないと判断したのか・・・。
百人一首に名を連ねる歌人たちも、哀傷の名歌を数多く残している。筆者が特に感動したのは、源氏物語が書かれた時代に中宮彰子(しょうし)の女房だった和泉式部が自分の娘の死を詠んだ一連の哀傷の歌だ。和泉式部の娘の小式部内侍(こしきぶのないし)も百人一首の歌人だが、若くして(20代のころか)出産直後に体調を崩し早世した。その悲しみを母親の和泉式部は次のように詠んでいる。
などて君むなしき空に消えにけん淡雪(あはゆき)だにもふればふるよに
【なぜあなたは煙となって空しく空に消えてしまったのだろう。すぐに溶ける淡雪でさえも、降ったら少しの間は消えないで残るこの世なのに・・・。】
とゞめおきて誰(たれ)をあはれと思ひけん子はまさるらん子はまさりけり
(2首とも和歌文学大系53 青木賜鶴子『和泉式部集/和泉式部続集』明治書院 より)
【身近な人を残して逝ってしまったあなたは、誰との別れをいちばん惜しんだのだろう。最も悲しかったのは自分の子との別れだったに違いない。私自身が子であるあなたと別れたことがいちばんつらいものだとわかったので。】

東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
和泉式部は百人一首に選ばれている歌に代表されるように、多くの男性と重ねた恋の和歌の天才としての面が強調されるが、わが子の死に際しての哀切な歌を知ることによって千年前の歌人が身近に感じられる気がする。

東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
ほかの百人一首歌人が詠んだ哀傷の和歌も多数ある。4首を挙げる。
<大伴家持>
22歳ぐらいのころ、妻の1人を亡くした年の1首である。
秋さらば見つつ偲へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも
(角川ソフィア文庫『万葉集 上巻』伊藤博校注 より)
<紀貫之>
『土佐日記』の中で、京で生まれて赴任地の土佐に連れて来た貫之の幼い娘が、任を終えて京に戻る前に現地で急死したときの悲しみを記し、哀傷の和歌を詠んでいる。
あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける
(角川文庫『土佐日記』三谷栄一訳注 1975年 より)
【忙しいときなど、ふと娘が亡くなったことを一瞬忘れてしまい、まだ生きているかのように「あの子はどこ?」と尋ねてしまう。そんなときに一層、悲しみがつのる。】
<藤原定家>
鎌倉時代の初め、定家の母親(父・俊成の妻)の美福門院加賀が2月に亡くなり、その年の秋に当時32歳の定家が母を偲んで詠んだ歌がある。技巧の達人でもある定家にしては平明な表現で亡き母への想いを詠んでおり、心にしみる。
玉ゆらの露もなみだもとどまらず亡き人恋ふるやどの秋風
(岩波文庫『新古今和歌集』より)

江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
<紫式部>
最後に紫式部の哀傷の歌として紹介するのは、自らの体験ではなく彼女が創作した源氏物語の中の和歌だ。光源氏が長年連れ添った最愛の紫の上を亡くしたあと、「幻」の巻で詠んだ一連の和歌の1首である。
もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂(たもと)にかかる秋かな
(新潮日本古典集成『源氏物語 六』「幻」より)
哀傷の歌は、はるか後の現代まで形を変えつつ受け継がれている。江戸時代の小林一茶は、年老いて得た娘が2歳で急死した悲しみを俳句に詠み、明治の歌人・石川啄木も生まれてまもない長男を亡くした悲痛を短歌に詠んだ。ポピュラーソングではイギリスのギタリストのエリック・クラプトンが、転落事故死した4歳の息子に名曲 " Tears in Heaven " を捧げた。
連載ではこれらの近現代の歌句や詩まで範囲を広げて、哀傷・挽歌について12月ごろに詳しく記したい。
《凡例》
・百人一首の歌は岩波文庫『百人一首』久保田淳校注 から引用した。それ以外の和歌の出典は本文中に記した。引用した和歌のふりがなは筆者の責任で省略した箇所がある。
・百人一首の和歌には詞書(ことばがき)は無いが、詠まれた背景を示すために20と63の歌に、出典となった勅撰集の詞書を加えた。その表記も岩波文庫『百人一首』の通りとした。
・和歌の現代語訳は筆者による。このうち百人一首の歌は、20年余り前、高校生になる娘のために行った百首の訳をもとに一部改訂した。
・歌人の名前のふりがなは現代仮名遣いにした。・内親王の名前の読み方は諸説あるが訓読みで表記した。
《次回・次々回の予告》
百人一首についてのあと2回の連載では以下の内容を予定している。
[中]7月19日投稿予定
・貴族、官人の不遇と悲哀
・悲劇の帝王たち
・選ばれなかった后の人生
・百人一首では味わえない万葉集の魅力
[下]8月上旬投稿予定
・撰者は誰か
・文学史、芸術史の中の百人一首
・昭和の戦争に「貢献」した『愛国百人一首』
・平成の『新々百人一首』
・お薦めの文献一覧
