籠神社と仏像たち『未来へのおくりもの京都府×京都市 指定文化財』京都文化博物館
京都文化博物館では、2025年秋に「未来へのおくりもの京都府×京都市 指定文化財」展が開催されます。この展覧会は、京都府と京都市が指定した文化財が一堂に会する貴重な機会です。近年指定された文化財に加え、修理を終えて未来へと受け継がれる文化財も公開されます。塩川文麟筆「龍図」や「木造女神坐像」など、絵画、彫刻、古文書など多様なジャンルの作品を通じて、京都の奥深い文化に触れられます。文化財の美しさはもちろん、所有者や修理者の想いにも焦点を当て、文化財を未来へ繋ぐ人々の情熱を感じられるでしょう。
更新履歴
2025/10/09:初版
▼展示会
▼展覧会のテーマ
毎年、京都では数々の文化財が調査され指定文化財となり、また同様に、多くの文化財に修理が加えられています。これらは先端の知見で作品を評価し、万全に未来へつなげていくための営みといえます。本展では、これまで指定された文化財および修理が施された文化財を集め、京都が持つ文化的な奥深さをご覧いただきたいと思います。またあわせて文化財を守り伝える当事者である所蔵者の思い、卓越した技術で文化財の価値を保全する修理者の思いに触れていただけたら幸いです。
京都文化博物館にて府市指定文化財が集う「未来へのおくりもの」展開催
京都府と京都市が指定した貴重な文化財を一堂に集めた展覧会「未来へのおくりもの京都府×京都市 指定文化財」が、2025年9月27日(土)より京都文化博物館2階総合展示室にて開幕しました。近年新たに指定された文化財や、修復を経て未来へと継承されるべき品々が展示され、その文化的価値とともに、所有者や修復者の想いにも光を当てます。
本展では、京都府指定文化財である舞鶴市・報恩寺所蔵の塩川文麟筆「龍図」や、京都市指定文化財である市比賣神社所蔵の「木造女神坐像」など、絵画、彫刻、古文書といった多岐にわたるジャンルの文化財が紹介されます。文化財そのものの造形美や歴史的意義に加え、それを支える人々の思い、修理に至る経緯や指定の背景にも焦点を当てているのが特徴です。
開催概要
会期: 2025年9月27日(土)~11月24日(月・祝)
会場: 京都文化博物館 2階総合展示室
開館時間: 午前10時~午後7時30分 (入館は午後7時まで)
休館日: 月曜日 (ただし10月13日、11月3日、11月24日は開館)、10月14日(火)、11月4日(火)
入場料:
一般:500円
大学生:400円
高校生以下:無料
主な展示品
【京都府指定】塩川文麟筆 報恩寺本堂障壁画のうち「龍図」(舞鶴市・報恩寺蔵)
【京都市指定】木造女神坐像(京都市・市比賣神社蔵)
【京都市指定】狩野山雪筆「蝦蟇鉄拐図」(泉涌寺蔵)
【京都市指定】鉄造阿弥陀如来坐像(念佛寺蔵、美術院修理)
【京都市指定】木造細川勝元坐像(龍安寺蔵)
本展は、京都が誇る文化財の美しさとその背後にある人々の熱意に触れる、またとない機会です。修理を経て蘇った作品たちが語る、未来へのバトンを、どうぞその目で確かめてみてください。展示構成や作品の背景に関心がある方には、より詳細な情報も提供できます。ご希望があればお知らせください。
▼仏像/仏像以外



→亀岡市 #大圓寺 :鉄造薬師如来坐像
優しい顔立ちで、衲衣を偏袒右肩に纏う。右手を上げて施無畏印を示し、左手は掌を上に向けて膝上に置き、左足を前にして結跏趺坐する薬師如来坐像で、衣の襞を凸線で著している。その像容は、穏やかな定朝様の仏像である。同じ笵の鋳型から作られたとされる念仏寺の像は、もと比叡山にあった三体の内の一つとの伝承もあり、注目される。
過去に「京都浄土宗寺院特別大公開」で開帳されたようです。
→京都市 #念佛寺 :鉄造阿弥陀如来坐像
京都市では珍しい鉄造の阿弥陀様ですね
前後で分けて鋳造されており、中身は空洞になっており、木造が間に挟んでいるそうな
腕より先は青銅と鉄と具材が違うのが特徴
平安末期から鎌倉初期の一品

→京都市 #市比賣神社:木造女神坐像
平安時代より「皇后御祈願所」として、歴代皇后・公家とのゆかりも深い。御所守護のために本殿は北向きに鎮座する。女性の願いを聞いてくれる古社でもある。
神像の存在は知っていたが、子を抱いているとは・・。このタイプの神像は初めて見たなと。一木造りなので御神木で出来ているのでは?と思ってしまった。子供の顔をよく見ると女神坐像の顔にそっくりだなと気づく。
私のNOTEを見返すと昔は「子を抱いている」ことを知っていたようだ。
795年、藤原冬嗣が創建。1591年に現在地へ移転し、京都中央市場の守護神とされる。境内の天之真名井の水は歴代天皇の産湯に用いられ、現在も名水として茶会等に用いられるそうな。
今でも皇族・公家が生後50日目には五十日餅を授かる「お食べ初め」の発祥の神社。母神が童神を抱いた御神像は女性厄除けに御利益がある。

京都市文化財保護審議会(会長=和田晴吾・兵庫県立考古博物館名誉館長)は28日、女性の守り神として信仰を集める市比賣(いちひめ)神社(下京区)の「木造女神坐像(ざぞう)」など美術工芸品6件を市指定文化財に、泉涌寺塔頭の即成(そくじょう)院(東山区)で毎年10月に行われる「即成院二十五菩薩(ぼさつ)お練り供養」を無形民俗文化財1件として市登録文化財にするよう、市教育委員会に答申した。
京都市下京区本塩竈町に所在する市比賣神社は、平安京中に設けられた東西両市の 守護神として創建された社とされる。当初、堀川七条付近に所在し、中世に同地に開か れた時宗・金光寺 、いわゆる市屋道場の鎮守となる。その後、豊臣秀吉の命により、金光寺とともに現在地に移転した。「金光寺縁起」巻第1(成立年未詳、市比賣神社蔵) 等によれば、もとは宗像三女神を勧請し、現在はそれに2柱を加えた5柱の女神を祭神とする。また古来、生後50日目の乳児に同社の餅を授ける風習がある。 本像は、市比賣神社に伝わる2躯の女神像で、目尻をやや上げ、頬の張った簡素な面貌表現や着衣形式の共通性から、一具として造像されたと思われる。子を抱く像(その1)は像高47.8センチメートル、拱 手する像(その2)は32.8センチメートルと大小の差があり、両像ともにヒノキと思われる針葉樹材で彫出され、地付部及び各所に後補 材を複数あてる。エックス線CTスキャン画像によれば、子を抱く像は木表側を正中に 向けて矧ぎ、荒く内刳りをほどこす特徴的な構造である。両像ともに当初材に朽損の痕 跡があり、その補修のために後補材をあて、造形を整えたものと思われるが、大幅な改 変の痕跡は認められない。 子を抱く像は衣を右衽に着け、胸の膨らみを表し、胸元をくつろげる。子は髪を左右 に振り分け上方を向き、面貌は女神像と同じく簡素な表現とする。体躯は裸形に表し、 手足を曲げる。子を抱く図像は、仏教では訶梨帝母かりていも (鬼子母神きしもじん )像に見られ、東大寺像 (平安時代)、園城寺像(鎌倉時代)等の彫像が知られる。一方、神道では「子守明神 像」(南北朝時代、大和文華館蔵)等の絵画に見られるが、図像として稀である。本像 については、「金光寺縁起」巻第1に「今当社鎮座は、正面瀛津嶋姫命おきつしまひめのみこと 、下照姫したてるひめ を 抱、右湍津嶋姫命たぎつしまひめのみこと 、左市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと なり。都すべ て四神にして三座なり。」と記されてお り、子を抱く像を瀛津嶋姫、拱手する像を湍津嶋姫または市杵嶋姫にあて、宗像三女神 を表した可能性がある。当社本殿には、3扉の中央に子を抱く像、向かって左に拱手す る像が祀られることからも、もとは三神像であったことが推測される。 両像の彫りは全体に浅く柔らかで、穏やかな面貌や薄手の衣を体躯に沿わせるような表現、体躯の奥行きの浅さ等は平安時代後期の特徴を示す一方で、子を抱く像の広い 肩幅や、特に胸などの肉身が意識された造形には、鎌倉時代に向かう要素も見られ、制 作年代は平安時代末期、あるいは鎌倉時代初期に入る可能性もある。 両像ともに後補部分が各所に認められるが、子を共木より彫出するなどの主要構造 が保たれ、当初の姿を比較的よく伝える点は評価できる。子を抱く女神の彫像として現 在知られる唯一の像であり、拱手する像においても、この時期の女神像としてまとまり の良い優品といえ、多様な女神像の一例としても彫刻史上貴重である。市比賣神社の歴 史を知る資料として、また訶梨帝母像や子守明神等の子を抱く像との関連を考えるうえでも重要な作例といえる。
私のNOTEは次の通り。(京都リアル雛祭!全国姫神集合「市比賣神社」古社!三十三間堂とセット!【烏丸四条五条シリーズ】|やんまあ)
→京都市 #龍安寺 :細川勝元坐像:吉野右京作
久しぶり!!龍安寺の特別な場所に安置されている像ですね。ただ通常はお堂に入るのでここまで近くで見ることは無理でした。なるほど!!この仏像は息をしていると思うぐらいリアルだ。横には墨書の解説もあった。
ちなみに、妻に久しぶりだな~と言ったところ記憶がないようだ。多く行き過ぎて、どこのものかパンクしたとのこと。アウトプットする大切さを感じた。。
~「石庭」で名高い龍安寺のもう一つの庭~
「虎の児渡しの庭」とも呼ばれる、白砂に15個の石を配した石庭(史跡・特別名勝)で世界的に有名な寺院。
特別公開の仏殿は、昭和56年再建の総檜造の建物で、天井には墨と金泥で龍が描かれており、その奥の昭堂(しょうどう)には慶派の作と伝わる本尊・釈迦如来像を安置している。仏殿西側に広がる「西の庭」は、室町期の庭を復元した回遊式庭園で、龍安寺を創建した室町幕府管領(かんれい)・細川勝元の木像を祀る細川廟が建つ。
私のNOTEは次の通り。
オマケです。
【京都市】右京区「京の冬の旅」10年ぶり特別公開『龍安寺』仏殿・西の庭と細川護熙筆「雲龍図」襖絵公開(高津商会RICA) - エキスパート - Yahoo!ニュース
マイナー文化財の旅 - 竜安寺•昭堂 吉野右京(藤原種久)作 細川勝元坐像(1658/明暦四年)... | Facebook
臨済宗妙心寺派に属する龍安寺の、西の庭に建つ細川廟に安置される。像高96.0センチメートルの束帯像で、右手に笏を握り、左腰に太刀を佩き、畳座上に座る。
細川勝元(1430-1473)は龍安寺の開基である。勝元の没後、子の政元が、大徳寺・妙心寺等の住持を歴任した特芳禅傑を迎え、応仁の乱で荒廃した龍安寺を再興した。
本像は像内墨書から、江戸時代の京仏師、吉野右京が明暦4年(1658)に制作したことがわかる。また、頭部は吉野右京種久が6月に、体部は吉野氏右京□進藤原種次が5月に制作しており、吉野右京を名乗る種久・種次なる人物が確認できる。他の作例においてもしばしば両者の銘記が見られるが、両者の関係については今のところ判然としない。
右京は市内寺院等の僧侶彫刻を多数手がけており、本像制作の3年前には、現在開山堂に安置される木造特芳禅傑坐像を制作しているが、現在知られている右京の作例で、本像のような俗人像(武将像)は他に例がない。
龍安寺の寺史『大雲山誌稿』には、本像制作に関わる記述が見られ、なかには本像制作年以前の勝元像の記述が見られることから、本像に遡る勝元像が存在しており、本像はそれに倣い制作したものと考えられる。
面貌は、窪んだ眼窩や下がった瞼、突出した頬骨など、やや老いた相貌をみせるものの、膨らみをもたせた鼻根や面相の起伏、耳輪を大きくうねらせた厚みのある耳朶や筋張った大きな手先は、力強く実在感のある造形で、右京の技量が発揮されている。
近世初期、徳川家康をはじめとした武将の束帯像が、七条仏所を中心に多く造像される。いずれも頭部は像主の個性を表す一方で、体部の造形は形式的に整えられている。
本像は頭体部の均整もとれ、衣褶の柔らかな表現に独自性も見られるなどの特色があり、同時代の束帯像に比べても遜色ない出来栄えといえる。
本像は、像主の没後から2世紀ほど経た時期の造像でありながら、写実的な手法を用い、像主の姿を再現した、近世肖像彫刻における束帯像の優作である。さらに、江戸時代前期を代表する京仏師・吉野右京が関わり制作した、唯一知られる俗人像(武将像)であり、その高い技術や制作技法、造像活動を知ることのできる作例として評価できる。また、唯一知られる勝元の彫刻資料であり、かつ龍安寺創建期における重要人物の、記録の残る歴史資料として貴重である。
→宮津市 #成相寺 :孔雀文磐/法華経/紺紙金字法華経
天橋立の伊根町側にある古刹・成相寺から以下の三点が展示されていた。
孔雀文磐
法華経:平登子三十三回忌供養経)7巻
紺紙金字法華経
紺紙金字法華経は、権力があることを示すものと思っている。さすが丹後王国の中心地ですね。神仏習合があったことも分かる場所。
書写年代が明記されていないものの、紙質·書風から平安時代後期以前に書かれた法華経であり、京都府北部地域に数少ない紺紙金字経として貴重である。また、本経の各館には寄進銘があり、文明9年(1477)6月3日には成相寺に伝来していたことがわかるなど、来歴が明らかとなっている点も注目に値する。
私のNOTEは次の通り。(天橋立No.1ビューポイント「成相寺」西国三十三札所!傘松公園とセット【丹後王国シリーズ】|やんまあ)
西国三十三でもある。
→宮津市 #籠神社 :丹後国一宮深秘:伝智海作
籠神社には、神社の歴史・縁起・秘伝を記した古文書・神事文書などの宝物・秘蔵資料が伝来しており、そのなかに「丹後国一宮深秘」という文書名が挙げられています。海部家に代々秘蔵されてきました。
「丹後国一宮深秘」は、籠神社に伝わる古文書の一つとされ、社伝・縁起・神事の秘伝的な内容を記したと考えられる文書です。
写本に「建武年中(1334~1336年)書写」との記載があると伝えられており、少なくとも中世には存在していた可能性があります。
漢文で以下の記載がありました。
籠神社の縁起
海の神・シオツチ
奥宮・眞名井神社に磐座に祀られています。昔は近くまで行けたけど、今はいけない。
八人の天女(羽衣伝承)
伊勢神宮との繋がり。アマテラス、トヨウケなど祭神
「国之常立神」がやたらと出ていた
そういえば眞名井神社にはアメノミナカが祀られていることを思い出した。とすると日本書紀表記で「国之常立神」と書いた?
トヨウケ=天御中主神=國常立命=御饌津神(ミケツカミ)??
成相寺が出ていると思ったら「大聖院」とある

詳しい人がいたので詳細を知りたい方はどうぞ。(◆ 丹後の原像【12. 「丹後國一宮深秘」 (大意 ~その1)】 | かむながらのみち ~天地悠久~/◆ 丹後の原像【13. 「丹後國一宮深秘」 (大意 ~その2)】 | かむながらのみち ~天地悠久~)
智海(ちかい): 籠神社/大谷寺との関係
智海は、室町時代ごろに籠神社の神宮寺であった大谷寺(籠神社の神仏習合時代の寺院)において住持を務めた人物と伝えられています。
智海は、不動明王像(坐像)を願主として造立させたとされ、大谷寺境内にはその像が現存しており、市の文化財指定を受けているとの記録があります。
また、智海は神社・寺院だけでなく地域的・都市的な構想にも関わったとも伝えられ、「天橋立図」に描かれた構図や大谷寺・別当大聖院の開発などに関与したという説があります。
大聖院とはなんぞや?ということでググったら自分のNOTEが出てきた・・。大聖院といえば、広島の宮島に鎮座する厳島神社(私のNOTE)の横にありますよね。厳島神社を守り神仏習合の関係でした。
ここも同じく、この地域の中心である籠神社と大聖院はセットなのだろ。
(中略)
下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されています。籠神社別当大聖院の智海が、来迎壁の背面に片足を上げた不動明王を描いており、「八十余歳書之 智海」の署名があります。
(中略)
私のNOTEは次の通り:https://note.com/yanma_travel/n/nbf224c9d9aaf
籠神社近くの大谷寺にもヒントがあるようだ。

そのうち纏めようかな。私の籠神社は次の通り。(天橋立!元伊勢「籠神社/真名井神社」伊勢神宮外宮の故郷!磐座信仰【京都】【丹後王国】|やんまあ)
そして眞名井神社は古代から祭祀場だったことが分かるものが出土している。
→宮津市 #籠神社 :籠神社経塚出土品
成相寺は山中にあり、籠神社は麓にある。さらに元伊勢籠神社の奥宮・眞名井神社にて、昭和3年(1928)から昭和6年(1931)にかけて、籠神社本殿の改修が行われた際に出土した。経塚遺物のうち文治4年(1188)の銘文がある経筒2口と銅鏡2面を展示。
考古学の発掘調査によれば、真名井神社の境内地から縄文時代の磨製石斧(ませいせきふ)・掻器(そうき)などが出土しており、人々が生活していたことが確認されている。また真名井神社本殿裏からは弥生時代の祭祀に用いた土器が出土している。これらにより、神祭りが行われていたことがわかる。

公式HPに宝物の1部が載っていますね。公式HPは「宝物|丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)」です。ついでに神職が語っている記事(83特集2-3)を見つけたのでどうぞ
オマケです。
→宮津市 #北野宮再興勧進状 :
へえ~天橋立辺りにも北野天満宮の影響があったのか~と思ったが、普通にこの地域に北野社があったようだ。
この文書は 「北野社再興の際の勧進状」 とされ、巻子仕立ての形で現存しています。
巻末に「天文5年(1536年)」の年次記載が見られ、これを作成年代と推定する見方があります。
文書は、かつて丹後国与謝郡府中村(現在の宮津市小松あたり)の地域に所在していた北野社の再興に用いられたものとされます。
江戸時代以降、小松地区の小松家に伝来していたとの伝承があり、近世の地誌にもこの勧進状に関する記述が残されています。
内容の主な記述
消失・再興の事情
天文3年(1534年)4月28日、北野社は「類炎」により堂宇がすべて焼失したという記録があります。
応安年間(1368〜1375年)以降、何度かの修造・再興の記録が伝えられています。
起源・勧進の由来
草創(創始)は、永元年(1165年)にさかのぼるとしており、当時「小松内府」と称された地に、丹後守であった平重盛が勧進を行ったとされます。
この勧進により、その地が「北野」と呼ばれるようになり、「小松」という地名も「小松内府」の居を示すものになったという由来が記されています。
崇敬と地位主張
歴代丹後守や関係者の尊崇を受け、「本社に替わらず」すなわち京都の北野神社(北野天満宮)に匹敵する霊験を持つとする主張があります。
地理的・景観的な要素(与謝の海、天橋立、背後の山・成相寺など)を挙げて、社祠の霊場性を強調しています。
用語・登場人物など
巻末の署名には「如意珠日」「勧進沙門 堯覚(ぎょうかく)」という記述があり、堯覚という僧侶が勧進の中心的人物であった可能性が示されています。
また、勧進状には複数の修復年次が記録されており、過去の棟札や別の記録と関係する可能性も示唆されています。
周辺文献との関係
近世の地誌(例えば「丹後与謝海図誌」「丹後州宮津府志」など)には、天神社・北野社に関する記述が散見され、この勧進状の記述を参照した形跡があります。
また、地誌中には「永元年に平重盛が勧進した」「天文5年に再建立した」「勧進沙門堯覚が修造した」といった伝承的要素が、勧進状の記述と一致する形で現れています。








→木津川市 #海山住寺 :宝珠台・金銅能作性塔
私のNOTEは次の通り。(運慶・快慶作の東大寺四天王は「海住山寺」にあり!?現光寺に慶派の十一面観音坐像@重文【京都南山城シリーズ】|やんまあ)
→京都市 #山國神社 ( #山国神社 ):異国渡海船路積図/大明地理之図
京都市だけど京北地域です。なんでここで世界の地図と加賀あるのかが分からない・・。アフリカに「うんこ」という文字があったが何・・?
異国渡海船路積図
本資料は、京都市右京区京北鳥居町に所在する山國神社に伝来する絵図である。縦 118.5センチメートル、横121.0センチメートルを測り、上段は絵図、下段は文字情報で構成される。絵図は地域ごとに色分けされたユーラシア大陸とアフリカ大陸が描かれ、 紅白線で赤道、その上下に朱線で南北回帰線が示される。方形の枠内には国名・地域名 が記され、海域には洋式帆船が描かれる。絵図は江戸時代初期に西洋からもたらされた世界地図を元にしたものと考えられる。 下段に記された文字情報は、「日本長崎ヨリ異国江渡海之湊口マテ舩路せんろ 積」という表題のあとに、南京からゴアに至るアジア海域19地点の諸国・諸港市及びイギリス・オラ ンダについて、長崎からの航路距離、日本との貿易品、朱印船派遣の有無、当地の状況 などを列記している。 末尾には、「此絵図、寛永十四年丁丑八月、於長崎書之。但、公方様江上り候下書。 貞享二乙丑歳再写之」とあり、本資料の原本は寛永14年(1637)に長崎にて、将軍徳川 家光(在位1623-1651)へ上納するための下書きとして作成され、それを再び貞享2年 (1685)に模写したものが本資料であることがうかがえる。原本作成当時はいわゆる鎖国に関する外交政策が漸次講じられる時期であり、交易品情報の掲載された絵図は有用であったものと思われる。文字情報の内容は、寛永4-5年(1627-1628)頃のものとさ れているが、原本は未発見である。現在のところ、本資料とほぼ同内容の写本が5点、 情報文を一部省略し別の世界図を付けた写本が6点、さらに後者を屏風に仕立てたもの が2点、合計13点が確認されており、このうち本資料は模写年代のわかる最古のもので ある。また、昭和9年(1934)には、東京大学史料編纂所が本資料を模写している。 本資料の伝来については近年明らかになりつつある。明治7年(1874)、京北比賀江町の御霊神社の神宮寺であった高田寺旧蔵の山国郷名主諸道具が払い下げられた際の 売上帳(山國神社蔵)に、「万国図壱軸」と「万国絵図面壱枚」が掲載されており、前者を山國神社宮司・藤野斎が購入している。東京大学史料編纂所による模写本は軸装 であることから、本資料は模写当時は軸装であったと思われ、「万国図壱軸」に該当する可能性が高い。さらに、遡ること安永4年(1775)の高田寺宝蔵目録帳(山國神社蔵) には「万国絵図大小」とあるが、宝暦3年(1753)の同目録帳(山國神社蔵)には見ら れず、この間に高田寺の宝蔵に入ったものと思われる。高田寺宝蔵は山国郷名主仲間の 共同文庫であったようで、弘化3年(1846)の洪水後に寺が廃絶する以前は、文書及び 什物類が多数保管されていたことが、山國神社所蔵文書からも知られる。なお、売上帳 の「万国絵図面壱枚」、並びに「万国絵図大小」のうち「大」については、同じく山國 神社に伝来する「大明地理之図だいみんちりのず 」にあたると思われ、後に藤野が購入し、今日まで併せ て伝来したと推測されている。 本資料からは、17世紀前半の貿易や国際関係を知ることができ、経済史・対外関係史 及び地理学、グローバルヒストリー等に供する資料である。また染織品をはじめとする 工芸品、食品、薬品等の貿易品は、諸分野に関わる豊富な情報を有する。原本は未発見 であるものの、当時の対外政策に関わることが推測され、写本のなかでも最古の模写年 代をもつものとして貴重であり、山国地域ひいては京北の地域社会の一端を知る資料と して、「大明地理之図」とともに重要である。
大明地理之図
資料は、京都市右京区京北鳥居町に所在する山國神社に「異国渡海船路積図 」とともに伝来する、東アジアを描いた巨大な地図で、広大な地理・歴史情報を表している。 縦284.5センチメートル、横365.0センチメートルを測り、四辺が表装される。右下に は、この地図は中国古代地理書や百科事典をもとにしていることや、地図の表示につい て記されている。 また、「歳次辛酉延宝九年六月望。元禄三龍集庚午初冬下浣、以養志堂蔵書模写之」 とあり、元禄3年(1690)に養志堂の蔵書(以下、養志堂本とする)を模写したもので、 先の延宝9年(1681)は養志堂本の成立年であると思われる。現在、大明地理之図は模 写図・類似図合わせて13例が確認されるが、そのうち天理大学本(元禄7年〈1694〉模 写)・中央大学本(文化7年〈1810〉模写)・ギメ東洋美術館本(宝暦12年〈1762〉模 写)にも「歳次辛酉延宝九年六月望」とあり、養志堂本と同じ成立年月日を記している。 また、東京大学本(貞享3年〈1686〉模写〉は養志堂で模写されていることなどからは、 養志堂本は、これらの祖本、或いはそれに近いものに位置付けられる可能性が指摘されている。養志堂は、京都の医師・浅井周伯(1643-1705)の私塾である。『京羽二重』 貞享2年(1685)版では、周伯の住所は「御幸町錦小路上ル町」、宝永2年(1705)版 では「下立売東洞院西へ入」とある。『浅井氏家譜大成』等によれば、養志堂は周伯没 後の宝永の大火(宝永5年)で焼け、享保10年(1725)に本拠を名古屋に移したという。 本資料は、京北比賀江町の御霊神社の神宮寺であった高田寺こうでんじ 旧蔵である山国郷名 主みょうしゅ 諸道具が、明治7年(1874)に払い下げられた際の売上帳(山國神社蔵)に掲載された 「万国絵図面壱枚」にあたると思われる。この時売れ残ったが、「異国渡海船路積図」 にあたると思われる「万国図壱軸」を山國神社宮司・藤野斎いつき が購入したのと同様、後 に藤野が購入したことで、両資料が今日まで同社に伝来したものと推測される。 さらに本資料の伝来を遡ると、安永4年(1775)の高田寺宝蔵目録帳(山國神社蔵) に「貞享二丑元禄三午年 万国絵図大小二枚 但シ大明地理図」と見えるのが、「大明 11 地理之図」並びに「異国渡海船路積図」であると思われる。宝暦3年(1753)の同目録 帳(山國神社蔵)にはこれにあたるものが見られないことから、この間に両資料が山国 郷名主の共同文庫であった高田寺宝蔵に入ったことがうかがえる。 また、この間の記録として、宝暦12年(1762)9月朔日、周山の医師・村山光衆等が 常照寺(現・常照皇寺)の文庫にある「明朝地理之図」を模写していること(「大明地 理之図」ギメ東洋美術館本)、明和3年(1766)に山國神社で法楽ほうらく 能、隣接の神宮寺で 法会と「大明四百余州之絵図」の開帳が行われていることが山國神社所蔵文書から知ら れる。常照寺所蔵文書にみる当時の常照寺の動向からは、「大明地理之図」にあたると 思われる「明朝地理之図」の所有が地元名主に移ったことが推測され、神宮寺ではその 披露がなされたものと思われる。 なお常照寺では、以酊庵いていあん の第25世住持として対馬に赴任し(貞享元年〈1684〉-3)、 朝鮮外交に関わっていた禅僧で、五山碩学せきがく の古霊道充これいどうじゅう (宝永元年〈1704〉没・享年76 歳)が、正保から元禄年間に住持を務めていた。「異国渡海船路積図」(貞享2年模写) 並びに「大明地理之図」(元禄3年〈1690〉模写)の年代は、古霊が同寺の住持を務め ていた時代におさまることから、両資料と古霊との関わりが、常照寺または京北地域へ の両資料の伝来の経緯を知る手がかりとなることが明らかになった。 本資料のもととなる養志堂本は未発見であるものの、近世における国内での地理的 知識の拡大や、模写年代及び模写の系譜の一端がわかる資料である。13例のみが知られ る希少な地図であるなか、本資料は鮮明な色合いを保ち、表装された唯一の作例として 貴重である。山國神社ひいては京北地域の歴史を知る資料として、「異国渡海船路積図」 とともに重要である。
次のサイトにある左上の写真が「異国渡海船路積図」です。(京都市:京都市京北文化遺産センター企画展「世界地図を拡げてー大航海時代の京都と山国ー」)
私のNOTEは次の通り。(オオクニヌシ/源平合戦「山国神社」京都時代祭の先頭!山国郷八社明神【京都京北シリーズ】【京都高雄シリーズ】|やんまあ)
→舞鶴市 #報恩寺 :龍図/東山寺:虎図・鳥図

東山寺:虎図・鳥図

→京都市 #泉涌寺 :蔵狩野山雪筆 蝦鉄拐図

本図は、向かって左幅に蝦蟇仙人、右幅に鉄拐仙人を描く大型の対幅である。筆者の 狩野山雪(1590-1651)は、狩野山楽(1559-1635)の有力な弟子であり、娘婿となって 跡を継いだ。山楽・山雪の家系は今日「京狩野」と呼ばれ、山雪はその2代目である。 画面の岩山、松の幹、仙人の衣などは肥痩の強い輪郭線を用い、大部分が墨の濃淡で 表現されているが、細部は実に丁寧な彩色が施されている。描写の粗密のバランスが 良く、緻密な計算の上で全体が構成されている。保存状態は良好である。 蝦蟇仙人は、諸説あるものの、現在は五代の劉海蟾とする説が支持されており、蝦蟇を連れていることによって比定される。鉄拐仙人は、魂を身体から離脱させている時に、 誤って身体を焼かれたので、別の死体に魂を戻し、足の不自由な姿になったという。 本図の粉本については不明だが、鉄拐の頭の金箍は、『仙仏奇踪』(万暦30年〈1602〉) などの中国の版本挿絵が同様のものを付けている。正保3年(1646)制作の山雪筆「紙 本金地著色群仙図」(ミネアポリス美術館蔵、以下「ミネアポリス本」)に描かれる鉄 拐も本図と同図様であることから、山雪が何らかの先行作を参照し、制作した可能性は ある。一方、蝦蟇仙人は、本図とミネアポリス本ではポーズも顔の表情も大きく異なる。 本図の顔は、山雪の代表作の一つである「紙本墨画淡彩寒山拾得図」(真正極楽寺蔵、 重要文化財、以下「真如堂本」)の怪醜な表情に近い。 制作年代については確定に至っていないが、山雪は泉涌寺の舎利殿の天井に「雲龍図」 を描いている。落款は正保4年(1647)8月の年紀で、「狩野法橋山雪」と記されてお り、同年7月の法橋叙任後すぐと知れる。本図の制作は、この天井画制作と近い時期の 可能性が高いという指摘がある。 山雪の代表作としては「紙本金地著色雪汀水禽図」(個人蔵、重要文化財)等の大画 面が挙げられるが、本図は掛幅装の作品として、山雪の優れた構成力、筆力を示す大作であると同時に、その奇矯な作風も発揮されており、真如堂本に比肩しうる掛幅の代表 作と言える。また、泉涌寺には京狩野家の墓所があり、山雪以後も泉涌寺との繋がりを 保持したことを示しているが、本図はその最初期の関係を知る上でも重要な作品である。
▼メディア情報
→公式X
▼過去の京都文化博物館2階総合展示室
★国宝展★『令和7年 新指定 国宝・重要文化財』in京都文化博物館
★神宝展★京都秦氏『松尾大社展-みやこの西の守護神-』9割が初公開の神宝展/京都文化博物館
#籠神社
#未来へのおくりもの京都府 ×京都市指定文化財
#京都文化博物館
#神社仏閣
#神社
#神社巡り
#やんまあ
#やんまあ旅行記
#旅行記
#やんまあ神社仏閣
#仏像
#人文学
#京都
#京都旅行
#京都においでやすシリーズ
#慶派
#快慶
#特別開扉
#仏像展
#旅行・おでかけ
#京都纏めシリーズ
#京都神社仏閣シリーズ
#京都ツウシリーズ
