天皇という地名が残る町・宇治田原「大宮神社(田原天皇社)」施基皇子って知っている?【南山城シリーズ】
宇治田原には第38代・天智天皇の第7皇子・施基皇子(田原天皇)が屋敷を構えたという伝承があり、天皇という地名の由来になったとも言われている。「天皇」を地名として残す例は全国的にもきわめて珍しく、宇治田原は皇族伝承が土地の名称として定着した数少ない事例といえる。
宇治田原に残る「天皇」という地名は、施基皇子という一人の皇子の記憶と、その子である光仁天皇による追号と祭祀によって、信仰として定着した“皇統の記憶装置”ともいえる存在である。
天智天皇(第38代)
│
├─ 施基皇子(しきのみこ)・・・田原天皇
│ └─ 白壁王(しらかべおう)
│ └─ 光仁天皇(第49代)
変更履歴
2026/0/14:初版
▼HP▼アクセス▼祭神
〒610-0252 京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇38
祭神
初期:天津彦根命・活津彦根命・天忍穂耳尊
後期:天照大神・大己貴尊・瓊瓊杵尊
▼見どころ
→由緒/歴史
不明(創建):
創建年代は不詳
社伝によれば、垂仁天皇がこの地で鷹狩りを行った際、皇子・五十瓊敷入彦命を祀らせたのが起源とされる
田原氏の氏神として古くから信仰されていた
不明(社号の由来)
垂仁天皇がこの地で俵を積んで休憩したという伝承から、この地が「田原」と呼ばれるようになり、「田原天皇社」の社号が生まれたとされる
770年:光仁天皇の勅命により、雙栗天神社(私のNOTE)から天津彦根命・活津彦根命・天忍穂耳尊の三神を遷座し創建されたという別伝もある
1160年:平治の乱により社殿焼失。岩本天神社に仮宮を設け遷座
1199年:再建された社殿に還幸
1283年:地頭・源重宗が御神託を受け、栗林に天津彦根命を一之宮として分遷する
1301年:後伏見天皇の勅命により、天照大神・大己貴尊・瓊瓊杵尊を勧請
1339年:南北朝の争乱で再び社殿焼失
1342年:社殿再建
1404年:足利義満が社殿を再建。室町幕府からの崇敬を受ける
1635年:徳川家光が社殿を修復・再建。現在の本殿はこの時期のものとされ、江戸時代の建築様式を伝える
江戸時代中期:現在の三間社流れ造りの本殿が完成
1873年:田原天皇社(施基親王)・八幡社(応神天皇)などを合祀
大宮神社は田原地区の総鎮守として、また皇室・将軍家とのゆかりを持つ古社として信仰を集める
五十瓊敷入彦命は産業の神としても崇敬され、地域振興の象徴とされている
境内には鎌倉時代の宝筐印塔、文殊菩薩の梵字を刻んだ自然石などが残る
「田原祭(三社祭)」の三社を構成する荒木・郷之口両地区の氏神で、光仁天皇の宝亀元年6月の勅命によって、雙栗天神社よりこの地へと遷宮されたと伝えられています。現在の祭神は、天照大神、大己貴尊、瓊瓊杵尊の三神です。
また合祀社として、田原天皇社(施基親王)、八幡社(応神天皇)があり、末社としては諸戸神社(紀諸人)、御霊神社(崇道天皇=早良親王)がまつられ、これらの祭神は、荒木地区の産土神として、はじめは大宮の社と称され、いつしか大宮大明神社と呼ばれるようになりました。
創建後、社殿は、平治の乱と南北朝時代の二度にわたって焼失しましたが、その度に再建遷宮されました。現在の建築は、江戸時代初期から中期のものと考えられ、三間社流れ造りです。
宇治田原には天智天皇の第七子として生まれた「施基(しき)皇子(田原天皇)」が屋敷を構えたという伝承があり、「天皇」という地名もそこからきています。近くの「天皇谷」背後の山上に御陵が作られたことから、皇子をまつる社は最初山上に作られていたといいます。
神社の下、現在の中央公民館付近には7世紀後半に創建されたという「山瀧寺(さんりゅうじ)」が存在していたことから、谷底から引き上げられたという鎌倉時代の宝筐印塔や文殊菩薩の梵字が刻まれた自然石など、むかしの神仏習合を伺わせる遺物が境内に遺されています。また、現在の手洗鉢は山瀧寺の塔心礎であったといわれています。
→境内
正面から来ると階段になりますが、私たちは北側の登山口方面から車出来ました。久しぶりに急勾配の坂に車のエンジンがキツイと唸っていました。あそこは何だ?と思ったがスルーしたところが「田原天皇社跡」だったんだ・・。

宝篋印塔があった。高さ179㎝で、鎌倉時代後期の作と推定され、施基皇子の菩提を弔うために建立されたと伝えられている。


→割拝殿


田原祭(三社祭)は、荒木・郷之口両地区の氏神が合同で執り行う地域祭礼で、神社の歴史が現在も地域共同体に息づいていることを示す行事である。





→本殿



祭神はアマテラス、オオクニヌシの別名・オオナムチ、ニニギノミコトとある。施基親王、応神天皇、紀諸人、崇道天皇など合祀したという情報もある。いずれにせよ人口減少で管理が苦しくなったこの地域の神社はここに合祀し続けるのだろうと思う。


施基皇子(しきのみこ:~716年)
宇治田原に隠棲され、716年に当地で薨去された
親王の次男・湯原王が邸宅跡に「岩代大明神」と称する社を建て、親王を弔う
その後、6男の白壁王(709~782)が第49代・光仁天皇(在位:770~781)として即位すると、父に「田原天皇」の諡(おくりな)を奉じ、771年に吉備真備を勅使として遣わし、施基皇子を祀る田原天皇社を創建した
施基皇子については『続日本紀』などに名が見える実在の皇族である一方、宇治田原での隠棲や屋敷跡については後世の伝承も含まれており、史実と信仰が重なり合って現在の社伝が形成されている。
→摂社・末社

本殿の左に、八幡宮・御霊社、諸仁神社の社殿が並んでいる。八幡宮の祭神は応神天皇、御霊社は崇道天皇、諸仁神社は「諸戸神社」で紀諸人を祀る。
紀諸人は聞きなれないが紀氏のようだ。橡姫は、施基皇子の妃となり、白壁王を出産したようで、白壁王は光仁天皇として即位している。
紀諸人(きの もろひと)
奈良時代前期の貴族
古代有力氏族「紀氏」の出身
朝廷に仕えた上級官人の一人
娘は 紀橡姫(きの とちひめ)
紀橡姫は志貴皇子の妃となる
その子が 光仁天皇(第49代天皇)
つまり 光仁天皇の外祖父 にあたる
皇室の外戚として系譜上とても重要な人物
本人の詳しい事績は多く伝わっていないが、家柄的に中央政界で活動したと考えられる

田原天皇社(施基親王)、八幡社(応神天皇)
主祭神:五十瓊敷入彦命と承子内親王
承子内親王は江戸時代初期に霊元天皇の皇女として生まれ、生前に病気平癒の祈願を当社で行ったことから、後に合祀された。五十瓊敷入彦命
名:五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)
系譜:第11代 垂仁天皇の皇子
母:迦具夜比売命(カグヤヒメノミコト)または別説あり
同母兄弟:多遅比瑞歯別命(タジヒノミズハワケノミコト)など
田原天皇(追号)
・施基皇子に追号された尊号
・追号者:光仁天皇(施基皇子の子)
・追号年:771年(宝亀2年)
▶ ポイント
・生前に天皇に即位したわけではない
・「追号天皇」として扱われる
・地名「天皇」や社号「田原天皇社」は、この追号に由来する
光仁天皇(こうにんてんのう)
・白壁王(しらかべおう)として出生
・生年:709年/即位:770年(61歳)
・施基皇子の第六子
・即位後、父を顕彰し「田原天皇」の追号を奉じる
・吉備真備を勅使として派遣し、施基皇子を祀る田原天皇社を創建
▶ 意義
・皇統が一時断絶しかけた時期に即位
・父系の正統性を示す政治的意味もあったと考えられる
▼メディア情報
これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。
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