「“お前が全部悪い”と言われ続けた日々を越えて」
ー主夫になるまでの記録ー
2020年頃、ある出来事がきっかけだった。 会社で部下をいじめる上司を見て見ぬふりができず、注意した。 その瞬間から、身に覚えのない噂が広まり、孤立が始まった。
「アイツは仕事をしない」「好き勝手やってる」—— 他支店の店長や工場長から無視され、同僚からも「仲良くしろよ」と言われた。 心が折れそうになるたび、「家族を守るため」「後輩たちに働きやすい環境を」と、自分を奮い立たせた。
しかし、怒鳴られる日々が続いた。 理不尽な叱責に耐え、「異動させるぞ」と脅されながらも、4年我慢した。 後輩たちの声を意見として届けたが、会社はそれを不満と捉え、さらに悪い噂が広まった。
ある朝、起きた瞬間にひどい頭痛と吐き気が襲った。 限界を感じて精神科に行こうとしたが、予約が必要で診てもらえず—— 「まだ頑張れってことか」と思い、無理して働き続けた。 でも、動悸・震え・声が出ないなどの症状が続き、次第に限界を超え始めていた。
2020年3月、異動の内示が出た。 「君の実力なら、メイン工場をまとめてほしい」 あれほど罵っていたのに、異動のタイミングだけ都合の良い言葉を使う。 信じられず、退職を告げた。
その後は本部への異動を提案され、一度は働いた。 しかし体調は悪化し、病院で「適応障害」「社交性不安症」「強迫性障害」「パニック発作」の診断を受けた。 「まさか自分が…」という現実に言葉が出なかった。
その夜、嫁に泣きながら告げた。 「仕事、やめてもいいか?」 初めて人前で涙が止まらなかった。
休職扱いとなり、治療に専念。 娘が産まれ、不安もあったが「育児と家事は自分が全部担おう」と決めた。 その間、何度も「仕事復帰」の話が出た。 社長や総務部長に、過去のパワハラについて改めて伝えたが、会社は一切認めず、ヒアリングさえ行われなかった。
「環境の改善がされてこその復職では?」 そう訴えても、会社は対応せず、ただ復帰だけを促してきた。
納得できない中、「自分がやれることはやり切ろう」と決意し、 労基署の援助や調停まで進めた。 会社は社労士・弁護士を用意したが、こちらは全て自分ひとりで調べ、準備し、対応した。
それでも会社は最後までパワハラを認めなかった。 なのに、示談金を提示してきた。「口外禁止」の条件付きで—— 実質、口止め料だった。 収入がない中、その金を受け取る選択しかなかったことが、本当に悔しかった。
休職期間の満了で、ほぼ強制退職。 15年間働いた会社を、こんな形で終えることになるなんて思ってもみなかった。
その後も治療は続いたが、人や仕事に対する恐怖はなかなか消えず、苦しい日々が続いた。 「人と仕事するのは辛い、でも収入は必要」 そんな葛藤のなかで、自分にとって必要な優先順位が少しずつ見えてきた。
家事や育児は自分が担い、ママが安心して働けるようにすること
子供の送り迎え、ご飯の準備は自分がして、ママは“遊ぶ時間”に集中できるように
パート程度でも良いから、収入を確保すること
でも、人と一緒に仕事をするのは難しい
そうやって、「家の中の責任」を自分の役割にしようと決めた。
その結果、自分が選んだのが“主夫”として生きることだった。 苦しい日々を経て、やっと「選ぶ」という行動ができた—— それが、今の自分をつくる最初の一歩だったと思う。
でも——物語はここで終わりません。 「生きる価値を見出せない」と感じていた自分が、 まさか“本気になれる何か”に出会うなんて思ってもいませんでした。
次回は、そんな自分が初めて「勉強したい」と思えた挑戦。 未知の領域「トレード」に飛び込んだ日々と、 “好きを仕事にする”という人生の再起を記録します📘✨
👇「泣いて仕事をやめた夜から始まった、再出発のための小さな一歩。」
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
このお話の続きとなる「第2章」では、退職後の心の動きや、日々の選択について綴っています。
プロフィール欄に掲載していますので、よかったらそちらも読んでみてください。
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