言葉を尽くすこと
【新本】松家仁之 著 2025年2月1日発行 『火山のふもとで』 新潮社(文庫):読了(2025.9.8付)
京都のある本屋に実在する名物書店員のSさんが、『火山のふもとで』が新潮社で文庫化されたので、とてもうれしいと僕に言った。Sさんは、待ちに待った『火山のふもとで』が店に入荷したとき、早くみんなに知らせたい一心で、店の入り口に立って「文庫化されましたよお」とお客さんに呼び掛けたらしい。それを聞いて驚いた。そんなことをする人ではないと思っていたので意外に思ったのだけれど、Sさんをそうまでさせる文庫を読まないわけにはいかない、そう思って買い求めた。もちろん、Sさんの店で購入したことを念のため記しておく。
小説というのは、僕が普段読んでいる百閒先生の随筆と違って、先が長いから最初の数頁はすこし我慢して読むことが多い。つまり物語についていくのに、僕の方でも準備が必要なのである。しかし、『火山のふもとで』については、冒頭の数頁から引き込まれ、情景が心のうちに広がってくる。
舞台は、浅間山のふもとにある設計事務所の別荘「夏の家」。主人公である新人所員の視点から、その「夏の家」でのささやかな暮らし、荘厳な自然の息づかい、人がつくりだす建築の豊かさ、素朴な日々の営みや小さな恋が描かれる。静穏な人柄のなかに強かな芯をもつ建築家・村井俊輔の生き方や建築家としての態度と言葉に宿る静かな情熱が、読者の心を打つ。
小説の冒頭に描かれているのは、ただただ何気ない朝の風景。鳥が鳴き、空がぼんやりと明るくなり、冷え込んだ空気が部屋に流れ込んでくる。村井先生が1Fで散歩にでかける準備をしているのが、音でわかる。淡々とそれらの光景が文字に写し取られていく。僕も「夏の家」の朝の中にいる。
この表現力、表現のために選ばれた言葉にはよどみがなく、書き手の神経が隅々にまで行き届いている気がする。なにも閊えることのない、そこにぴったりはまったピースのように言葉を紡いだ文章に心が奪われてしまった。ああ、日本語って美しいんだなと思った。

「あとがき」もぜひ読んで。新しい本が1冊できるほどに充実した内容。
小説や随筆には、書き手が表現したいこと、道標のようなものが少なからず存在している。たぶん。しかし、読み手が物語の終着点に辿り着いたとき、その感慨はそれぞれ読んだ人によって違うものだろう。僕は、書き手ではないけれど、ひとりの読者として本とはそういうものだと思っている。
僕は著者の松家さんが物語のなかで表現した「対話」についての考えに感心した。村井俊輔が主人公に建築家は言葉を尽くすことと語る場面がある。建築家とは、クライアントがいて初めて成り立つ仕事だ。相手がいる。芸術家のように自身の感性をぶつけて作品をつくるような自主性が重視されるものではない。建築家は、ひとりではないのだ。そうすると、相手の要望を聞いたり、伝えたり、ゆっくりと誠実な対話が必要になる。
その時に、建築家に重要なのは、この家はどういう家なのか、相手に対して自分の言葉を尽くさねばらないこと。そうして建って家があり、建築家がクライアントに尽くした言葉の数々は、いつしか暮らす人の言葉になっている。訪れた人にその言葉を伝えるようになる。それが建築家にとっては成功の証だという。
対話は単なる手段ではない。情報を伝えるだけでもなければ、自分の価値観を前提とした会話ではない。対話はもっと深いところにあって、もっとも誠実なものだと思った。
また別の場面では、声としての音についても語る。「声はふしぎなものだ」から始まる文章を僕は何度も読み返した。声をもって誰かによどみなく話をしたつもりでも、説明しつくせないものがわずかに残る。その部分がとても魅力的なのだという。言葉の意味ではなく、声の音が人を動かす。とくにそれが、関心を寄せる人の声であれば、なんども耳の中で反芻したい気分になる。この作者の文章に僕は目が覚めた気分になった。
この小説のなかに溢れるきらきら光る言葉の宝石は、建築家のためだけならず、誰しもの生き方に通底するものがある。
