うれしさを、ただ眺めたかった
ここのところ、ずっと取り組んできた大きなプロジェクトが終盤を迎えている。
うまくいくかな。
あと何をやらなくちゃいけないだろうか。
そういう、不安や焦りが、常に頭の片隅でメモリを食っている。
無意識に息を詰めるような緊張が、肩や背中を強張らせている。
できることはやりきった、あとは、結果を待つだけ。
そういう状況になった、週末の朝。
小さな成果が出たと、メールがあった。
本丸は、まだまだだ。
でも、まずは結果につながったことがわかった。
うれしい、と思ったはずだった。
なのに、そのうれしさは、一瞬で流れ去っていき、逆に頭の中が、「あれをやらなきゃ」「これもやらなきゃ」と、新しいタスクで埋め尽くされていった。
おかしいな…
うれしかったはずなのに。
なんで、こんなに、私は焦っているんだろうか?
雨の週末だったが、家でじっとしていることができず、傘をさして散歩に出かけた。
散歩をしていても、気ぜわしいままだった。
あそこで咲いている花はなんだろうか?
あ、次の記事で取り上げるネタを思い付いた。
変な鳴き声の鳥だな、初めて聞いたかも。
そういえば、あの人にメールをしなきゃ。
仕事のことも、散歩しながら目に入る風景も、ごちゃまぜで、思考が暴れている。
雨が激しくなってきたので、いったんスターバックスに入ってコーヒーを飲むことにした。
窓辺の席に座って、外を歩く人を眺める。
なんでうれしいという気持ちにとどまれなかったんだろう。
そう考えるうちに、「うれしいという気持ちが、その時の私にとって大きすぎる刺激だったのかもしれない」と思い至った。
ずっと、うまくいくか不安で、たくさんのことを準備してきた。
こころや意識が、ガチンと直立不動になったまま、それでも仕事や暮らしをしてきた。
そこに、舞い込んだ小さな成果のメール。
そのメールを読んだとき、最初は別のお知らせだと思い込んでいて、ふんふん、と読み飛ばしていた。
しかし、よくよく読んだら、それはちゃんとした成果だった。
成果だと知った時、心臓が強く一つ、「どきーん!!!」と鳴った。
その一瞬は、うれしかった。
でも、うれしさは、私の心の水面を激しく揺らした。
揺れたことで、さらに動揺した。
パニックになった。
水面にぱしゃっとあがった水しぶきが、重力を失って、ぴゅんぴゅんと弾丸のように、のべつまくなしに飛び回るような、そんなパニックだ。
パニックを鎮めたくて、押さえこみたくて、現実的なたくさんのタスクで頭を埋め尽くそうとした。
そうやって、やらなければならないことを考えれば、嵐のようになっている自分と向き合わずに済むから。
でも、そのせいで、私のこころにポタっと落ちたうれしいニュース、その一滴が水面を叩き、ぱっと飛び上がった美しいウォータークラウンを、私は感じることができなかった。
ウォータークラウンに驚き、その後の水面の余韻のような揺れに、酔ってパニックになり、それを押さえるのに必死だったのだ。
たぶん、そのウォータークラウンを、私はただ眺めればよかった。
パッと上がった水しぶきは、私を乱すものではなく、ただ純粋な喜びだ。
それを眺めることができるようになったとき、私はその喜びという感情を、もっと素直に感じて、表現できる。
その一滴を、ただ眺めることができたなら、その喜びは、私の中で暴れるだけではなく、少しずつ流れになっていくのかもしれない。
暴れる水しぶきではなく、ひとまとまりになって、流れを作る。
細い川は、やがて対岸が遠い川となり、海に出る。
私は、海に出たい。
海に出たいんだ。
そして新しい海で、自分を試したい。
出会ったものに、何かを感じて、不安になったり、違和感を感じたり、もやもやしたりする。
それをまた、言葉にして、また海で、試したい。
もう、頭の中は静かになっていた。
もう少し、コーヒーを楽しんでから帰ろう、と思った。
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