「眠る子たちのメモワール」第1話
あらすじ
吉村雄樹の小説が舞台化された。演出家は姉の田中留美だった。
二人の両親は事件に巻き込まれ死亡。可哀想な幼き姉弟、と見世物にされた二人は心に傷を負い、その傷から逃れるため別人になりたいと願うようになる。大人になった姉弟は整形して名前を変え互いに関わりを避けていたが、今回の仕事で再会し、長年、犯人の動機に不信感があったと弟は告白。本当の理由を探ろうとする弟を姉は止めたが、弟は行動に移してしまう。
一方で留美を想う二人の男がいる。留美に恋したベテラン俳優の間宮、留美の死を願う死体愛好者の丘山だ。無関係の二人だったが、のちに登場する予言者が二人を結びつけ、雄樹と留美もそこに巻き込まれて行く……。
第2話
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第3話
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第1話
窓のない部屋。壁のコンクリートは痛みが激しく、床も床板が剥き出しになっている。部屋の隅にこしらえてあるベッドの上には、青い服を着た髪の長い女が身を丸めて横たわっている。ドアは一つきり。真鍮のドアノブは曇っている。ドアパネルは重くて頑丈そうに見える。
女はゆっくりと目を開け身を起こす。ベッドに腰掛けて周囲を確認し、沈黙を体に染みこませるように深呼吸する。ベッドから降りて扉を開け、廊下に出る。黴臭い風が鼻先を撫でる。絨毯が所々剥がれた螺旋状の廊下をくだり、建物の出口の扉そっと開け足を踏み出す。
その街は据えた匂いが充満している。人々は聞いたこともない言葉を喋っている。街は無計画な増築を繰り返したように入り組んだ構造になっていて、迷路のようだ。乱立する建物を見ても一体何のために建っているのかわからない。見たことのない文字が書いてある看板が建物の壁面にぎっしりと掲げられ、建物の前では酔っぱらいが叫び声を上げていたり、見窄らしい老婆が娼婦のような格好でにやにや笑っている。
街にいる人々は、私に気を留めない。最初から私がいないとさえ思っているように見える。いつも私は、彼らの交わす言葉に、囁きに、つぶやきに、聞こえてくる音すべてに耳を傾け、目に見えるすべてを見つめる。今日もこれまでと同じようににそうする。耳を澄ませ、注意深く辺りを観察する。私の背後には天まで届くほど長く伸びた塔のような建物見える。私はそこからこの街にやって来た。いずれ戻ることになるが、それは今じゃない。
女は不可解な街を歩き続ける。行き交う奇妙な人々の流れに飲まれ女が姿を消すと、世界がぐるりと反転する。不可解な街の代わりに現れたのは、我々がよく知るこの世界だ。
東京の巨大ターミナル駅、夏の夕暮れの街を行き交う人々。駅から少し離れた劇場前の広場では、マジックや大道芸のパフォーマンスが行われている。仮設店の下では古書市が開催され、食べ物の移動販売車も出店し、広場は賑わっている。劇場を中心に、広場は祝祭感にあふてれている。先程の街とは正反対だ。幸福感に満たされ、人々の顔から笑顔がこぼれている。劇場の入り口には祝祭の象徴のように公演中の演劇のポスターが掲げられている。
大ヒット小説の舞台化!
【アラン・スミ氏の孤独】
吉村雄樹・原作
田中留美・作/演出
出演 真宮宗壱
他、沢山の出演者の名前が記され、東京公演、大阪公演、福岡公演の日付が入っている。
視点は劇場内に入り、ロビーへ移動する。ロビーは開場を待つ人々で賑わっている。スタンド花がずらっと並んでいる。演出家の田中留美宛て、主演の真宮宗壱宛ての花が多い。
田中留美(32)がロビーの隅で劇場に入ってくる人々の様子をそわそわしながら見ていた。先輩の有名演出家、鴻池章一(55)がロビーに入ってくる様子が彼女の目に留まった。
「鴻池さん」と留美は声をかけた。
「やあ、留美ちゃん」鴻池は留美を見つけるなり、駆け寄ってきた。
「お忙しい中ありがとうございます!」と留美は頭を下げた。
「相変わらず上り調子でなによりです」
「いえ、そんな」留美は顔を赤くして照れた。
「真宮さんが相当評判いいし、大成功だね」
「ホント助けられてます……」
「イギリス行きも夢じゃなくなってきたね」
「……決まれば……いいんですけど」
「いざとなったら俺がねじ込むから。安心して待ってて」
「あはは……ありがとうございます」
「んじゃ、楽しみにしてます」
「ありがとうございます!」留美がお礼を言うと、鴻池は他の関係者たちへのあいさつ巡りに移った。
留美の背後から女性マネージャーが声を掛けた。
「原作の吉村先生がいらっしゃってる」マネージャーは、ロビーのソファーにもたれてチラシを眺めている雄樹に顔を向けた。
吉村さん、と留美が吉村雄樹(30)に声を掛けると、二人に気づいた雄樹はソファーから立ち上がって言った。
「ご招待ありがとうございます」
「こちらこそ、お忙しい中いらしていただいて恐縮です」と留美はお礼を言った。
「先生、稽古中の陣中見舞いありがとうございました!」とマネージャーが言った。
「私みたいな素人がお邪魔してご迷惑じゃなかったですか?」
「いやいや、そんなことないですよ! むしろ志気が上がったというか」マネージャーは答えた。
「それなら良かった」そう言うと、雄樹はスタンド花を見て「皆さん、ああやってお花を贈られているんですね。へえー」と言った。
「出版社の方から先生のお名前で立派なお花を頂戴してますので、ご心配なさらなくても大丈夫ですよ!」マネージャーは雄樹をフォローしたつもりだった。
「ああ……出版社から……やっぱり素人だなあ……。誠心誠意の心配りもできなければ、形式的なお花を贈る段取りも知らないし、ほんと素人ですみません! あははははは!」雄樹は声を強く張って笑いながら言った。
「いえ……あのっ……」マネージャーは狼狽して体を縮こめた。
「あはは、冗談ですよ。すみません」
「そうだ、楽屋のエアコン調子が悪いんで、管理室に言ってきてくれる?」と留美はマネージャーにお願いし、彼女を雄樹から引き離した。
留美はにこにこ笑いながら、小声で「何であんなこと言うの?」と言った。
「どこの業界でも形式とか風習とかろくなもんじゃねえから嫌味言ってんの」雄樹も小声で答えた。
にこにこ笑いながら留美は溜め息をついた。
「だいたいアイツもご機嫌取りするか、その場しのぎで取り繕うようなことしか言わねーし。風見鶏のコウモリ女がよ」
「それも仕事なの! ってか風見鶏とかコウモリって例えがだいぶ古いな!」
「そうだ、キックオフイベントって知ってるだろ? あれ最新型の中身のねえ風習だぜ? 考えた奴マジで頭いか……」
「あの……」女の声が二人の背後から聞こえた。
雄樹と留美がハッとして声の方を見ると、『アラン・スミ氏の孤独』の原作本とペンを持っている二人組の女性がいた。
「吉村雄樹さん……ですよね?……サインいただけますか?」
雄樹が微笑みを湛えながら「もちろん」と言って原作本とペンを受け取ると、ファンの二人は小さくジャンプしながら、ありがとうございます! とお礼を言った。
雄樹は本とペンを返した後、二人と握手をし、深くお辞儀をする二人組に小さく手を振った。黄色い歓声が上がった。
「私も吉村先生のファンサービス、見習わなくっちゃ」
「これも仕事なんでね」
留美は呆れた表情で雄樹を見た。
「19時開演、アラン・スミ氏の孤独、只今より開場いたします」とアナウンスが流れた。
「じゃあ、拝見しますね」
「ごゆっくりお楽しみください」
「田中さん」と雄樹は擦れ違いざまに留美の耳元で囁いた。「話があるんだ。今晩店予約してあるから、来てもらえる?」
簡素な廊下に一定の距離で並んだドア、その一つが真宮宗壱(67)の楽屋だ。
真宮の楽屋の前にやって来たスタッフがドアをノックした。
「はい」と低い声で短い返事があった。
ドアを開けたスタッフは「失礼します。客席開場しました」とメイクを済ませ衣裳を身につけた真宮に伝えた。
メイク台に向かって座っていた真宮は、ありがとうございます、とスタッフに顔を向けて礼を言った。
「終演後、原作の吉村先生がごあいさつにいらしたいとのことなので、ご承知おきください」
「わかりました」
スタッフは頭を下げて退出した。スタッフの気配が消えると、真宮は手元にあるスマホを取り上げた。ロック画面の壁紙はこの公演の稽古中の写真だった。真宮は、自分の隣で照れくさそうに微笑んでいる留美をじっと見た後、スリープボタンを押した。そして鏡に映る自分の姿を確認し、楽屋を出た。
時刻は開演間近。ロビーでは客席へ入っていく観客や関係者を留美が見送っていた。
マネージャーがやって来て「そろそろ中へ」と留美を促した。二人は劇場内へ姿を消し、スタッフが劇場へ続く重い扉を閉め始めた。
そのとき、長身の痩せた男、丘山四郎(45)が受付に走ってきた。丘山は息を整えながら鞄からチケットを出して受付スタッフに渡した。
「はあ……はあ……はあ……まだ大丈夫ですか?」と丘山は言った。
「間もなく開演ですのでお急ぎください」スタッフは丘山に半券を返して言った。
「はあ……はあ……ありがとう」丘山は劇場の扉へ向かって再び走り出した。
座席は満員である。チケットの番号を見ながら丘山は中央中程の自席へ座った。最後方が関係者席となっていて、頬杖をついた雄樹が座っていた。その斜め後ろに留美が腰を下ろしていた。開演のブザーが鳴り、客席の灯りが消えた。
スポットライトが舞台上手を照らすと、ハットを被りスリーピースのスーツを着た真宮分するアランが、懐に手を突っ込みながら客席を睨み付けていた。
「人を殺すなんてまっぴらごめんだ」とアランは言った。「殺しなんかしたくなんかねえ。でもなあ! これは……これは、やんなくちゃあ……なんねえんだ!」そう言うと懐からピストルを出し、客席に向けて三発発砲した。
舞台下手が照らされる。モダンガール風の若い女が血まみれになり、焦点の定まらない目を客席に向けていた。何かを探しているようにぎょろぎょろと客席を見た。丘山はその死にかけた女を見て唾を飲み込み、満面の笑みを浮かべた。小説の冒頭と一緒の死に方だ、と丘山は思った。女の口の端から血がしたたり落ちた。女は膝を着き目を剥いた。丘山は女と目が合ったような気がした。背もたれから体を起こしてたった今死体になった女優の姿に興奮し、膝に置いた手を強く握った。
「うわぁぁぁぁっ!」とアランが叫び、女に駆け寄った。
雄樹と留美は姿勢を崩さずその芝居を見ていた。
かつて二人も殺人事件の現場に遭遇したことがあった。当時、二人ともまだ十歳にも満たない子どもだった。
夜中の住宅街。家と家の間を隔てるブロック塀の上を黒猫が悠々と歩いていた。しかし突然、猫は毛を逆立て遠方を見据え警戒した。目は大きく開かれ、耳は音を捉えようとしていた。
猫が見ている先に住宅があった。その子ども部屋では、階下で起こっている惨劇から自分たちの身を守るように、姉(7)が弟(5)を抱きしめていた(劇場で芝居を見る留美・雄樹と同じ位置)。
やめてください! と母親の懇願する声が聞こえた。すぐあとに母親の悲鳴が響いた。姉弟は硬く強ばった小さな体を震わせながら、階段を登ってくる足音に気づかれないよう息を殺していた。こちらに近づくにつれ、聞こえてくる音の中に嗚咽が混じり始めた。理由はわからない。侵入者は泣き声ともうなり声ともつかない声を出しながら二階にある両親の寝室を開け、中に入ったようだった。
「逃げよう」と姉は弟に言った。
「二階だよぉ、ここぉ……」と恐怖に震えた声で弟が言った。
「窓から一階の屋根に降りて塀に飛び移れば、逃げられる」姉は精一杯落ち着いた声で弟に言った。「大丈夫。絶対できる」
「ムリだよぉ!」弟はかすれた声で訴えた。
「保育園のみんなは逆上がりできない。でも哲生はできるでしょ?」
「うん……」
「だからできる」
「意味わかんないよぉ……」
「運動神経がいいってことだよ。だから先に逃げて。あたしもすぐ行くから」
弟は姉に励まされ、泣きべそを掻きながらカーテンを開いた。その音が大きく響き渡った。
「バカ!」
「うゎぁぁっ!」
「早く行って!」と姉は窓を開け、弟の尻を押して窓の外に押し出した。
足音が姉の元へ迫っていた。姉は窓の外にいる弟に早く行けと合図し、窓とカーテンを閉めた。
「お姉ちゃぁん……」弟はぐじぐじ泣きながら、姉の指示通り一階の屋根から塀に飛び移り、路地に飛び降りた。そして深夜の路地を掛けて行った。黒猫が遠くの塀の上から弟の行動をじっと見ていた。猫は少年の姿が見えなくなるまで見送ると、また悠々と歩き始め、姉弟の家の庭に植えてある楓の木に飛び乗った。
一階のリビングでは、絨毯の上に父が仰向けに倒れ、意識のない母が食器棚に寄りかかっていた。二人の体からは血が止めどなく溢れていた。
子ども部屋のベッドの上には、右胸を包丁で刺された姉が体を痙攣させていた。侵入者である本田富士郎(35)は、ベッドの側に立ち、涙や鼻水を垂らしながらむせび泣いていた。黒猫が窓の外からその様子をじっと見ていた。本田は血まみれの両手で強く握りしめた包丁を自分の腹に突き刺した。
舞台に立つアランは、こめかみに銃を当てて撃鉄を弾いた。カチッと乾いた音がした。
「死を持って償わせる、そんな生ぬるいことをさせやしない」とアランの背後に立つ老婆が言った。老婆は自分が着ている着物を剥ぎ取るように脱いだ。老婆は最初にアランが殺した女に姿を変えた。
「あなたは沢山の女を殺した。罪を償うため自分も同じように簡単に死ねると思ったら、大間違いよ」
アランは振り向いて女を見た。アランの頭から汗が飛び散った。観客の目にもそれがはっきり映った。
「あなたは永遠に、孤独を生きるの。魂は幾度となく生まれ変わり、その度に孤独に苛まれながら長い長い天寿を全うする。そしてまた生まれ変わる。繰り返し何度も。孤独と暗闇と共に永遠に」
暗転。音楽が鳴り出し、照明がつくと、出演者たちが舞台上に並んでいた。観客たちは立ち上がった。盛大な拍手が鳴り響いた。雄樹もそれに倣った。留美は舞台袖から現れ、俳優たちと共に拍手を浴びた。
丘山だけは違った。椅子に座ったまま天井に頭を向け、目を閉じていた。あの女優の死に方、死体の美しさは素晴らしかった、と思った。丘山は小学生の頃に川で見つけた若い女の死体のことを反芻し、女優の死に様と比較した。……女優の死は完璧とはほど遠かった。
お盆の帰省中、朝から一人川で魚取りをして遊ぶ丘山少年は、葦の茂みに浮かんでいる死んで間もない若い女を発見した。女は仰向けに倒れ、奇妙な形に曲がった頭が丘山少年のほうを向いていた。着衣はなく、白い肌が剥き出しだった。
初めて見る母親以外の女の裸だった。息が止まりそうな程の衝動が少年の体中を駆け巡った。少年は女に近寄り、滑らかな体を観察した。恐る恐る手を伸ばし女の乳房に触れた。ひやりとした感触に少年は死を強く感じ取った。
「しっ! 死んでっ!」丘山少年は腰を抜かしたが、何とか立ち上がると一目散に祖父母の家に逃げ帰った。
得体の知れない衝動と死の恐怖が長い時間心臓を強く打っていた。昼食もろくに喉を通らなかった。時間はその複雑な感情を濾し、少年の心に残したものは、冷たく柔らかな感触をもう一度体験したいという思いだった。川で死んでいる女の体を触りたい。少年は意を決して再び川へ向かった。だが女の死体はもうなかった。あの女の人は生きていた……。いや、半開きになった口の中は川の水で満たされていたし、開いた目はぴくりとも動かなかった。肌も氷のように冷たかった。確実に死んでいたはずだ……でも死体はもうない。
劇場にいる丘山は満たされない感情を押し殺し、席から立ち上がった。帰るつもりだった。丘山はスタンディングオベーションに囲まれて気づかなかった。あの女は誰だ? 丘山は舞台上であいさつをする留美を見ている。川で死んでいた女とよく似ている。似ているどころかうり二つだ。鞄の中から公演のチラシを出し、確認する。演出家の写真なんて気にも留めていなかったことを丘山は後悔した。
丘山はゆっくりと席を離れ、舞台に近づいた。立ち上がって拍手をする観客たちは彼に気を払わない。丘山が舞台に上がったとき、観客たちはやっと認識する。丘山は留美に近寄り、彼女の首に手を伸ばす。拍手が鳴り止み奇妙な静寂に包まれる。
丘山は妄想を振り払った。大きな拍手と俳優たちのあいさつはまだ続いていた。
ロビーは観劇を終えた観客たちで溢れていた。あれこれと感想を言い合う者、お見送りに出てきた俳優たちと歓談する者、アンケート用紙に細かい字で感想をびっしりと書く者。丘山はその中に留美を発見した。留美は関係者たちと何やら楽しそうに話をしている。丘山は真っ直ぐ留美を目指して歩いて行く。背が低い留美は長身の丘山に気づかない。丘山は手に持っていたチラシを留美の背後でわざと落とす。丘山はチラシを拾うと、留美の匂いを目一杯吸い込みながらゆっくり立ち上がる。生きている匂いだ……と丘山は思う。この女の死んだ匂いは、どんな香りになるだろう……。丘山は背筋を真っ直ぐ伸ばして劇場を出て行く。
真宮の楽屋。メイクを落とし、着替えを終えた真宮はVHSビデオのパッケージにサインをしていた。真宮が若い頃に主演した剣客浪漫映画のビデオソフトだ。
テーブルを挟んで真宮の正面に座る雄樹は、神妙な顔つきで真宮を見ていた。雄樹の隣に座っている留美も緊張した様子だった。
顔を落としてサインをする真宮の顔が、映画の中で剣を構える若い真宮の顔へオーバーラップした。
青年真宮は剣を抜いて大立ち回りをした。襲ってくる敵をばっさばっさと斬り、最後の一人を斬り倒すと、剣を鞘へするりと仕舞った。その姿とペンに蓋をする動作が再びオーバーラップした。
真宮は丁寧にビデオパッケージを雄樹へ返した。
「こんなもんでよろしかったでしょうか」
「ありがとうございます!」と雄樹は腹から声を出して言い、テーブルに額をこすりつけ感謝の意を表明した。
「今時ビデオテープがあるんですね? 長い間お持ちになってたんですか?」と真宮が尋ねた。
「いえ、ネットにプレミア商品を扱う店がありまして。そこで」
「へえ! しかしこんな古いもんにプレミアだんなんて、ねえ?」真宮は感心して言った。「ああ……そうか、私の出演作、ほとんど回収されちゃったから……なるほど。お手間おかけしてしまって……申し訳ありません先生」
「とてつもない俳優さんなのに、たった一度の過ちで過去の出演作をお蔵入りにする業界の体質に腹が立つばかりですね!」雄樹は力強く言った。
それまで柔和な顔をしていた真宮は、目を閉じ眉間に皺を寄せた。留美やその場にいたプロデューサーに緊張が走った。真宮は椅子から立ち上がった。留美とプロデューサーが真宮を制止しようと咄嗟に動いた。
「先生、ありがとうございます」と真宮は深々と頭を下げ、お礼を言った。止めに入った二人は、予想外のリアクションにおかしな格好のままフリーズしてしまった。
「若いころの無茶が祟り、何十年という時間を無様に過ごしてきまして……まあ干されたんですな。……で、いつの間にか扱いづらいジジイになってしまいまして……。ですけど今回、幸運にも素晴らしい原作と演出家に出会えた。……この芝居に呼んでいただけたことを本当に感謝しているんです」
留美は嬉しさを噛み殺すため、顔にぎゅっと力を入れた。
「……この芝居でね……俳優人生の再スタートができたような気もしてるんです」
留美は驚いて真宮を見た。
「それに先生がこんな古い映画まで愛してくれるなんて……」真宮は感極まり泣き出してしまった。
「ま、真宮さん……」と雄樹は声を掛けたが、号泣する真宮には届かなかった。
賑やかな繁華街から離れた路地の奥にある隠れ家的居酒屋、店内のさらに奥にある個室席では雄樹が留美を待っていた。
引き戸が開き、留美が到着した。
「ごめん、遅くなった」留美は雄樹の対面に座った。
「真宮さん大丈夫だった?」と雄樹は尋ねた。
留美はバッグを置いて座敷に上がりながら「あんたにずいぶん感謝してたよ。懐深い人っていうのは真宮さんみたいな人のことを言うんだねぇ」
「な!」
「お前に嫌味言ってんだよ!」
「おれ?」
「あたしのマネージャーずいぶんいじめやがって。ウツワちっちぇーヤツが懐の広さ語るんじゃねぇ」
「クッセえ風習も、風見鶏のコウモリ女もいけすかねんだよ」
店員がドアをノックしたので、留美は雄樹を無視して対応した。
「ビールください」と留美は店員に言った。
「かしこまりました」店員はドアをぴったりと閉めて個室を出て行った。
「姉ちゃん、今日もあんまり飲んでくれるなよ?」
「……あのときは……売れっ子作家がまさか弟だとは思わなくて……羽目を外しすぎた」
「大丈夫かよ……おれたちが姉弟なの、ばれてない?」
「ばれるようなことはしてないけど、今みたいに会うのはいつかボロがでるからお互い気をつけないとな。週刊誌もどこで見てるかわかんないし。ところでこれ食べていい?」留美はテーブルの上の料理を指差した。
「いいよ」と雄樹が答える前に留美は箸で刺身を一切れつまみ、口に入れていた。
「ん〜! すごく美味いじゃねーかよぅ! 哲生、何でこんな店知ってんの?」
「編集さんに連れてきてもらった」
「お前すげーなー。売れてんなー」
ビールが到着し、留美は料理をつまみながらあっという間に3杯のジョッキを空にした。
「話って何? 電話とかだとだめなわけ?」留美は料理を頬ばり、ビールを飲んだ。
「……来月、本田富士郎が仮出所する」
容器に飲んでいた留美の表情が硬くなった。ジョッキをテーブル置き、箸を小皿の上に揃えたて置いた。
「……うそでしょ」
「……本当だよ」
「……どこから?」
「北九州」
「……何で知ってるの?」
「それは言えない」
「来月……もしかしてあたし、福岡公演中?」
「そうなる可能性もある」
「可能性?」
「今のところ日にちまでわからない」
「……教えてくれなくても良かったんじゃない?……忘れるために必死だったんだよ?」
「姉ちゃん。おれたち名前を変えて、顔も声も整形して。姉弟関係も隠してさ……今回の芝居で顔を合わせるまで、何年も会わないで生きてきただろう?」
「お互いそう望んだからな」
「おれたちのこと何も知らない人が見たら完全に赤の他人だよ。姉ちゃんのマネージャーとか真宮さんに、ほんとはおれたちが姉弟だなんて言っても冗談だと思われるだろうね」
「……」
「だけどな……結局は家族なんだ。おれたちはきっぱり忘れることができても、血の繋がりとは無関係なところから逃れられない因縁が顔を出すんだ」
「……」
「本田が出てくることがそれなんだよ」
「……ひょっとして……何かしようとしてる?」
「本田に会いに行く。本田に会っておれたちの両親を殺した本当の理由を訊く」
「まだそんなこと言ってんの?……もういい加減に……」留美はこめかみを押さえた。
「おれは本田の逆恨みが犯行理由だとは思ってないし、裁判記録を読んでも、あいつの証言は誰かに用意されたもののようにしか思えないんだよ」
「……あんたもあたしも実際に裁判に立ち会ったわけじゃない」
「姉ちゃんが忘れたいってのもわかるよ」
「……」
「でもあのときおれは小さすぎて、事件のことをほとんど憶えてない。父さん母さんの記憶だってあんまりない」
「……」
「だからこそ……本当のことが知りたい」
「知らなくていい。……忘れなよ」
「なあ、姉ちゃん。おれは忘れるほど憶えてないんだよ。おぼろげな記憶しかないんだ」
「……」
「だからその記憶をはっきりさせたい……顔や名前を変えて生きなくちゃならなくなった忌まわしい因縁に結着を着けたいんだ」
怒りと悲しみ、弟への愛が留美の中で複雑に混じり合った。弟の決意は固く、何を言っても無駄だと留美にはわかった。
「約束して」
「どんな?」
「……あたしを巻き込まないでほしい」
「……わかった」
