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掌編小説 指先の窓

爪が窓になった。縦に走った細かい筋が気になり、磨いたところだった。

「よし、これくらいでいいかな」

指の爪すべてにガラスのやすりをかけ終え、粉状のけずりかすをぬぐう。手の甲を上にして広げると、爪は窓辺の陽ざしを受けて濡れたように光った。

見とれているうち、右親指の爪の根元がちらついているのに気付いた。乳白色の半月が、爪の先へとゆっくり昇りながらそのまるい体を現していく。月が通りすぎたあとは青が深まって藍になった。控え目なラメを散らしたように星がまたたく。光は密になり疎になり、どこかの街の夜景になっていた。

月はひとさし指へ、そして中指へと、夜を引き連れていく。左手はどうかと指先を見ると、月の動きと呼応するように小指から親指へと太陽が移っていく。曙色が白んでやわらかな青になり、また別の街の家々が現れる。どこかの夜はどこかの朝。爪は体の状態を映すというが、いま、わたしの爪は世界を映し出していた。

昔、毎週のように好んで視聴していた旅番組を思い出す。名所はもちろん、なんでもない住宅街でも、いつもと違う暮らしぶりに触れるのはいい。石造りの寺院に供えられた花、路地にはためく鮮やかな色の洗濯もの。青果店の軒先で立ち話を続ける人たち。窓から流れる景色に人の活気を感じて自分もそこで過ごしているような気分に浸れる。足を踏み入れなくても、空気を吸わなくても満足だった。

わたしは爪を飽かず眺める。ちょっとした隙間時間、仕事の休憩、家事の途中で。周りからはただの爪にしか見えないらしく「またぼんやりして」とあきれられた。

時折、爪の窓を、白っぽい小さなかけらが風に乗ったようにぱらぱらと横切っていく。流れ星か、花びらか。目を近づけるときにはもう通り過ぎてしまったあとでよくわからない。

スマートフォンやタブレットのように場面の切替えや拡大ができるのだろうか。爪の表面を指先で軽く叩いてみたり、押し広げようとしてみたりしたが、自分の意図で映像を変えることはできないようだった。遠景から近景、また遠景へと、流れるようにランダムに切り替わっていくだけだ。

やがて、指先の窓に映る景色は心なごむものばかりではなくなってきた。災害や争い、貧困に病。暗い雲に走る稲妻。強風になぎ倒された作物。丘にあがったまま乾いて息絶えた魚、真っ黒に汚れた羽でうなだれる鳥。廃棄物の押し寄せる浜辺、都市だったはずの瓦礫の山。擦り切れた敷布に力なく横たわる老人。もう動かない誰かにとりすがって泣きじゃくる女性、

窓を通じて何かできるかもしれない。薬指の爪のなかで炎を上げている山に水をかけてみる。ただ流れ落ちていく水の向こうで炎はますます燃えさかった。燃える山の映像は徐々に薄れ、おびえた表情でうずくまる子どもが現れる。その姿をそっと撫でてみる。指の先で子どもはじっと遠くを見つめて固まったままだった。

わたしは窓から目を背けるようになった。だが、家事をしていてもパソコンを触っていても、指先が目に留まる。背けようとすればするほどに飛びこんでくる。

ドラッグストアで、くすんだ淡い薔薇色のマニキュアを買った。光を吸着するようなマットな質感のものだ。液を含ませた筆先をためらいながら爪に置き、一気に滑らせる。二度、三度、色を塗り重ねると景色はようやく隠れた。塗り終えた途端に、深いため息が出た。

見えなければ、存在しない。何もなかったことにする。知らぬ間に景色が映り始めたのと同じように、知らぬ間になくなっているだろう。

だけど、一週間してマニキュアを落としても、どこかの景色は映り続けていた。日が沈んで月が昇って、幻灯のように街や村が現れては消えていった。塗り直しては落として。サイクルを何度か繰り返してみたが、同じことだった。

そんなある日、会社に行く途中で、交差点の一角がいつの間にか駐車場になっていてはっとした。だけど、以前どんな建物があったかどうしても思い出せない。信号待ちで絶対に眺めていたはずなのに。

ああ、そうか。こんなふうに、見えているはずなのに見えていないものだってたくさんある。見ないようにしているから、かえって意識してしまうのだ。部屋の窓を開け放っていたって、ついさっきまでの空が何色だったかなんて思い出せないのだから、同じようにすればいい。そう、ただの景色。

わたしは爪を塗りつぶすことをやめ、景色を流れるにまかせた。はじめこそ、視界は色や景色の移り変わりをとらえていたが、しだいに麻痺して、その変化は「いつものこと」となっていった。

景色とともに日々が流れる。薄らいでいるのは、わたしのほうだった。意識が、肉体が、霧になってあたりに漂いだしていく。立っていても、足の裏に地を踏みしめている感覚がない。机の前に座ると、伸ばした腕からカップや卓上時計が透けて見えた。爪だけはやたらぴかぴかして、世界の様子を映し続けていた。

そうして黄昏どきに川べりを歩いていると、爪はほろほろと道に落ちた。あっ、と思っているうちに風がさらって薔薇色の空に巻き上げていった。




<2025年4月17日追記>
星野廉さまが本作をご紹介くださいました。
星野廉さまはnoteで「導きの師」と仰ぐ方。言葉を通して、いつもの世界が違うふうにみえてくる面白さを教えてくださいます。
本作は、ご投稿「文字の振りをした文字」など、「うつす・うつる」に関するご考察と響きあうような内容でもあります。それだけにいっそう「今日の注目記事」への登録を喜んでいただけたことをうれしく感じました。

廉さま、いつもあたたかく見守ってくださり、ありがとうございます!


<2025年5月10日追記>
山田星彦さまが、ご自身の取組み「Tip&Share」で本作をご紹介くださいました。
山田星彦さまは、文学のみならず写真やファッション、おいしいものについても詳しい方。真似のできない切り口に、いつも刺激をいただいています。日常できらりと光るものに目を向けることが、良い創作活動につながっていくのでしょうね。「Tip&Share」もクリエイターの結び目になるような応援が素敵です。解説そのものが魅力的なのでぜひご覧いただきたいです。

星彦さん、励みになる応援をありがとうございます!




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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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