自己紹介 | 48歳主婦→会社員 | 50代 | ADHD | インハウスデザイナー | 広報 | ライター | CADオペ | INFP | 希少がん | 生き直し | コーチング
保育園の前で泣き崩れたあの日。
「駄目な人間」だと思い込んでいた私におりた ADHD の診断。
希少がんと夫の失職を経て 48 歳で再就職し、
いま 50 代の私は “コーチング” という道に辿り着きました。
この記事であなたに伝えたいのは、
自己イメージこそが最大の壁であり、
それを書き換えた瞬間、人は変わり始めるということです。

こんにちは、あるいははじめまして。
永野ヨウです。
母に言わせれば、私は神童だったそうです。
よちよち歩きの頃から文字に興味を持ち、
絵本を音読して、大人を驚かせたといいます。
でも、成長すればただの人。
ただの人どころか──むしろ駄目な人。
学生のころから、どこか生きづらさがありました。
集中の波が激しく、授業中は上の空。
忘れ物と遅刻ばかりで、先生は苦い顔。
頭の中にはとめどなく文章が流れているのに、
友達とのおしゃべりは苦手。
でも、活字を見ていると落ち着ける。
そんな自分を、私はずっと「駄目な人間」だと思い込んでいました。
「変わった子」だった私ですが、
やがて絵を描くことで友達ができ、
表現を通して人とつながる喜びを知りました。
美大進学を断念せざるを得なかったけれど、
自主制作で認められて、ゲーム業界へ。
学歴はなくとも、腕で認められた。
300万本売れたゲームの
スタッフロールに名前が刻まれて、
雑誌にも載ったりもしました。
なんだか、夢みたいですね。
でも、長くは続きませんでした。
華やかに見える世界ですが、
ゲーム制作は職人の世界です。
スキルの至らなさに自信をなくし
静かにすり減っていた私は、
うつ病による休職から復帰できず、離職。
26歳。
同時に職場の先輩であった人と籍を入れたので
一見「結婚退職」にも見えるのですが、
実のところは、会社に行けなくなったんです。
やがてパニック障害も併発し、半引きこもりに。
その後の長い「専業主婦」の生活では、
「何者にもなれない自分」
「夢を手に入れたのに、手放した自分」を
ずっと責め続けていました。
10年以上、長いトンネルの中にいました。
二度の流産を経験しました。
どうやら私は「母親」にすらなれない。
それは、そうかもしれない。
こんな弱い人間が、子どもを欲しいなんて、分不相応だもの。
もう、期待しないほうが楽でした。
何かを望めば、また失う。
それなら最初から、何も欲しがらないほうがいい。
そんなふうに、心のほうを先に閉じてしまっていたのです。
淡々と日々を過ごして、38歳。
諦めた頃に、娘を授かりました。
ちいさな手のひらが私の小指を握ったとき、
決意しました。
駄目な私だけど、やり直さなければ。
だって私は、この子の「お母さん」だから。
ですが、育児もまた試練でした。
娘は「寝ない子」で、夜泣きのたびに深夜を歩き、
日中は寝不足の頭で公園へ連れていき、
それでもうまくいかず、焦りと孤独だけが募る日々。
ある日、保育園の前を通りかかったとき、
金網越しに見えた子どもたちの笑い声が、
胸の奥のどこかを決壊させました。
3 歳の娘の手を握ったまま、
涙がぽろぽろ落ちて止まりませんでした。
「私がちゃんと働けていたら……
さっちゃんもここで笑えていたのに。
ごめんね。
私が駄目だから、まともに働けもしない。」
自分を責め続けたあの日、
私は、先の見えない迷路の中にいました。

でも──今振り返ると、あれはおかしな話です。
娘本人は、保育園に行きたがったわけではなかった。
あの日、私が泣いた理由はただ一つ。
私は、ひとりになりたかったんですよね。
密室育児に近い状態で、
娘を心から愛しているのに、息が詰まりそうに苦しかった。
「ひとりになりたい」と思うことに、
罪悪感を抱えていました。
外で働くママたちが眩しく見えて、
「働けない自分」は欠陥だと信じ込んでいたのです。
時は流れ翌年、娘は幼稚園に。
ついに、ひとりの時間を得ることができました。
ところが何故かとれない疲労。
慢性的な頭痛。不眠と抑うつ。
再び精神科を訪れることになりました。
娘の発達への不安をこぼしたとき、
お医者様に言われた言葉。
「お母さん、あなたも診断を受けてみませんか。」
大人の発達障害。
存在は知っていましたが、まさか自分はと。
良くも悪くも、特別なはずがない。
だって私は単にだらしなくて、駄目なだけで──
ですが、結果は驚くべきものでした。
ADHD+軽度 ASD の併発、
言語性と知覚統合が優位、ただし作動記憶が弱い。
凸凹が大きく、全検査IQは122 。
「CPU は速いのに、メモリが少ないPCのような脳の状態」と説明され、
長い迷路だった人生が一本につながる音がしました。
私は“駄目”なのではなく、
こういう脳で生きていただけだった。
前提が書き換わると、人は変わります。
行動が変わり、日常が変わり、
未来のほうがこちらへ歩み寄ってくる。
ADHDの特性をおさえる薬を飲むと、
慌ただしい脳内に涼しい風が吹く。
落ち着いて、必要なことを選択し、向き合える。
不思議な感覚を得られました。
まずは、土日のパートから。
久しぶりに、自分で稼いだお金は
ささやかな額ですが、嬉しかったです。
やがて自信がついて、平日のパートへ。
少しずつ、リズムができてきました。
そんな矢先です。
人生初めての人間ドックで、
「膵神経内分泌腫瘍」が発覚。
あのスティーブ・ジョブズも罹患した希少がん。
「でも、腫瘍っていっても良性…なんですよね?」
お医者様は言葉を濁しました。
10時間に及ぶ手術、1 ヶ月の入院。
死ぬかもしれないと覚悟した夏の夜、43歳。
これもひとつのターニングポイントでした。
幸い、転移はありませんでした。
早期発見されなかったら、どうなっていたか。
膵臓の半分・十二指腸・胆嚢を失ったけど、
人間ドックに行こうと思わなければ、
気づかずに進行していたら、危なかった。
私は運が良かった。
何かに生かされてるんだ。
そう感じた時、またひとつ自己イメージの
書き換えが起きたのだと思います。
まだ、試練は続きます。
2019年10月、夫の勤めていた会社が倒産。
彼の再就職が難航する中.
世界はコロナ禍に突入。
失職した夫、スーパーのレジ係の妻。
「それなら、私が結果を出してみせる」
啖呵を切って、職業訓練校へ。
48歳の就活は一筋縄ではいきませんでした。
それでもついにCAD オペレーターとして正社員に採用された、
2021年12月。
そこからの4年は、思いがけない展開の連続でした。
はじめはCAD だけだった私が、
PhotoshopとIllustrtorが使えることから
社内デザイナーとして抜擢され、
広報として文章を紡ぎ、
Access でデータベースを構築し、
社外プレゼンも任されるように。
あの日から、約10年。
かつて保育園の前で泣き崩れていた私が、
いまは複数の役割を生きています。
その原動力になったのは──
自己イメージを変革することで、人は変われる
という確信です。
だから私は今、コーチングを学び始めました。
行動が続かない理由。
変わりたいのに戻ってしまう仕組み。
そして “前提が変わる瞬間” に起きる変化。
この note では、
ADHD 脳との付き合い方、
40・50 代のキャリア再構築、
自己イメージの書き換え、
そしてコーチングの学びと気づきを発信していきます。
もし今、
「もう遅い」「私には無理だ」と感じているなら、
どうか覚えていてください。
人生は、何度でも立て直せます。
あなたの物語も、ここから動き出せる。
いまはまだ暗闇の途中でも、
その先へ向かう灯りは必ず見つかります。
私はその証明として、ここにいます。
あなたの声も、聞かせてください。
2025.12 永野ヨウ

読んでくださって、ありがとうございました。
どこか一行でも心に触れたなら、スキやコメントをいただけると、
これからの発信を続けていく灯りになります。
フォローしていただければ、またあなたにお会いできます。
実は、このnoteは2度目の自己紹介です。
もうひとつのアカウントでは、クアラルンプールとマレーシアに住んでいた頃の話から、長い迂回の末にいまどう生きているかを書いています。
▼次に読むなら
2本目のnoteは、大人のADHDが抱える静かな苦しみについて書きました。
Xもやっています。ぜひフォローして、声をかけてくださいね。
人生は、何度でも立て直せる。
— 永野ヨウ (@nagano_yoh) December 7, 2025
そう本気で思えたのは、ずっと「駄目な人間」だと信じ込んでいた自分の“前提”を書き換えたからでした。
ADHD、希少がん、48歳の再就職。
私の生き直しの記録を、noteに綴りました。
ぜひ、読んでください。https://t.co/mEu1T0c0c7
また次のnoteで、お会いできたらうれしいです。
