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自己紹介 | 50年分の遠回り

はじめまして、永野ヨウです。
「書くこと × 生きること」を軸に、
日々の出来事や気づきを
言葉やビジュアルで表現しています。

表現は私にとって、生きることそのものです。
文章も、絵やデザインも。
AIと対話しながらイメージを形にすることも、
私の「生きること」の一部です。

表現は手段ですが、
気づけば目的そのものにもなっていました。


幼少期、海の向こうで

1973年生まれの団塊ジュニア。
物心ついた頃には、
私はすでに海の向こうにいました。

幼稚園の時に父の仕事でシンガポールに渡り、
南の国の青い空と鮮やかな緑の中で育ちました。

ご近所さんは皆、外国語を話します。
引っ込み思案だった私は、
本を読み、絵を描き、ぬいぐるみと会話して
ひとりの世界をつくっていました。

やがてシンガポール日本人学校に入学。
北海道から沖縄まで、
日本各地から子どもたちが集まっていて、
多様なイントネーションや文化に触れました。

内向的な私は、
休み時間はよく図書館にこもっていました。

暮らしの中には、南国ならではの
鮮やかな思い出もあります。

ドリアンの強烈な匂いに驚いて
部屋に逃げ込んだこと。
家に中国人のメイドさんがいたこと。
自転車の練習中に、道路を横切ったイグアナ。
裏庭で見つけたカメレオン。

本の世界に没頭しながらも、
現実の暮らしそのものが物語のようでした。


帰国子女、そして表現の扉

やがて、日本に帰国しました。
突然のことで、子どもの私はただ
生活環境の一変に戸惑うばかりでした。

空の色は南国の明るさから一変し、
季節は秋から冬へ。

「帰国子女」として物珍しがられる一方で、
人付き合いがよくわからず、
どこかぼんやりしていた私は
「変わった子」として扱われました。

ますます内向きになっていきました。
けれど、ある日小さな転機が訪れます。

にぎやかな教室の片隅で、
ひとり絵を描いていたときのこと。
「うまいね!」と声をかけてもらえたのです。

そのひと言がきっかけで、
少しずつ友達ができました。

やがて、読書感想文が先生に認められたことで、
「言葉」もまた誰かに届くのだと知りました。

引っ込み思案の私にとって
「表現」は人とつながるための
最初の扉だったのです。



南十字星の見える場所

帰国して2年、日本の生活に慣れた頃、
マレーシアの首都クアラルンプールに渡りました。

日本人学校で使われる教科書は
日本と同じもの。

だけどそこに書かれている
「日の出と日の入り」と、
私が目にする太陽の動きは、違っていました。

お昼には、太陽が真上にのぼる。
なるほど、私はいま赤道のすぐ近くにいるのか。

頭ではわかっていることが実体験とつながる、
小さな驚きでした。

そして夜。見上げれば、南十字星が輝いています。

「私は日本から遠く離れた場所にいるんだ」

星空を見て、それを深く実感しました。
知識と体験は、空でつながりました。

クアラルンプールでの思い出は、
別記事でも綴っています。


帰国、歌とパソコンと絵の具

帰国したのは、小6のとき。
帰国子女枠で、
国立大学附属の中学校に進学しました。

合唱コンクールでは関東大会に出場し、
NHKに映ったこともあります。

声を合わせる瞬間、
自分が音楽の一部になる。
鳥肌が立つ感覚を覚えました。

父のノートPCの使用を許された私は、
簡単なプログラミングやCG制作に
夢中になりました。

受験対策のテキストを開く同級生の横で、
MS-DOSコマンドのページを
夢中になってめくる、
一風変わった女の子でした。

高校では美術に打ち込み、
油絵で自画像を描きました。
これは未完のままなのですが、
今見てもぞっとするほど似ています。

美大を目指して予備校に通い、
デッサンと油絵に打ち込みましたが、
学費の問題で断念。

なかば妥協で文学部を選びましたが、
続かず中退。

友人の縁で、小さなゲーム制作会社で
アルバイトを始めたものの、
会社が傾いて給与未払いに。
両親にも相談できず、不安な日々を過ごします。

20歳、先がわからない暗黒期でした。

そんな挫折を味わいながらも数社を経て、
私はある有名なゲームメーカーに
就職することができたのです。

ゲーム制作の現場、仲間と見つめたエンドロール

その会社は、大作RPGで知られるメーカー。
私は3Dモデル制作と、
のちにモーションデザインを担当しました。

追い込みの時期には深夜まで作業を続け、
フロア総出のデバッグにも関わりました。

そして迎えたマスターアップ。
制作スタッフが大部屋に集まり、
大画面のプロジェクターに映し出される
ラストバトルを見守りました。

ラスボスのモーションはチーム皆の合作。
私もそこに携わっています。

死闘の末、ラスボスが倒れた瞬間。
100人を超えるスタッフから拍手が上がります。

スクリーンに流れるエンドロールを見つめ、
自分の名前を見つけた時、
目頭が熱くなりました。

けれど、その達成感の裏で、
私は静かに燃え尽きていました。

次のプロジェクトでも引き続き
モーションデザイナーとして勤めながらも、
自身のスキルの至らなさに、悩んでいました。

仕事に行くのが辛いと感じ始めました。
痛みを忘れるために、
インターネットに没頭する日々。
モニターの向こうに朝日が差し込み、はっとする。

「あ、ダメだ」

ある日の仕事中、ビルのロビーに駆け降りて、
電話のプッシュボタンを押しました。
通話先は、メモしてあったメンタルクリニック。

「助けてください」

映像作品なら、ここで暗転です。



時は流れて、今の私

──2025年。
私は13歳の娘を育てるワーキングマザーとして、
家とオフィスを往復しています。

CADオペレーターとして働きながら、
いまは社内デザイナー兼Web担当が主体です。

時にはプレゼンを担当しますが、
まだ緊張のあまり早口になりがちです。

苦笑いで指摘されますが、
「でも、声はいいです。聴きやすいですよ」
と言っていただけています。

合唱部で鍛えた発声が、
ここで生きているのかもしれません。

夫は、当時の先輩だった人。
あのロビーで震えながら電話をした日から、
長い年月が経ちました。

私はどのように立ち上がり、
歩き始めることができたのか。
それは、これから少しずつ書き記していければと思います。


結び、いまだ道半ば

表現することは、
私にとって生きることそのものです。
文章も、絵も、デザインも。

活動の手段でありながら、
気づけば目的になっていました。
私は「表現する人」を愛しています。

半世紀以上の、遠回りな道を経て、
私はいまここに立っています。
目の前にはまたいくつかの分かれ道。
私はまた、どこに進むかを思案しています。

ここで、あなたと出会えたことに感謝します。
そしてまた、別のnoteでも
お会いできることを、心から願っています。

永野ヨウ


▼ note1周年によせた、新しい自己紹介はこちら。


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