映画監督30周年、思い出の撮影ベスト5! あなたの夢も叶う。
夢は、叶ったときよりも、叶うまでの時間のほうが長い。
中学生の頃、レンタルビデオ店で夢中になって借りた洋画の数々。ノートに書いたメモや、短い小説。
文章はやがて脚本になり、私はカメラを持ち、仲間と出会い、海を渡りました。
思いどおりにならない日も、何度も映画をやめようと思った夜もありました。それでも、物語をつくることだけは手放しませんでした。
そして今、私は父になり、創作を始めて30年を迎えました。
振り返れば、そこには失敗や遠回りしたこと、命がけの撮影、思いがけない出会い、そして奇跡のような出来事がありました。
今回は、その30年間の中から、胸の奥で光り続ける「思い出の撮影ベスト5」を紹介します。
読み終えた頃、あなたの心の奥にしまっていた夢も、もう一度動き始めるかもしれません。
祝 創作活動30周年、メモリアル・ベスト5 !
🍀 第5位
見えない応援のパワー
環境問題をテーマに、キツネをモチーフに描いた短編映画『千里翔べ』(2016年)。この作品をつくるため、私は2015年、初めてクラウドファンディングに挑戦しました。
当時は、クラウドファンディングという仕組みが、今ほど世の中に浸透していない時代でした。友人の多くから、「やめた方がいい」と止められました。
目標金額は120万円。
「見ず知らずの私たちの自主制作映画を、支援してくれる人などいるのだろうか……」そんな不安を抱えながら、企画はスタートしました。
ところが、ふたを開けてみると、全国から約170万円ものご支援が集まりました!
会ったこともない。名前も顔も知らない。
そんな誰かが、私たちの “挑戦” に思いを託してくれたのです。
ある企業の方から寄付のご連絡をいただいたときのことは、今も忘れられません。お礼の電話をしながら涙があふれ、言葉になりませんでした。
映画の物語とは別のところで、毎日のように小さな奇跡が起きていました。
あのとき感じたのは、《人の善意は、誰かが前へ進むための勇気になる》という確かな事実。それは、今もずっと私の創作の支えになっています。
映画は無事に完成し、複数のインディーズ映画祭で上映され、奨励賞をいただきました。
その後、ECOMO交通バリアフリー研究・活動助成のプロジェクトでブルーレイも制作。売上の一部は、さまざまな団体への寄付に充てています。
クラファンの経験があったから、私もまた誰かの力になりたいとチャリティー活動を続けています。
応援してくださった、すべての皆さまへ。
あらためて、心からありがとうございます。

短編映画『千里翔べ』予告篇
♿️ 第4位
痛みを物語に変えた日
東日本大震災の直後。
防災グッズを買いに、脳性麻痺のある利用者さんとデパートへ向かいました。優先エレベーターの前には健常者の長い列。
電動車いすに乗った利用者さんと介助者の私は、何度エレベーターが来ても乗れず、譲られることも、声をかけられることもありませんでした。みんな我先にと他者のことなど考える余裕もなかったのでしょう。
冷たい視線だけが刺さるように感じ、周りから取り残されていく疎外感を、今も忘れられません。
メディアでは “被災地での助け合い” が繰り返し報じられていた頃。その同じ国の首都で、障がいのある方とこんな思いをするなんて──
“思いやり” という言葉を、信じられなくなりそうな体験でした。
「この現実を、物語にしなければ」その衝動から生まれたのが、短編映画『上にまいります』(2012年)です。
作品はインディーズ映画祭でグランプリや審査員特別賞を受賞し、講演会の依頼やテレビ出演、新聞掲載へと広がっていきました。
何より心に残っているのは、障がい当事者の方々やヘルパー仲間から届いた、「言いたかったことを代わりに伝えてくれて、ありがとう」という多くの言葉でした。これはトロフィーよりも重く、嬉しかった。
ちょうどその頃、私は介護福祉士の国家試験に合格しました。現場を知り、当事者の声を聴き、その痛みを物語として届けたい。創作に対する自分の姿勢が、この作品によってはっきり形になったのです。
後に短編映画『上にまいります』は、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会に向けたボランティア研修動画として、各地の自治体で上映され、“心のバリアフリー” を学ぶ教材へと育っていきました。
完成から10年たった、2022年にも都内で私の講演会と上映は続いて、「10年前と今とでは街のバリアフリーはどう変わりましたか?」と問いかけながら、答え合わせができる映像にまで発展しました。
「当事者の痛みに共感し、それを物語にして社会へ届ける」小説を書いている今も、この軸は同じです。

短編映画『上にまいります』ミュージックビデオ
🇭🇰 第3位
夢の香港映画
日本映画学校(現・日本映画大学)を卒業したばかりの頃、同じゼミだった山本さんからかかってきた一本の電話が、私の運命を動かしました。
「今度、日本ロケの香港映画があるんだけど、制作スタッフとして手伝ってくれない?」
当時、私はジャッキーズ・キッチン渋谷店で夜勤のアルバイトをしていました。仕事を終え、眠気まなこで電話に出たことを、今もはっきり覚えています。
小学生の頃から香港映画が大好きだった私にとって、夢のような誘いでした。その作品は、アンディ・ラウさん主演の香港映画『ダイエット・ラブ|痩身男女』(2001年)。初めての商業映画であり、初めて参加する海外作品の現場でした。
撮影中、メイキングを担当していたウォン・ジンポーさんと親しくなりました。彼が使っていたカメラは当時、私も自主映画の撮影で愛用していたSONYのビデオカメラ。機材の話をきっかけに距離が縮まり、メイキング映像を少しだけ撮らせてもらいました。
私は香港映画のビデオを繰り返し観ながら、広東語を独学していました。香港スタッフに積極的に広東語で話しかけ、ジャッキー・チェンさんの名曲『明明白白我的心』を歌うと、「本当は香港人でしょう?」と驚かれました。
中学生の頃は、教室で広東語のクイズを出し、クラスメイトからオタク扱いされていた私。その熱意が、やがて国境を越えて人とつながる力になったのです。
ただし、撮影は想像以上に過酷でした。徹夜が続き、ロケの移動中には、機材車の荷台で大道具の隙間に挟まれ、立ったまま仮眠をとったこともあります。
撮影当日の朝になって、その日に撮る台詞が決まり、メモのように書かれた紙を近くのコンビニで主要スタッフ分コピーしたこともありました。
「アンディ・ラウさんが主演する映画でさえ、こんなふうに撮るのか」
呆気にとられながらも、その場の変化に対応し、映画をエネルギッシュに前へ進めていく香港スタッフの俊敏さと柔軟性を、体で学びました。
撮影後、ウォン・ジンポーさんとはEメールで連絡を取り合うようになりました。まだSNSのない時代です。
そして翌年、私は香港へ呼ばれました。
監督はウォン・ジンポー。主演は私。

その後、アンディ・ラウさん主演の『ベルベット・レイン』(2004年)のポストプロダクションにも参加。ウォン・カーワァイさんの編集を手掛けるスタッフを紹介されたり、エリック・ツァンさんとご飯を食べたりと毎日が興奮と学びに満ちていました。
夢が現実になるとき、そこには自分の努力だけでなく、誰かが差し出してくれた一本の橋があります。私にとってその橋は、山本さんからの電話でした。
私が香港映画を大好きだったことを覚えていて、声をかけてくれた山本さんへ。あらためて、心から感謝しています。現在、彼は日本映画界でラインプロデューサーとして活躍しています。
🐺 第2位
ゴビ砂漠、生死の境で
日本映画学校の学生だった20歳の頃。モンゴルロケで訪れたゴビ砂漠には、どこまでも地平線が続いていました。真冬の気温はマイナス40度。夜は満月の光だけが頼りという、まさに未知の世界でした。
ウランバートルからゴビ砂漠のゲルへ向かう際、運転を任せたのは、現地で紹介されたロシア人の男性でした。車に乗っていたのは、そのドライバーと、同じゼミの友人、そして私の3人。初対面で言葉も十分に通じず、正直なところ不安もありましたが、ほかに頼れる人はいませんでした。
そして深夜、車がガス欠になり、私たちは広大なゴビ砂漠の真ん中に取り残されました。
風のない夜。音もない夜。
月の光だけが、大地を青白く照らしていました。
しばらくすると、遠くで何者かの影が動き始めました。
嫌な予感...…。
気づけば10匹ほどのオオカミに囲まれていました。
車体に当たる爪の「ガリ、ガリ…...」という音。ドア越しに伝わる低い唸り声。胸の奥が凍りつき、「ああ、ここで人生が終わるのか」と思った瞬間でした。
目を閉じながら、もし生きて帰れたら、本当にやりたいことだけをやって、後悔のないよう生きよう。そう心の奥底で、静かに決めました。
長い長い祈りの夜が明け、朝日とともにオオカミの群れは丘の向こうへ去っていきました。その隙にドライバーさんがゲルへ走り、助けを連れて戻ってきてくれました。
ゲルに案内され、温かいミルクティーを飲み、羊の肉を食べさせてもらったとき、生きていることを実感しました。
あの満月の夜は、“死” と向き合った、人生で初めての瞬間でした。
見渡す限りの美しい地平線は、一歩間違えれば、逃げ場のない極寒の大地でもある。光と影が背中合わせに存在することを、若いうちに体感できた。それは、大きな財産となっています。

🌟 第1位
憧れのジャッキー・チェンさん
すべての始まりは、小学生の頃に観たジャッキー・チェンさんの映画でした。
テレビやビデオ、映画館で何度も夢中になって観ました。いつしか私は、映画を観る側ではなく、自分でも作ってみたいと思うようになっていました。
高校2年生のとき、見よう見まねで、クラスメートと自主制作のアクション映画『ピース・オブ・ドラゴン 〜大騒動〜』(1996年)を撮り始めました。
ところが撮影中、校舎の2階から飛び降りる危険なシーンで脚を骨折。3か月の入院生活を送ることになり、学校中の笑い者になりました。
それでも、映画作りをやめようとは思いませんでした。
退院後は、松葉杖をついたまま保健室や図書室を借りて撮影を続行。ついには校長先生まで特別出演することになりました。気づけば、学校中を巻き込みながら一本の映画を完成させていました。

もちろん、最初から周りが協力してくれたわけではありません。
両親には反対され、友達も恥ずかしがったり、ふざけたりしていました。それでも私は、「真剣に映画を作りたいんだ!」と大泣きしながら頼みました。
私が最初の一本を完成させられたのは、ビデオカメラを買ってくれた両親と、最後まで撮影に付き合ってくれた友達のおかげです。
完成した映画は、ジャッキー・チェンさんにも観てもらいたいと思いました。ファンクラブに入会し、香港で開催されたパーティーへ参加。本人に直接、ビデオテープを渡すことができました。
17歳の私には、映画の作り方も、監督になる方法も分かりませんでした。
ただ、動きました。
夢に向かって動きながら考える。最初から正解を知っていたわけではありません。それでも一歩を踏み出したことで、友達が協力し、校長先生が認め、学校まで動きました。
現在、私はアクション映画を撮っていません。それでも、ジャッキーさんから受け取った行動力とチャリティー精神は、今も自分の中にあります。
病室で将来をゆっくり考えたあの3か月。
この時間が私の人生の土台となり、日本映画学校へ進む道を切り開いてくれました。

🎬 予告
映画監督になる方法
映画を作りたいと思っても、「何から始めればいいのか分からない」という方は多いと思います。
そこで次回から、有料シリーズ『映画監督になる方法』を始めます。
映画作りを始めて30年。これまでの成功だけでなく、遠回りや失敗も振り返りながら、初めての方でも実践しやすい形に整理してお伝えします。
シリーズは全10回を予定しています。
1記事は約5,000字、価格は500円。無料部分では、映画を作りたいのに動けない気持ちや、私自身の体験を中心に書きます。
有料部分では、企画、脚本、仲間集め、撮影準備、演出、録音、編集、スチール、映画祭への応募、作品の届け方まで、具体的な事例を交えながら解説します。
各記事の最後には、その日から実践できる3つの宿題《アクションプラス》を用意します。
このシリーズが目指すのは、最初から全国の映画館で公開される大作ではありません。
まずは身近な人たちと一本の作品を完成させ、インディーズ映画祭へ応募できるところまで進むことです。
私自身、自主制作映画から映画祭での受賞、テレビや新聞での紹介、講演会での上映へと活動が広がっていきました。
一本の映画は、完成した瞬間から、自分を紹介する名刺になります。
しかも今は、スマートフォンやSNS、クラウドファンディング、AIもあります。仲間と出会い、資金を集め、作品を発表する方法は、30年前よりも大きく変わりました。
けれど、道具や媒体が増えても、映画を完成させるには順番があります。その土台を、一つずつ一緒に作っていきます。
学生の方。映画や映像制作を学んでいる方。仕事や家事、育児の合間に、いつか映画を撮りたいと思っている方。年齢や経験は問いません。
仲間と喜怒哀楽を分かち合いながら完成させた一本の映画は、あなたの未来を変えるかもしれません。
その物語が、誰かの心や社会を、ほんの少し動かす作品になることもあります。
次は、あなたが映画を作る番です。
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以前の記事の冒頭でお伝えした、創作活動30年のヒストリーは以下のリンクから読むことができます↓
📣 お知らせ
■介護福祉士の堀河洋平監督短編集・上にまいります/千里翔べ ブルーレイ
2025年、堀河洋平の創作活動30周年&短編映画『千里翔べ』完成10周年記念を祝して、50%OFFキャンペーン💿(5,280円→2,640円)
あなたのとなりにいる人に、やさしくなれる映画です。
※ 2027年11月31日まで、BASEにて販売予定 ↓
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■映画やシナリオをBASEで販売しています。創作活動の《応援代》としてご購入いただけましたら幸いです ↓
■堀河洋平の各公式リンク ↓
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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余談:1995年8月から自主制作映画を撮り始めました。なので2025年7月に映画監督として30周年を迎えています。昨年の夏、noteに書いた下書きを清書して、31周年記念に投稿しました。1年寝かせた記事です。
(まだまだ下書きに保存してあるエッセイなどの記事がたくさんあります……)
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