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参考書籍覚書(2005~8)(下)

(承前)

いわゆるアンソロジーとしては、上述の「音楽の手帖 マーラー」(青土社、品切)はアドルノもあれば、 テオドール・ライク(精神分析)もブーレーズもバーンスタインもあり、ワルターやクレンペラーの回想も あれば、シェーンベルクの講演もありという、今思うと錚々たる著者によるもので、現在でも(録音の 紹介などは歴史的な記録になってしまうかもしれないが、それはそれで別の意味で貴重だろうし、) 充分に価値があるものだと思う。復刻が望まれる。強いて難を言えば、翻訳は実は部分訳であるものが 多いのに、それと断っていない場合がままあること、日本人の手になる文章、とりわけ書き下ろしの中には、 恐らくは時間に追われて書いたのではないかと想像したくなるようなものが含まれることだろうか。 いわゆるコラム的なものであればさほど気にはならないが、一見、解説論文的な体裁をとっているものの 場合には、情報の提供という点で一定の価値はあっても、著者の所説の展開についてはちょっとついて いけないと感じられるものもある。

一つだけ例を挙げれば、それ自体は大変に刺激的なハンス・マイヤーの論文を 下敷きにした深田論文は、著者の論理を追って細かく読むと不可解な部分が多い上、マイヤーの 所説の切り取り方も大胆なもので、この文章だけ読むとマイヤーの主張が持つニュアンスを誤解しかねない ように思われる。無論、そうした切り取り方自体は別段批難されるべきものではないが、マイヤーの主張に 大幅に依拠しつつ論を進めながら、「簒奪者」という規定の一面のみ取り上げて、「自家培養者」という 自己の主張をそれに繋げるばかりか、取りようによってはマイヤーとは正反対とも考えられる主張に、そうと断ることもなく 繋げてしまうので、マイヤーの元の主張を知るものは思わず目眩に襲われかねない。しかも その後半の「自家培養」という規定に沿って展開される議論は、私の様な文学的な想像力に欠ける人間には、 ついていくのに苦痛を覚えるほどの飛躍に富んでいて、おしまいには唐突に「徒らに生まれてきたのではない、 徒らに闘ってきたのでもない。」という一文で結ばれるのである。

恐らく文学研究の世界では、こうした飛躍が 問題にされることはないのだろうが(それどころか、もしかしたら、賞賛されるのだろうか?)、一般の読者が 読むには少々高尚過ぎるように感じられてならないのは私だけなのだろうか。そればかりか意地の悪い観方をすれば、 時間に追われて、マイヤーの所説を「簒奪し」、自分の知っている文学史上の、あるいはマーラーにまつわる事実を適当に 混ぜ合わせて、思いつき同然の連想によって文章に繋ぎ合わせただけなのでは、という疑いさえ引き起こしかねないとさえ思うのだが。

そもそもマイヤーはカフカの日記の言葉を引いて、マーラーにおける音楽と文学との関係が19世紀の典型に 従った心理学的なものだったといっているのか、そうではなくて、そこに表現主義の先駆となる心理学の否定の 事例を見出しているのか、どっちなのだろうか? あるいはまた、恐らくそのことと全く無関係ではないのだろうが、 「大地の歌」では、文学だけでなく、音楽の面でも自家培養がなされているという主張を、突然何の説明もなく、傍証もなく つきつけられて納得できなければいけないのだろうか。 情けないことだが、音楽における「自家培養」ということで深田が指しているもの が何なのか、私には全くわからないことを白状せざるをえない。 

更にまた、いわゆる付加6の和音で終結するその末尾を、何の補足もなく 「大地としがらみをなす調性から」の「解放」と言われて納得しなくてはならないのか? マーラーのエロスを主題とした 書簡を取り上げて、「これをゲーテ流の汎神論と見做すことは容易だが、そのようなトラディショナリズムを撥ね つけるまなざしが獲得しているものは、エロスが愛という語に置き換えられようが、憧憬とされようが、郷愁とされようが、 事情に変わるところはない」と言われて、理解できなければならないのだろうか? 「そのようなトラディショナリズムを撥ね つけるまなざしが獲得しているもの」が一体何なのかくらい、自分で考えなさい、ということなのか? これが自家培養と どう関係するのかも、自明でわざわざ書くほどのことではないのか? そして繰り返しになるが、その後に、 「徒らに生まれてきたのではない、徒らに闘ってきたのでもない。」という一文が来て終わるのを、どう理解せよというのか。また、これは劈頭で主張されていた「エクメニカルなものへの志向」とどう関係するのか? 挙げれば切りがないのでもう止めにするが、私には残念ながらどれ一つとしてわからないのである。

まあ、時間に追われたやっつけ仕事だというのは多分、一般の読者に過ぎない自分の無能力を棚に上げた 責任転嫁なのだろうから、つくづく自分が文学とは縁の無い人間、想像力の欠如した人間であるということを 思い知らされて、嘆息するしかないのである。残念ながら、この文章の「行間」を読むことは私の能力の限界を遥かに 超えている。私にとっては、是非はおくとして、マイヤーの主張の方がはるかにわかりやすい。否、深田の文章に比べれば、アドルノのあの文章の方が まだその論理を追うことができるようにさえ感じられる。(ちなみに「音楽の手帖」には深田訳のアドルノのマーラー論の一部も 掲載されているが、既述の通りこの訳文もまた要注意である。大変にこなれた日本語になっているのだが、内容が概念的で 抽象的な部分になると、首を捻る文章につきあたることになる。だから、アドルノの文章の方がまだその論理を追うことができるというのは、 深田訳を読んでのことではない。誤解のないように念のために補足させていただく。)

一例を挙げれば、上記のようなケースのあるとはいうものの、それでもこの「音楽の手帖」の全体としての密度の高さは、 その後「マーラーブーム」の只中で編まれたムックの類に比べて、際立っているように思われる。


ブラウコプフの評伝およびアルマの回想と手紙の訳者である酒田健一が編集した「マーラー頌」 (白水社、品切)は、マーラーを巡る「証言」を網羅的に捉えることができるという点では、 更に徹底しているだろう。1890年代の同時代のものから1970年代までの、地域で見ても オーストリア・ドイツは勿論、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ロシア・ソ連にわたる73の文章の 翻訳を収めたもので、その中には貴重な証言、重要な論文が数多く含まれる。

私は現時点では色々な演奏の聴き比べにはあまり関心がなく、数多く存在する熱心な聴き手のページで 公開されているような的確な評を読めればそれで充分であると思っているので、職業的な音楽評論家の書いた 演奏評(LP・CD評含む)にはあまり関心がなく、それゆえ存在を知りながらも素通りしてきたところで、 そうしたWebページの一つで好意的に評価されていたのを見たのがきっかけで手にとり、一読して、 これは読んでみてよかったと感じたのは、「吉田秀和作曲家論集1 ブルックナー・マーラー」(音楽之友社, 2001)である。

といっても私が感銘を受けたのは、やはり個別の演奏評(LP・CD評)の部分ではなく、むしろ最初におかれた50ページを超えるマーラー論 とでもいうべき文章で、これが1973年~74年に書かれていたということに驚くとともに、この文章に言及している文献というのに心当たりが ないことを些か訝しくさえ感じた。(もっとも、これは私が不勉強なだけなのだと思うが。もしご存知の方がいらっしゃれば 教えていただければ幸いである。)

音楽学者ではなく音楽評論家の文章であるとはいっても、では、私のような市井の愛好家が入手できる範囲で、これだけ音楽自体に 踏み込み、音楽史やマーラーその人の個性にも配慮したものがあったかといえば、あまり記憶にないように思う。 更に(この点は特に素晴らしいと思ったのだが)、自分のマーラー受容の「立ち位置」を明確に意識して書かれたものは更に少ないように思う。 受容史を主題的に論じるのは別に、自分の個人的な距離感を自覚し、はっきりとそう語りつつ、それでいて自分の マーラー経験に対して忠実であろうとする姿勢が感じられて、私には新鮮で、かつ親近感を抱いた。
(逆に音楽学者のものや、あるいは文学研究者としてマーラーにアプローチするケースの方が、その時期の音楽学者の世界の トレンドや、自分の文学における研究領域や関心という前提に対してに無自覚―もしかしたら自覚的で、でもそうとは言わずに 黙っているだけかも知れないが―に従っているようにすら思える。)

勿論、世代の差もあって、私は吉田に比べれば、ずっと抵抗無くマーラーを受け入れてしまった。 (実は自分の体質にそんなに親和的なものではなかったはずなのに、抵抗がなさ過ぎて、「まるのみ」 してしまったせいで、今になって苦労している感じすらあるが、、、)けれども、それだけに、こんなにきっちりとマーラーについて考えたとは到底言えない、と、今になって感じている。愚かにも、いざ自分で 何か言おうとするまで気付かなかったのだ。(まあ吉田秀和のような高名な評論家と自分を比較しても仕方ないのだが。)

一つ難を言えば、これは無いものねだりのような気もするが、マーラーの音楽を完結し、完成したものと捉えすぎていて、 それを自分が(であってその時々の日本の「世相」なりなんなりが、ではない)どう受け止めるのか、どう生かすのかといったスタンスが 希薄な点は、やはり音楽を評論する、という立場上、仕方ないのかなとも思うけど、残念な気もする。 もっとも、マーラーが「過去」の、「異郷」の音楽であることも、その音楽が非常に高い価値を持つものであることも、 はっきりしているわけで、そうした距離を踏まえ、作品の価値に敬意を持って接するのであれば、そうなって当然ではないか、と 言われれば、それはその通りなのだが。(この文脈では音楽学者には―音楽に対するアプローチの点で―一般論としてはほとんど期待できず(職業としてやっている んだから当然なわけで、これは勿論非難ではない)、寧ろ、作曲家や演奏家、あるいは―文学研究者ではなく― 文学者や画家といった人たちの言うことに耳を傾けるべきなのかも知れない。 もっとも、吉田にとってマーラーが占める位置の方が、今度は必ずしも中心的ではないかも知れないことを考えれば、 これもまた、あまりにマーラーに偏した意見なのかも知れないが。)

それでもなお、よくわからないながら、強い力によってひきつけるマーラーの音楽が、吉田個人にとって何だったのか、もう一度、 ―個別の演奏評やCD評ではなく、できれば一般的な「評論」の枠すら外して―話を聴いてみたい気がしてならない。個人的な好みで言えば、同じマーラー論でシェーンベルクの講演とそこでの分析が中心的に取り上げられている点が、 何と言っても気に入っている。(この講演は何といっても群を抜いて素晴らしいものだと思う。)また、私はバルビローリ贔屓なので、バルビローリの第9交響曲の演奏についての文章は、やはり興味深いものだったし、共感する 部分も多々あった。更に、「マーラーの歌」「菩提樹の花の香り」は、マーラーの歌曲を 交響曲と同じだけ大事に考えている(そして、現実には歌曲が軽視されがちなので、寧ろ歌曲にこだわりを感じている)私にとっては、 印象的な文章だった。「菩提樹の香り」が普段の生活でもつ感じについては、日本で生まれて 日本で育った私にとってはどうしようもない部分がある。これはもう何といっても「限界」としかいいようがないものだ。(仏教の世界では、菩提樹は、別のコノテーションを持っているし。もっとも、これはこれで、些か変わった角度でまたマーラーの菩提樹の イメージにもう一度接すると言えないこともないだろうが、、、)


最後に入手が可能であり、かつ新しいという観点から、村井翔「マーラー」(音楽之友社)を あげたい。かつての評伝の定型からは大きく外れ、分量や体裁を考えると際立って充実した 内容を持った著作で、読み応え充分なのだが、著者自ら記している通り、生涯にしても 楽曲解説にしても、どちらかといえば何冊目かに読んだ方が面白く読める内容であると思う。 最初の一冊として読んだらどうなのか、というのは残念ながら判断のしようがないが、 ありきたりの評伝を読むよりは、遥かに価値があると思う。

一方で、楽曲解説から第2交響曲、 第8交響曲を略してしまったことは、分量の問題や著者の立場を考えれば止むを得ないとはいえ、 最初の一冊とした場合には問題かも知れない。否、入門書としての体裁にこだわらずに言えば、 なぜその2曲が「選外」になったのかについての解説というのがあっても良いのではないかと すら思える。勿論それは嫌いな作品に対する誹謗中傷にはなりようがない。例えば興味深い 生成史を持つ第2交響曲が、何故「うまくいっていない」のかを書くのは、それなりに マーラーの音楽の特質を浮び上がらせることになると思われる。

尚、個人的には歌曲、特に 二つの連作歌曲集の重要性は交響曲に対してひけをとることはないと考えているので、 楽曲解説の選に漏れたのは残念だが、これは立場の問題であり止むを得ないだろう。ついでに言えば、ここまで充実しているのだから、参考文献についても著者の選択したリストを 拝見したかったと思う。その一部は本文や後書きから伺え、多くは我が意を得たりというように 感じているだけに、これもまた残念である。


[後記:公開にあたって] 以上は、2005年に初稿を公開し、その後2008年にかけて加筆を行っていった文章ですので、最新の情報は含まれていません。また対象は、日本語で読むことのできる書籍の一部に限定しており、全てではありませんし、海外の文献も対象から除外しています。

公開にあたり、2008年以降に出版された邦語文献を補うことも考えましたが、今、文献紹介をするのであれば、本稿執筆当時とは方針を違え、恣意的な選択を避け、更に時代を遡って、マーラー・ルネサンスの生誕100年以前の国内での受容も含めた網羅的な紹介をすべく、全面的に改稿したい考えているため、それは後日の宿題として、とりあえずは旧稿を基本的にはそのまま公開することにしたことをお断りさせて頂きます。

その一方で、2008年以降今日に至る迄には、マーラーの生誕150年(2010年)、没後100年(2011年)のアニヴァーサリーが挟まっていることを思えば、その後、特にマーラーを主題的に扱う、いわばモノグラフ的な書籍の国内での刊行がごくわずかなものに限定されることは受容史上、指摘しておきべきことに感じられます。

それには、何よりもまず、こと日本においては2011年が、東日本大震災という未曽有の災害に見舞われた年として記憶されるべきであるという事情が関わっていることは間違いないことと思われます。その一方でその期間が、バブル崩壊後の「失われた20年」、或いは更にそれを延長した「失われた30年」にあたることを思えば、マーラーの受容というのが所詮はバブルの産物としての徒花であったという側面を完全に否定することもまた、難しいのではないかというようにも感じられます。バブル景気の中、コンサートホールが次々と建設され、そのこけら落しにマーラー交響曲全曲演奏のツィクルスが次々と行われた生誕100年の時期は、書籍の出版においても未曽有の活況を呈していたことは、今日回顧すれば明らかな事に思われます。

そうした社会的・経済的状況の変化がマーラーに関する研究や文献の出版について影響していることもまた明らかなことと感じられ、ムックの類も含めて、過去の成果の焼き直しの類が多い中で、ここで補遺的に特記するとしたら、まさにその最中に東日本大震災が発生した、交響曲全曲演奏のツィクルスに因んで企画された、金聖響・玉木正之, マーラーの交響曲 (講談社現代新書), 講談社, 2011をまずは挙げることができるでしょう。豊富な周辺情報もさることながら、この著作は、実演に携わった立場からの証言が数多く鏤められている点が貴重であり、遅れて出版され、邦語での紹介も為された、Wolfgang Schaufler (hrsg.), Gustav Mahler. Dirigenten im Gespraech, Universal Edition, 2013, 英語版は、Wolfgang Schaufler (ed.), Gustav Mahler. The Conductors' Interviews: English Version, Universal Edition, 2013, 日本語訳は、ヴォルフガング シャウフラー(編), マーラーを語る: 名指揮者29人へのインタビュー, 天崎 浩二訳 , 音楽之友社, 2016 と並んで、この時期の演奏者サイドの証言として貴重なものと思われます。

評伝としては、田代櫂、「グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平」(春秋社, 2009)を挙げることができます。これは大作曲家の人と作品を紹介するシリーズという企画の枠組みの中の一冊ではない、日本人の手になる本格的な評伝としては初めて(但し、田代さんはブルックナーを始めとして評伝を幾つか書いているので、その中の一冊ではあるけれども)と言って良いもので、新しい資料に基づいた、正確で充実した内容を持つもので、かつ寧ろ小説に近い、魅力的で読み易いスタイルで書かれています。マーラーの人に興味を持つ日本語読者にとっては、本篇で紹介済の村井翔さんのものと並んで、現時点でのリファレンスとなるものですし、既に他の先行文献を手にした人にとっても新しい発見のある、一読に値するものと考えます。

国内でのマーラー研究としては、孤軍奮闘の感のある、前島良雄さんの著作が特記されます。東日本大震災の年の刊行となる、前島良雄, 「マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来」, アルファベータ, 2011 およびその3年後に刊行された 前島良雄, 「マーラーを識る 神話・伝説・俗説の呪縛を解く」, アルファベータ, 2014 です。前島さんは、フローロスのマーラー・モノグラフの第3巻(邦題は「マーラー 交響曲のすべて」)の訳者でもあり、その立場はその訳者後書きでも記されています。率直に言えば、個別の点について前島さんと見解を異にする部分もあり、また、「神話・伝説・俗説」には既にかなり前から指摘され、「呪縛」が解かれているものが少なからず含まれるように感じられもするのですが、そうした見解・認識の相違は措いて、この「失われた30年」における存在感は唯一無二のものであると考えます。

(2005.5初稿,その後2008にかけて加筆, 2025.1.8 noteにて公開)

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