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参考書籍覚書(2005~8)(中)

(承前)

評伝の類は数多いしその優劣を論じても仕方ないだろうが、いわゆる一次文献にあたる 妻のアルマによる「回想と手紙」(出会いから死別迄の期間の回想に加えて、アルマ本人宛のものを中心としたかなりの量の書簡が付されている)と書簡集(こちらはアルマ宛のもの以外からなる)、そして角笛交響曲の時代の同伴者であったバウアー=レヒナーの 回想録は、伝記的な背景を知る上では欠かすことができないだろう。ちなみに「回想と手紙」は、回想の部分のみ英語版からの重訳でも出ており、文庫化もされているが、私がかつて熱心に読んだのは白水社版の原文からの翻訳、アルマ・マーラー「グスタフ・マ-ラ- 回想と手紙」 (訳:酒田健一)である。5年ほど前に改題して復刊されたようだが、書簡にせよ回想にせよ、 これも際立って優れた訳だと思う。とかく疑惑の目をもって見られがちなアルマの回想ではあるが、 一次文献をこのような達意の訳文で読むことができるのは貴重なことだ。

書簡集は永らく未訳であったが、ようやく2008年になって、1996年版の書簡集の邦訳が登場した。(「マーラー書簡集」、訳:須永恒雄、法政大学出版局)書簡集のオリジナルはアルマが編集した1924年刊行のものだが、この邦訳の底本となっている1996年版では、アルマがしばしば恣意的に行った編集を排除してマーラーが書いたままの形態を示している他、しばしば日付の記載を欠くマーラーの書簡の日付推定に関する最新の研究成果に基づき、クロノロジカルな排列を採用していることが特記される。訳文には時折おやっと思う箇所もあるけれども、客観的な一次資料に日本語で接することのできる価値は限りなく大きく、マーラー・ブームが去った後の日本におけるマーラー関連の文献としては疑いなく最大の業績の一つだろう。

一方でバウアー=レヒナーの 回想録(「グスタフ・マーラーの思い出」訳:高野茂、音楽之友社、絶版)は現在は入手が不可能のようであるが、 こちらの再版も期待したい。特に本書はオリジナル自体の入手が困難なようでもあり、この重要な著作の 翻訳が刊行されている価値は非常に大きいのではなかろうか。また、指揮者マーラーの弟子と呼んでいい、 ワルターやクレンペラーの回想もまた、貴重なものだろう。ワルターの方はモノグラフとして出版されていて、 かつては邦訳もあった(ブルーノ・ワルター「マーラー 人と芸術」村田武雄訳、音楽之友社、絶版)し、 クレンペラーの回想は「マーラー頌」(編:酒田健一、白水社、絶版)に収められていた。更に「音楽の手帖 マーラー」(青土社)の中では 両方を読むことができた(ただし、前者は一部のみ、後者は「マーラー頌」所収のものとは別の文章)。

いわゆる評伝で私が最初に読んだのは、マイケル・ケネディがDent社の叢書のために書いた 「グスタフ・マ-ラ- その生涯と作品」(訳:中河原理。芸術現代社、絶版)であった。 バルビローリ伝の著者として有名な著者によるこの本はイギリスの読者のために書かれているから、 イギリスにおける受容やエルガーやヴォーン・ウィリアムズとの比較の記述が目立つのは当然であるが、 そのおかげで最近ようやく全貌が明らかになったバルビローリの演奏についての記述があったり、 同じくイギリス人であったデリック・クックによる第10交響曲の補筆についてのかなり詳しい記述が あったりして、少なくとも当時としては貴重な内容を含んでいた。 また、詳細な年表がついていたり、散逸した初期作品を含む作品の一覧があったりと、資料面でも 興味深いものであったと思う。
ケネディの原著は注も完備されたしっかりとした体裁のものだが、その後、1990年に第2版が出ており 大幅な加筆がなされている。2000年の再版に際しても追補がなされており、初版以降の研究の進展、 受容の展開がきちんとフォローされていて、文章の読みやすさ、入手のし易さなども含めて、 ハンディな入門書としては非常に優れたものだと思う。なお現在の出版社はオックスフォード大学 出版局である。

しかし現代的な評伝の嚆矢ということであればクルト・ブラウコプフ「マーラー 未来の同時代者」 (酒田健一訳、白水社)を落とすわけにはいかないだろう。音楽社会学者によるこの著作の特徴は、 マーラーの生涯を記述するにせよ、その後のマーラー音楽の受容を記述するにせよ、その社会的な 背景に対する考察が含まれている点であろう。こうしたアプローチは今でこそ当たり前のことのように なっているし、ことマーラーの場合には、ユダヤ人であることや文化史的な文脈との関係を重視する 立場の文献はその後多くあるのだが、この本はその先駆けのような位置にあると思う。なおかつ、 幸いなことに復刊されていて、入手することができるという点でも貴重だ。
ちなみに、私のようなそれほど熱心ではない普通の聴き手にとっては、マーラーの伝記的事実の詳細に 拘泥するような情熱も根気も持ち合わせがない。例えば上述のドナルド・ミッチェルの研究の第1巻は、 ラ・グランジュの伝記と独立に構想されたため、膨大な伝記的情報を含んでいるのだが、 かつて一読した経験では、残念ながら私にとってはそうした詳細な事実の集積と音楽との間に、 寧ろ溝を感じる結果になったのを記憶している。たとえバイアスがかかっていようとアルマの手に よって描き出された壮年のマーラーの姿の方がよほど違和感がない。もっともそれとても、時間的にも 空間的にも遠く隔たったものであるという感覚を強く持たずにはいられないのだが。そもそも マーラーのような桁外れの能力を持った人間のことなど、うまくイメージしようと思っても、 平凡な生活を送っている能力的にも平凡な人間に容易にできる話ではない、というのが偽らざる 実感である。

ちなみに、これらの評伝の多くは翻訳だが、その中にはひどく読みづらいものや、はっきりと誤訳と 断定できるものが数多く含まれるものも残念ながら含まれる。 古い文献の場合には、そもそも 原文に事実誤認が含まれる場合もあるし、アドルノのマーラー論のように原文が大変に凝った 文章で書かれている場合には仕方のない部分もあると思う。

自分でやってみればすぐにわかるが、 1冊の著作を翻訳すれば意味を取りかねる箇所が幾つか出てくるのは止むを得ないことと思われるし、 裏づけの調査にも色々な限界があるのは仕方ないことだろう。校正もれというのもなくならないもので、大意には 影響しない誤字脱字の類にけちをつけるのはあまり生産的なことではなかろう。

しかし、日本語でも入手できる先行文献に あたって確認すれば防げそうなものや、作品を実際に聴くなり、楽譜を確認すれば―それどころか作品を 聴いたことがありさえすれば―私のような素人ですら間違いようのなさそうな取り違いが夥しく含まれるものや、 そもそも日本語としてこなれておらず意味を測りかねる文章が散見されるものもあるので、注意が必要だろう。

個別の翻訳を批判するのは本意ではないので、詳しくはとりあげないが、それでも「目に余る」と感じられたものを 幾つかあげれば、ピーター・フランクリンの1987年出版の新しいマーラー伝(ピーター・フランクリン「マーラーの生涯」 宮本貞雄訳, 青土社, 1999)は、原文がかなり凝った文体を持っているとはいうものの、 思わず首を捻りたくなるような訳文が頻出する。校正不足と思しき、日本語としておかしい部分も多いが、 それだけでなく内容上の誤解も夥しく、気になるところをチェックし出すと、ほぼ毎ページ毎に見つかるような 按配である。

この著作は新しいだけに、内容上、それまでの研究の蓄積を前提とした部分が多く、それだけに 調査不足は致命的のように思われる。だがそれだけでなく、マーラーの音楽に多少とも親しんでいる人間なら そもそも思いつかない類の間違いも多く見られ、熱心なファンの方ならずとも一通りマーラーの音楽を知っている 私のような人間ですらストレスを感ぜずには読めないような訳文である。

残念ながらこの文献に関しては、 もし英語が読めるのであれば直接原著にあたることを奨めざるを得ないし、最初に読む邦語文献としては 到底薦められない。内容的には興味深い指摘も見られるだけに、非常に遺憾なことであるが。翻訳作業の 大変さを思えば批判は出来る限り避けたいと思うものの、この場合については手にとって読まれる方々の 困惑が容易に予想されるゆえ、一言言及せずにはいられなかった。一読された方であれば必ずや同意 いただけることと思い、敢えて批判的なコメントをさせていただいた次第である。
さすがにそこまでひどいケースというのは他には思いつかないが、上でも触れたワルターの著作(ブルーノ・ワルター 「マーラー:人と芸術」村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)も時折、おやっと思う部分にぶつかるので、 原文や英訳と照合すると、その多くは日本語訳の問題であることが確認できる。だがこちらはほとんどが容易に 推測がつく類の間違いであり、内容の貴重さや翻訳当時のマーラー受容の状況を考えれば、先駆的な邦訳に 取り組まれた功績を大とすべきであろう。


なかなか興味深い編集方針に基づく、クリスティアン・M・ネベハイの「ウィーン音楽地図」(白石隆生・敬子訳, 音楽之友社, 1987)の第2巻には、マーラーに関する章が含まれる。著者の専門があくまでも美術にあることが、 常とは異なった視点での記述になっていて興味深い点もあるのだが、残念ながら、恐らく原著に含まれると 思しき間違いもかなりあるので、注意が必要である。

一方、翻訳者の責に帰するべき明らかな間違いというのは あまりないが、校正もれや、一般的でない訳語の選択が散見されるほか、意味不明の訳者注―原著者が 引用しているバウアー・レヒナーの回想にある、ウィーン宮廷歌劇場での「ローエングリン」上演についての マーラーの言葉の伝聞について、その意図を推測しているようなのだが、引用された部分だけでなく、 原文の文脈を参照しさえすれば、こういう読み方はできないように思える―があるかと思えば、その一方で、短い 文章の量を思えば、かなりの割合になる明らかな原文の誤りには全く触れないというのは、方針としては 不可解に感じられる。

更に言えば、ここで触れられているのは、実は指揮者としての就任公演についてであって、 監督就任の公演ではないし、マーラーがヤーンから受け継いだ地位は普通「監督」と呼ばれており、支配人は マーラーの上司にあたる地位である。ブダペストでは監督であったと書かれているので、ウィーンにおける地位だけ支配人と するのは明らかにおかしい、といった調子である。
原書を入手して一読した限りでは、これはかなり「自由な」翻訳―それを 翻訳と呼ぶとするなら―であることがわかってきた。ここで逐一詳細を書くのは控えるが、少なくとも原文通りには訳されていないし、 事実関係では原文よりも詳しい記述が(注釈なしに)補われていることもあれば、そもそも原文には全く存在しない文章があったりという具合である。

まだ全てを照合したわけではないが、少なくとも「忠実な」翻訳でないことは確実なようだ。もっとも、訳者は著者と知己で ある旨訳者後書きに記されているから、あるいはそうしたことも了解済みでなされているのかも知れないが。

ちなみに、この本にはヴェーベルンの章もあるが、こちらも原著に含まれていたのであろうひどい間違いが何箇所かある。 もちろん原則として、翻訳者が原著の間違いについて責任を持つ必要なんかないだろうし、全ての作曲家についての 事実関係に通暁しているべきだなどと言いたいわけではない。
だが、 この本については、間違いの多くは信頼のおける文献に一つでもあたればわかる類のごく基本的なものであり、 折角音楽を専門とされている方の手によって翻訳されているのに、こうした誤りが放置されているのは些か残念な気がする。

というわけで、(まさか読者の勉強のためにそのようになっているということはないだろうが、)この本については読者が 自衛する必要があって、基本的な事実関係については、他の信頼できる文献で確認をとりながら読むべきであろう。


1980年代後半のブームの前の時点ではまだ数えるほどしかなかった日本語で読めるマーラー文献―その当時の状況は、 例えばマーラー生誕120年の1980年に刊行された上述の「音楽の手帖 マーラー」の巻末の文献表に伺える―に マーラー没後70年の1981年に加わったのが、みすず書房刊のクルシェネク/レートリヒ「グスタフ・マーラー 生涯と 作品」(和田旦訳)であった。これは、すでに翻訳のあるワルターの著作の英訳版に付けられたクルシェネクによる略伝に、 ケネディの評伝によって独立した巻を持つ以前にデント社のシリーズでマーラーを扱った巻であった、レートリヒの「ブルックナーと マーラー」の第8章から第14章をつけて1冊の本として翻訳したものである。
このような合本を編む意図については、訳者あとがきで述べられていて、確かにいずれの文章も短いながら興味深い 視点に満ちており、その意図は理解できないこともないのだが、とりわけ「楽曲解説」をなすべく部分訳されたレートリヒの 著作の扱いについては、幾つかの点で注意が必要である。

まず、レートリヒの著作のオリジナルにあたってみてすぐにわかるのは、マーラーを紹介した後半で生涯を扱った部分は 第4章で終わっていて、楽曲解説は(第8章ではなく)第5章から始まっていることである。レートリヒは個別の楽曲の解説に入る前に、 第5章でマーラーの音楽をロマン主義の系譜に位置づけ、第6章で旋律・和声・対位法の特徴を、第7章で 形式・テクスチュア・管弦楽法の特徴を譜例を交えて紹介している。訳者あとがきには、こうした事実の紹介は全くなく、 翻訳のみを読む人間(かつての私はそうだったのだが)は、レートリヒによる興味深い作品解説のいわば「総論」を 欠いたまま各論を読んでいることに気が付かない。

訳者のあとがきにある「楽曲解説」は、個別の作品の解説のことだと考えれば、こうした行為を一方的に不当だと主張することは できないかも知れないが、オリジナルを知れば、レートリヒの意図を損ねた紹介になっているのではという感覚は抑え難い。 しかも楽曲解説としてみた場合、一層興味深く、かつ、その後判明した事実による見直しの影響を受けることの少ないのは、 寧ろ「総論」の部分なのである。それゆえ、このような翻訳が編まれた意義は認められても、実現した形態には大きな不満が残る。

更に言うと、この翻訳の日本語はこなれていなくて、非常に読みづらいが、そればかりでなく、控えめに言っても、レートリヒのオリジナルの 文意が捉えられていない文章がかなり見受けられる。レートリヒの文体は平明なものではないが、かといって格別に凝ったものという 程でもなく、その意図を汲み取るのは決して難しくないのだが、翻訳の方は、直訳調であることをおくとしても、日本語として読んだ時に 不自然に感じられることが多く、原書を読んだ方がわかりやすい部分も少なくない。

ついでに言えば、訳者は「以後の研究により明らかになった事項については、訳文で訂正を行っている」とあとがきに記載しているが、 これについても不可解な点が多い。レートリヒの著作は1953年に執筆され、1963年に改訂されたものであり、訳者も書いている通り、 その後明らかになった事実関係の誤りが含まれているのは仕方がない。問題なのは訳者が行った訂正が、明らかに不徹底なもので あることだ。訳出する際に参照した書物もまた、あとがきに掲げられているが、それらを参照しているのであれば当然為されていてよいはずの 訂正がなかったりして、かえって混乱を招く危険すらあるように思える。訳者が訂正を行っていると主張しているだけに一層その危険は 大きなものになってしまっており、翻訳の日本語のわかりにくさ同様、非常に残念に感じられる。

いまやこの邦訳自体が古いものになってしまい、あえてこの訳を手にする人も少ないだろうが、訳者の意図した「内容的にも充実した 手頃なマニュアル」として使おうとする場合には、注意が必要だと思う。私見では、レートリヒの意見には今尚耳を傾けるべき点が 多くあると感じていて、この著作を現時点で(歴史的な相対化を行う必要はあるだろうが)参照する意味もまたあると思っているので、 あえてここでとりあげておくことにした。

あるいはまた、マーラー事典(立風書房1989)に含まれるシノポリへのインタビューの翻訳も幾つかの明らかな 誤訳が確認できるが、このインタビューについては、それがもともと含まれている原著の翻訳がある (ヘルムート・キューン/ゲオルク・クヴァンダー「グスタフ・マーラー:その人と芸術、そして時代」岩下眞好他訳・泰流社,1989) ので、そちらを参照した方が良いだろう。最後のケースのように複数の翻訳がある場合も含め、総じてマーラーの場合は 比較対照する文献には相対的には恵まれていると言って良いだろうから、それらを照合しながら読んでいけば、 多くの場合には疑問は解消できるように思われる。また、過去とは異なって、現在ではWebで原書を取り寄せることが 格段に容易になっているので、それを利用しない手はないだろう。

(続く)

(2005.5初稿,その後2008にかけて加筆, 2026.1.7 noteにて公開)

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