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参考書籍覚書(2005~8)(上)

マーラーを語る上で、生誕100年を記念して出版されたアドルノのマーラー論を取り上げないわけには いかないだろう。いわゆる専門的な研究を志すわけではなくとも、マーラーについて何かを語ろうとした時に、 この著作を読まずに済ませることは困難だと思う。しかも今日では素晴らしい新訳(アドルノ「マーラー 音楽観相学」 訳:龍村あや子、法政大学出版局)により日本語でその内容を、比較的に容易に理解する手段が 用意されているのである。

アドルノの文章は難解だと言われるが、幸いにしてあまりにかけ離れた言語である 日本語に翻訳するにあたって充分に意味の通る翻訳がなされるため、訳者の解釈の助けを借りながら内容を 理解することができるという、逆説的ではあるが恵まれた状況に我々はあるのだと思う。「否定弁証法」しかり、 「認識論のメタ批判」しかりである。

とりわけ現象学批判の後者は、個人的には一層理解しやすいものであるが、それと同様かそれ以上に、語られている 音楽に親しんでいるマーラーについての著作であれば、尚更とっつきやすい。私のように、熱狂的なファンでは ない、どちらかといえば距離をおいた聴き手ですらそうなのだから、多くの熱心な聴き手の方にとっては 決して難解であるとは思えず、ややもすると今なお敬して遠ざけられがちであることは驚きである。

もっとも、そうはいっても意味が通りにくい部分も散見するし、私見では、はっきりと誤りではないかと 思われる場所もなくはない。わかりやすい例を一つだけあげれば、III.性格的要素の章の出だし、訳書57頁 (Taschenbuch版の全集13巻では190頁)のアプゲザングの例のうち第3交響曲第1楽章の対応箇所について、 訳者は362小節~368小節であると補足しているが、私見ではアドルノが考えているのは明らかに練習番号28 (351小節)以降である。それはIV.小説の末尾(訳書108頁、原書228頁)の原注26において、まさにその アプゲザングへの再度の言及があり、そこでははっきりと練習番号28がアドルノによって指示されている ことから明らかであるように思われる。聴取の印象からいっても練習番号28からの箇所の方が「充足」に 相応しく、訳者の指定箇所は(アドルノもそう表現しているが)寧ろ「崩壊」であろう。少なくとも 聴く限りでは「充足」として機能しているようには私には感じられない。

(幾つか気付いた点のうち、特に第4交響曲に関する部分については、 別にまとめた(アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について」) ので、興味がある方はそちらをご覧になっていただければ幸いである。)
しかし旧訳(私が知った時には既に絶版で、図書館で閲覧することしかできなかった)に比べれば、 その訳の素晴らしさは一目瞭然であると思われる。これなら移動時間の電車の中でも読めるという くらいこなれた訳であり、画期的なことだと思う。

なお、これらとは更に別に、青土社「音楽の手帖 マーラー」には、深田甫訳による、第4章の更に部分訳が 収められている。これは一見して非常にこなれた訳なのだが、とりわけ哲学的な概念操作を内容とする抽象性の高い部分に なると途端に首を捻る文章になる傾向がある。(この点では龍村訳の方がずっと違和感がない。) マーラーが曲をつけた詩の翻訳でも著名な訳者の手になるもので、日本語としての読みやすさは群を抜いているとは思うが、 踏み込んで補った部分がアドルノの意図を捉えているかどうかは、また別の問題なのではなかろうか。

もっとも、深田訳に関しては、歌詞の翻訳でも―語彙の豊かさ、表現の多彩さに驚嘆するとともに、 日本語としてこなれていることは認めても―そのあまりの自在さに当惑することが多い(しかも詩によっては複数のバージョンの翻訳があって、 そのバージョンを比較すると、その違いの大きさに再度驚くことになる)のだが、 これは私に文学的な感受性が欠如しているせいなのであろう。まあ、世の中には誤訳だらけの歌詞翻訳があふれていると仄聞するので、 それに比べれば、深田訳の質の高さには議論の余地はないのだろうとは思うのだが。

かつて、このアドルノの著作を評して音楽が行間から聞こえてこないタイプの著作である、という評もあった (「音楽の手帖 マーラー」(青土社)の中の川村二郎さんの文章にそんな記述があった)が、BGM的に マーラーの音楽を思い浮かべながら読むことはできないという意味ではその通りではあっても、実際には寧ろ、 アドルノのこの著作ほど具体的にマーラーの音楽自体に迫ったものは読んだことがない。その記述は至るところ 音楽の具体的な部分への言及に溢れていて、その音楽に慣れ親しんだ方ならば、これほど音楽を思い浮かべ ながら読み進められる著作もないのではないかと思う。もしかしたら専門の研究者にとっては、40年以上前の この著作は最早、参照に値しない「歴史上の文献」になっているのかもしれないが、充分にその内容を 咀嚼することすらまだできていない私にとっては、まだまだアクチュアルな著作である。

とはいうものの、それはアドルノの主張に全面的に賛同できるということではない。「アドルノ以後」の 多くの論者がそれぞれ少しずつ異なったニュアンスで留保をつけているが、私もまた、アドルノの主張の 根本の部分に首肯し難いものを感じる。独自の概念装置を用いたマーラーの音楽の具体的な分析は 素晴らしいと思うが、その社会批判的な部分には必ずしも説得力を感じない。寧ろ、予断された歴史的な 図式に現実を当て嵌めるかのような強引さが感じられる。それが他のアドルノが評価しなかった作曲家に 適用された時の恣意性を思うに、その所説のある部分(もしかしたら、それは根幹をなす部分かも 知れないし、ことマーラーに関しては―文脈を共有する者が持つ「クオリア」の反映ゆえの―それなりの 説得力を感じないでもないのだが)に対して留保をつけざるを得ないように感じている。


というわけで、アドルノの著作があればそれだけでも充分過ぎるほどなのだが、それ以外に挙げると すれば、本来はドナルド・ミッチェルの生成史的な研究(私の知る限り、現時点で3巻)、 アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの浩瀚な伝記(私が参照しているのは、フランス語版の3巻本である。 その後、内容の改訂・増補を伴う英語版も出ている。)、そして必ずしも評価について一致を 見ているわけではないようだが、コンスタンティン・フローロスの標題音楽的なアプローチによる 大部のマーラー論(これまた3巻本)の3つを挙げるべきなのだろう。

しかしミッチェルの研究はその一部の翻訳が出たきりだし(ドナルド・ミッチェル「マーラー さすらう若者の時代」喜多尾道冬訳, 音楽之友社、同「マーラー 角笛交響曲の時代」喜多尾道冬訳,音楽之友社)、 ド・ラ・グランジュについては幾つかの論文の翻訳をまとめたものが出版されているに過ぎない (アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」船山隆,井上さつき訳,草思社)。 フローロスに至ってはようやく最近英語版からの翻訳で第3巻のみが出版されたばかりである。(コンスタンティン・フローロス「マーラー 交響曲のすべて」訳:前島良雄・前島真理、藤原書店

ちなみに個人的には私はフローロスの立場にはほとんど関心がない。マーラーがいわゆるハンスリックの意味での 「絶対音楽」ではないのは明らかであるにせよ、だからといって直ちにフローロスのようなアプローチを 正当化することにはならないと思う。アドルノを批判する姿勢を明らかにしているフローロスの立場がアドルノのいう 標題音楽的な解釈として批判の対象になりうるかについても議論があってしかるべきだろうが、 いずれにせよ一読した限りではアドルノの著作ほどの刺激は感じない。 私は幸い研究者ではないので、義務的に読む必要性に迫られることもない。 主要な文献の大部の翻訳が出たこと自体は歓迎したいが、それゆえここでは特に取り上げることはしない。

また、マーラーの音楽をドイツ・ロマン派の汎神論的な自然哲学的世界観の表現として捉えようとする立場と しては例えば国内でも岩下の説(その所説については岩下眞好, 福井鉄也(写真)マーラー:その交響的宇宙,音楽之友社や、キーワード事典 作曲家再発見シリーズ マーラー所収の論文を参照されたい)があるが、これにもまた同意しかねる。もしマーラーをそうした思潮の中に 位置づけること自体目的であればそれなりに妥当な側面もあるとは思うが、それはマーラーの作品の「環境」の一部 を明らかにするものではあっても、決してマーラー「について」の議論ではないし、マーラーの特異性を明らかにすることは ないように思われる。そもそも岩下の論では第9交響曲が(そしてまた第10交響曲も恐らく同様に) 全く扱えない。マーラーの作品を俯瞰するという観点からすれば、すでにこれのみをもって、その論には致命的な 限界があると言わざるを得ないのではないか。第8交響曲と大地の歌、第9交響曲との間に広がる溝こそ、 そこに矛盾や破綻を見出したり、伝記主義的な裏づけをもった変化を認めるのでなければ、まさに説明が必要な 「躓きの石」であるのは、ワルターの指摘を引き合いに出すまでも無く明らかなことのように思えるのだが。

更に言えば、仮に世界観や理念についての議論に限定したとして、岩下の説で扱われているのはせいぜい ニーチェまでであって、マーラー自身が強い関心を抱いていたより近代的な思潮、 フェヒナーやロッツェといった自然科学の発展の準備をした人たちの考え方に全く触れないのは不可解だし、同様に マーラーその人の軌跡を辿るなら、エドゥアルト・フォン・ハルトマンを素通りすることにも困惑を覚えざるを 得ない。期待して読み始めた人間は、恐らく肩透かしを食らった気分になるだろう。

私のような文化史的な知識の 無いものが、造詣の深い専門家に対して何を言うかとお叱りを受けそうだが、結局のところここで為されているのは、 例えば構造主義的な歴史観におけるような同時代の関連する諸潮流の運動の同型性の抽出ということですらなく (もっとも、そうだとしても尚、私にはあまり関心はもてないが)、結果としてその所説は、所詮は素材に過ぎないもの、 到達点ではなく、出発点をしか指し示さないように思えてならない。 到達点の特異性は紛う事なきマーラーその人のそれだろうが、出発点を渉猟することがマーラーが 実現したことをどれだけ明らかにするのか、素人の私は判然としないし、所説そのものが説得的だとは全く感じられない。

それでいてマーラーがそれを知っていたという実証的な裏づけを示すことなしにカールスの思想を 持ち出すのは如何にも唐突でその意図を測りかねる。フローロスですら手続きは原則としては実証的であり、 寧ろ彼の研究の意義はそこにあるとする見方もあるというのに、その実証性にすら拠らずに議論を進め、その一方で 自説の拠りどころとして、繰り返しパウル・ベッカーの業績―その価値は疑いないものであっても、 寧ろ今日においては、それ自体がマーラーの同時代の受容のあり方として批判的検討の対象にすることが 妥当かも知れないというのに―を引き合いに出すのは、どういう方法論的な根拠によってなのだろうか? 

残念ながら私は文学研究の方法論には疎いし、恐らくはきちんとした学問的な手続きにそって組み立てられている 議論についていけないのだとは思うが、いずれにせよ私の様な「一般の読者」には説得力も感じられなければ、 それを今日論じることの意義も理解できない。フローロスの場合と同様、深い学殖に裏づけされた説であることは 伺えるだけに残念ではあるが、致し方ない。学問的には立派な業績に基づいているのだろうが、 恐らく私にはその価値が正当に理解するだけの知識も能力もないのだろう。

研究のアプローチで行けば、私はマイヤー(Leonard B. Meyer)の言うところの「絶対的な表現主義者」の立場 に共感を覚えているので、そうした方向性の分析には抵抗がない。無論、マーラーの場合には、もっとも控えめに 考えても歌詞の問題があるから、最低限それに対する分だけは「参照的」である必要があるだろう。

それ故「絶対的」な立場で終始するとは思っていないが、その一方で、標題にせよ伝記にせよ、文化的・社会的な 背景にせよ、あるいはもう少し作品内在的には引用の問題にせよ、マーラーの場合には他の作曲家と比してなお、 そうした側面の重要性が大きいことを認めるに吝かではないし、そうした情報を背景にして音楽を聴くことが、 音楽の聴き方を変え、豊かにすることを否定しはしないものの、それらは最終的には参照先の詮索に過ぎず、 マーラーの作品自体の持つ固有性には結局のところ辿り着かないような感じを抱いている。また、 マーラー程の傑出した天才ともなれば、作品はおいて、マーラーその人の人間に対する関心というのがあるのも 理解はできるが、結局のところ私個人について言えば、何と言ってもこれらの作品が遺されていればこそであって、 最終的に作品自体に辿り着かないのは本末転倒に感じられるのである。


そのような背景もあって、かつてのブームの時代に夥しく出版された書籍のほとんどが楽曲案内の類か評伝的なものであり、 勿論それぞれ個性もあり、価値を否定するわけではないが、今振り返ってみればブームの時の持て囃されぶりの 割には後に残ったものは大したことがなかったのでは、という思いを禁じることができない。もちろん中には資料的に 貴重なものも含まれていたのだが、そのほとんどが現時点では入手不可能となっていることを考えれば、 ますますその感を強くする。現在入手が可能な書籍に限定してしまえば、そもそもこうした紹介自体が ほとんど不可能になってしまうのである。もっとも、このこと自体はマーラーのみの問題ではないかも知れないが。

そのなかで事典という体裁をとった2冊の日本人の著者による著作が注目される。 「ブルックナー・マーラー事典」(東京書籍)のマーラーの部分(編:渡辺裕)と、 長木誠司「グスタフ・マーラー全作品解説事典」(立風書房、絶版)の2つである。後者は絶版のようだが、 豊富な譜例を収めた丁寧な分析であり再版を強く望みたい。前者を単なる曲目解説と片付ける 向きもあるようだが、その解説は実際には綿密な調査と分析に基づいていると感じられるし、 コラムも興味深いものが多く、極めつけは詳細を極める文献案内で、(今となっては些か古い かもしれないが)同時代の文献から執筆時点までの研究史の俯瞰もできるこの文献案内は 大変に貴重なものだと思う。

邦語文献としては他には、柴田南雄「グスタフ・マーラー 現代音楽への道」(岩波書店)は、 新書の体裁ながら、作曲家の視点からの楽曲に対する分析・評価、そして20世紀音楽への影響についての 記述に加え、国内の、特に戦前における受容についての情報を含み、貴重である。

作品解説で入手しやすいものとしては、「作曲家別名曲解説ライブラリ第1巻 マーラー」(音楽之友社)が あげられるだろう。ただし、この本はその成立の経緯から複数の執筆者による分担のかたちをとっており、執筆者による内容の落差が 大きい。特に歌曲では執筆者によっては示唆に富む指摘が含まれる部分もあるのだが、書籍全体としては内容に明らかな間違いや 疑問のある記述が多く見られるように感じられる。

そうした問題は本文だけでなく巻末の資料にも及んでいるし、巻末の資料と本文との間に不整合が あったりするケースも散見される。そればかりか同一の執筆者による筈の生涯の記述と作品の解説の間にも記述に矛盾が あったり、一見したところ意味不明の記述があったりという具合で、到底信頼のおけるものとは言い難いように思われる。交響曲に分類されている「大地の歌」や歌曲の解説でも、作品解説のあり方に関して疑問に思わざるを得ないような 記述方針のものが一部に見受けられ、入手のし易さだけからこの作品解説が参照されることに些かの違和感を禁じえない。

事実関係に誤りがあるのは論外だが、そうではなくても、主観的なコメントを除いてしまえば音楽を聴けばわかるような情報しか書かれていない 作品解説に一体何の意義があるのか私には判然としないし、推敲不足なのか構文的におかしな文章が見られるに至っては 内容以前の問題であり、別にけちをつけるために読んでいるわけではないのだから些かがっかりもしてしまう。
もっともそれはマーラーの巻に限ったことではなく、同じ執筆者の執筆になる他の作曲家の巻や書籍についても言えることで、 マーラーの場合と異なって資料として手元においておく必要を感じていない作曲家のものについては、あまりのひどさに処分して しまったものもある程なのだが。勿論、人によっては私が気にするようなことは大したことではなく、多少事実関係に間違いがあっても、 日本語として論理的におかしくても、まさにそうした内容なり、文体なりを評価する人もいるかもしれない(事実、そのような コメントを目にすることもある)から、あくまでもこれは私の主観的な評価に過ぎないが、一方で、一読して私と同じ思いをする人もまた いるであろうと思われるので、参考までにコメントをしておく次第である。

そんなものを読むくらいならCDを1つでも2つでも余計に 聴いた方がましだという意見があったとしても、コスト・パフォーマンスを考えればあながち批判もできないのは残念なことだが 仕方ない。一方で、上述のように作品解説にも優れたものはあるわけで、そうしたものが今度は読まれずに軽視されてしまうとしたら、 これもまた残念なことだと思う。

そういう意味で、マーラーの創作活動とその成果にアプローチしようとした時に是非とも参照すべき邦語文献としては、金子建志の2冊の作品研究が挙げられる。(金子建志,「こだわり派のための名曲徹底分析:マーラーの交響曲,」 音楽之友社, 同, 「こだわり派のための名曲徹底分析:マーラーの交響曲2」, 音楽之友社)これは徹底した文献・楽譜の調査と緻密な分析の成果であり、こうした成果に日本語で接することができることは大変貴重なことに感じられる。

(続く)

(2005.5初稿,その後2008にかけて加筆, 2026.1.6 noteにて公開)

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