火星——赤い地平の向こう(50):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(7)
9.13 火星の沈黙——響かない惑星が示すもの
最終的に、私たちはどこに辿り着くか。
火星は沈黙している。
音がないわけではない。風は吹き、砂は舞い、大気が揺れる。パーサヴィアランスのマイクロフォンはその音を記録した。しかしそれは、人間の音楽の空間ではない。
音楽は身体的である。呼吸、重力、共鳴。これらを必要とする。火星では、これらがすべて変質する。
音楽は社会的である。演奏者と聴衆、作曲家と演奏家、師と弟子。これらの人間的な関係の中で音楽は生きている。火星には、まだその社会がない。
音楽は時間的である。繰り返し、変奏、展開、終止。これらは人間の時間意識に根ざしている。火星の時間——1日24時間39分、1年687日、地質学的には停止した時間——は、人間の音楽的時間とは異なる構造を持つ。
これらの意味において、火星は「響かない惑星」である。
しかしこの「響かない」という事実は、音楽の限界を示すだけではない。それは人間という存在の限界を示している。人間は、自分の身体的・社会的・時間的条件の中でしか音楽を作れない。火星という極限的な場所は、その条件を照らし出す。
火星の沈黙は、人間中心的な経験の限界を示す。
そしてその限界を認識することが、音楽の射程を問い直すことにつながる。シュトックハウゼンが「宇宙人がマーラーを聴く」という突拍子もない視点から音楽の普遍性を語ろうとしたとき、彼が意図せずして示したのは、音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかという事実であった。その不十分さを補い、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそ、「音楽」に関する今日的な射程は見えてくるのではないか。
9.14 章のまとめ——物理的制約の場としての火星
音楽は、物理環境から独立して成立することができない。
火星の音響環境は、地球と構造的に非対称である。大気圧は地球の約0.6パーセント、音速は約240メートル毎秒、高周波は急速に減衰し、残響空間は成立しにくい。
音楽における火星は長らく神話的象徴(軍神マルス)と数学的比例(ケプラーの惑星音楽)に留まり、科学的火星とは接続していなかった。シュトックハウゼンの「宇宙人がマーラーを聴く」という発言は、音楽の普遍性を語るようでいて、実は音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかを逆説的に示している。
実在の火星の音楽が成立しない理由は三つである。身体条件の不一致、音響媒質の決定的差異、そしてテラフォーミング問題。テラフォーミングによって火星で音楽が鳴るとき、それは火星の音楽ではなく、地球化された音楽である。
小説は火星を時間的に変形できる。だが音楽は物理条件を変形できない。この非対称性が、文学と音楽における火星の決定的な差異である。
しかし三輪眞弘の音楽が示すように、この制約は音楽の終わりではない。人間と機械の不可分のシステムとして、「ありえたかもしれない〈音楽〉」を現在の音の中に実現すること。火星の沈黙の構造を、地球の音の中に刻み込むこと。それは可能であり、そしてそれこそが、今日の「音楽」が問い続けるべきことではないか。
音楽は、火星に届かない。だが火星は、音楽に何かを問いかける。
次章では、この問いを総括し、火星が人間に何を映しているのかを問う。
(2026.4.13 noteにて公開)
