火星——赤い地平の向こう(49):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(6)
9.11 ヴァーチャルな実在としての音楽
ここで、本書の核心概念である「ヴァーチャルな実在」を、音楽の文脈で考えよう。
火星は、物理的に実在しながら、経験的にはヴァーチャルにしか成立しない。このヴァーチャリティは、火星が地球と部分同型であるがゆえに生じる。完全に異質な天体は、そもそも経験の対象として想像されない。しかし火星は、「あそこに立てば、こんな風景が見えるはずだ」と想像できるほどには地球に似ている。その「似ているが、立てない」という緊張が、ヴァーチャリティを生んでいる。
音楽におけるヴァーチャリティも、同様の構造を持つ。
音楽は、物理的に実在する。空気の振動、演奏者の身体運動、楽器の共鳴。これらは実在の物理現象である。しかし音楽が喚起する「場所」や「情景」や「感情」は、物理的には実在しない。音楽は、ヴァーチャルな空間を作り出す。
三輪の音楽が喚起する「極東の架空の島」は、物理的には存在しない。「ひとのきえさり」が指し示す「きえさりゆく存在」は、物理的には捉えられない。しかしそれらは、音楽という物理的媒介を通じて、聴く者の意識の中にヴァーチャルな実在として現れる。
火星のヴァーチャリティと、音楽のヴァーチャリティは、同型ではない。構造的には対応している。どちらも、実在と経験のあいだに緊張を孕んでいる。どちらも、「似ているが、完全には同型でない」という部分同型性の構造を持っている。
音楽における火星は、常に地球音響条件のもとで構築されるヴァーチャルな火星である。そしてそのヴァーチャルな火星は、三輪の音楽が「ありえたかもしれない〈音楽〉」として構築するヴァーチャルな音楽と、構造的に共鳴している。
9.12 火星の音響環境と「天球の音楽」——ケプラーを超えて
いつの日か、三輪が火星をそのカバーストーリーに取り込んだ作品を作ることがあれば、是非聴いてみたい。
この時代に相応しい「天球の音楽」。既存の人間の尺度を寄せ付けない、古のピタゴラス派のそれとは異なり、ある仕方で人間にも聴き取ることができるハルモニア・ムンディ。空想の火星ではなく、メディアを介して垣間見ることのできる火星の風景に相応しい音楽。火星の、人間なしで成り立っている秩序に相応しい、人間のものに他ならない音楽。
これは空想ではない。技術的な方向性として、具体的に想像することができる。
火星の音響データ——パーサヴィアランスが記録した風の音、砂の摩擦音、大気の揺らぎ、更には火星の空を初めて飛行したヘリコプター、インジェニュイティの飛行音——を素材として用いることができる。火星の物理的条件——大気圧0.6パーセント、音速240メートル毎秒、高周波減衰、二重の音速——を作曲の条件として組み込むことができる。
それは、地球の音響条件のもとで演奏されながら、火星の音響条件を構造の中に内包した音楽である。それは「火星の音楽」ではないが、「火星についての音楽」でもない。それは、火星の物理的条件が作曲の論理の一部となった音楽である。
ブラッドベリが「細部の科学的正確さではなく、構造的な正確さ」において火星を把握したように、そのような音楽は「実際に火星で鳴る音楽ではなく、火星の構造を内面化した音楽」として成立しうる。
火星は響かないかもしれない。その沈黙の構造を、地球の音の中に刻み込むことはできる。
そうした音楽こそ、3.11後の風景の中で生きる人間、最早かつての「人間」とは異なった「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」における「コンピュータ語族」としての人間、「テクノロジーによって生み出された『人造物』を通して世界を理解し、感じ、考え、対話し、戦い、生存している」人間、人間の方が人造物システムの一部として「機能」しているような状況に置かれた人間に相応しく、なおかつ生きていくために必要とされる「音楽」ではないだろうか。
(2026.4.12 noteにて公開)
