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火星——赤い地平の向こう(48):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(5)

(承前)

9.9 シュトックハウゼンの限界——人間中心主義の露呈、もう一度

ここで9.1で引いたシュトックハウゼンの発言を、火星の音響的文脈において改めて読み直してみよう。
シュトックハウゼンの発言の最も根本的な問題は、音楽が人間の身体的条件と物理的環境に深く結びついているということを見落としている点にある。
マーラーの音楽は、地球の大気圧の下で、地球の重力の中で、人間の肺と耳と神経系によって演奏され知覚される。それは「地球人の性質」を代表しているかもしれないが、同時に、地球という惑星の物理的条件に深く埋め込まれている。
「別の星に住む高等生物」が、仮に人間と同様の聴覚器官と神経系を持っているとすれば、マーラーの音楽を理解できるかもしれない。しかしそれは、その生物が地球と同様の物理環境の中で進化したことを前提とする。火星のような、地球と部分同型だが非同型でもある環境で進化した生命体が、果たして同様の聴覚と神経系を持つかどうかは全く不明である。
シュトックハウゼンの発言は、音楽の普遍性を主張しようとしながら、実は音楽がいかに地球的・人間的条件に依存しているかを逆説的に示している。
しかしこの逆説は、音楽の終わりを告げるものではない。むしろそれは、問いの始まりである。音楽は人間の身体的・物理的条件に深く根ざしている。では、その条件が変わるとき、音楽はどうなるのか。

9.10 ローバーの「視点」と音楽——美を知らない存在が撮影する写真

ここで、第2章で論じたローバーの「視点」の問題を、音楽の文脈で再考しよう。
スピリットとオポチュニティが撮影した火星の夕暮れの写真。ジム・ベルが述べたように、それは「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」。だから私たちはその写真を見て、深く感動する。
カメラを据えたのはローバーであり、シャッターを切ったのもアルゴリズムである。ローバーは美を知らない。火星もまた、美を知らない。けれど私たちは、そこに立ってもいないのに、その地平に魅了される。
ジム・ベルは述べた。「バイキング着陸船とマーズ・パスファインダーで撮影された火星の風景と、スピリットとオポチュニティーが撮った風景との違いは、『画像を得る』ことと、『写真を撮る』ことの違いである。」そして「すべての芸術は現実との関連性という問題に直面する。この点で、本プロジェクトは特にユニークである。これは抽象的なアートではないが、今まで人間が実際に目撃した現実でもないのである。」
「写真を撮る」と「画像を得る」の違い。同様に、「音楽を作る」と「音響を記録する」の違いがある。
音楽は、意図的な構造を持つ。特定の音高、リズム、和声、音色が、美的・感情的な効果を意図して配置される。この「意図」は、現在のところ人間のものである。
ここで、将来の可能性を想像することは許されるだろう。人工知能が、火星の音響データを素材として音楽を生成するとしたら。あるいはローバーが、火星の環境に応答して自律的に音を生成するとしたら。
それは音楽か。そしてそれは、火星の音楽か。
この問いは、現時点では答えられない。ここに、「美」でない何か、でも「美」に通じている何かの視点を、いつしかロボットが獲得するという可能性が開いている。文字通りに獲得し、それによって自律的に「音楽」を作ることは、決して絵空事ではないだろう。その先で、ロボットによる「投壜通信」としての音楽を考えることすら可能だろう。

9.11 三輪眞弘の音楽——「ありえたかもしれない〈音楽〉」

ここで、この章の問いの核心に触れたい。
天体を題材とした音楽は、私が知る限り、どれも陳腐な空想の産物にしか聴こえない。ホルストの「惑星」は神話の音楽であり、ケプラーの惑星音楽は数学の音楽である。どちらも、実在の火星の音響条件とは無関係である。大抵のSFは火星についての探査結果が描き出すものの足元にも及ばない。火星のように一定の情報がある天体でないものを想像しようとしても、却って素朴なアントロポモルフィズムを曝け出し、人間が如何に自分の認識の檻から逃れるのが困難であるかを逆説的に証しすることにしかならない。
そうした中で、三輪眞弘の活動および作品は、私にはほぼ唯一、まともに想像力を行使しているものとして感じられる。「極東の架空の島」というカバーストーリー、「ひとのきえさり」という概念、「アルゴリズミック・コンポジション」という方法。これらは、音楽を人間中心主義的な自明性から解放しようとする試みとして、火星をめぐる問いと深いところで共鳴している。
「ひとのきえさり」という概念は、この章で問い続けてきたことと直接つながっている。
火星生命が存在した(あるいはしなかった)という問いは、「ありえたかもしれない生命」の問いである。テラフォーミング文学における「若返らせられる惑星」は、「ありえたかもしれない火星」の問いである。そして「ひとのきえさり」は、「ありえたかもしれない〈音楽〉」の問いである。
「きえさり」は「死」ではない。死は自らを語らない。だし「きえさり」は、きえさりゆくことについての意識を持つ。意識のきえさりではなく、意識のきえさりについての意識。それは「老い」そのものではなく、「老い」についての意識である。
滅んでしまった「火星人」の物語——あるいは滅んでしまったかもしれない「火星の生命」の物語——は、構造的には「ありえたかもしれない〈音楽〉」の物語と同じなのではないか。火星の「老いた風景」は、音楽が「きえさり」ゆく過程の外部化された形として読むことができる。
ここで決定的な問いがある。三輪の音楽は、この「ありえたかもしれない〈音楽〉」を、どのようにして「今、ここで鳴り響く音楽」として実現するのか。
答えは、テクノロジーによる媒介である。
三輪の音楽は、アルゴリズムによって生成される。人間の手を経ながら、人間の手だけによるのではない方法で、音が組織される。これは、ローバーが火星の写真を撮影するプロセスと構造的に類似している。ローバーというロボットと人間が不可分の一つのシステムを形作り、「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」風景を生み出す。三輪の音楽もまた、人間と機械が不可分のシステムを形作り、「今まで人間が実際に聴いた音楽ではない」何かを生み出す。
それは、火星の夕暮れの写真と同様に、「今まで人間が実際に目撃した現実でもない」ものでありながら、「美しい」と感じさせる何かである。

(続く)

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(2026.4.11 noteにて公開)

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