火星——赤い地平の向こう(47):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(4)
9.7 ケプラーの「世界の調和」——数的火星
第1章で触れたケプラーの『世界の調和』(Harmonices Mundi, 1619年)を、音楽の文脈で改めて考えよう。ケプラーは、太陽系の惑星のおのおのが角速度を変えつつ軌道を動くときに奏でている音楽を書き留めた。惑星の近日点速度と遠日点速度の比を音程に転写し、各惑星に固有の「音楽的フレーズ」を与えたのである。ケプラーの惑星音楽は、実際に「聴く」ことのできる音楽ではない。それは数学的比例関係の音楽への転写であり、実際の音響現象ではない。ケプラーにとって、これは単なる比喩ではなかった。彼は真剣に、宇宙が数学的調和によって構成されており、その調和は音楽的比例関係として表現できると信じていた。
ピタゴラス以来の「天球の音楽」(Musica Universalis)という概念がある。天体の運動は、音楽的調和を奏でている。しかしそれは人間の耳には聴こえない。宇宙の調和は、感覚ではなく知性によってのみ把握できる。ここで火星は、音響的実在ではなく、数学的比例関係として音楽に接続されている。火星は響くのではなく、計算される。
これは、音楽における火星の二つの存在様式——神話的象徴と数学的比例——の一つである。どちらも、実在の火星の音響条件とは無関係である。
なお、本来は抽象的なものであるケプラーの「天体の音楽」における火星の「音階」を楽器や電子音響によって「再現」したり、それを素材にした作品は、例えばyoutube等で幾つか確認できる。特に後者は、後述する三輪眞弘の「逆アルゴリズム音楽」の定義における3つの相であれば、「規則(ここではケプラーの「音階」がそれに概ね相当すると考えられる)による生成」を「解釈」し、「命名」する試みと見做すことが出来るが、ここで個別に採り上げることはせずに、その試みの存在の指摘に留めたい。
というのも、いずれのケースでも、その生成の相におけるケプラーの「音階」は決定論的な規則ではないことは勿論だが、結局のところ楕円軌道の偏心率という条件を変換したものに過ぎず、条件としては抽象的に過ぎ、制約条件としては弱すぎると考えられるからであり、かつその後の相における音響的実現においては実在の火星の条件を考慮しているとは言えないからである。火星は、そもそも「逆シミュレーション音楽」の3つの相それぞれの実現可能性を問いに付する存在なのである。
9.8 なぜ「実在の火星の音楽」は存在しないのか——三つの理由
ここで根本的な問いを立てよう。
科学的な火星像を背景とした音楽は、なぜほとんど存在しないのか。文学では、ブラッドベリ、ディック、光瀬龍、ロビンソンが、科学的な火星像を深く内面化した作品を書いた。なぜ音楽には、同様の作品がないのか。
理由は三つある。
(1)身体条件の不一致
音楽は、演奏者の身体に深く依存している。呼吸——管楽器奏者は肺の空気を、声楽家は声帯の振動を通じて音楽を生み出す。重力——弦楽器の弓の動き、打楽器の打撃、鍵盤楽器の指の重みは、重力と深く結びついている。火星の重力は地球の38パーセントである。同じ筋力でも、弓の動き方が変わる。打撃の感触が変わる。身体的共鳴——チェロ奏者は楽器の振動を胸で感じる。声楽家は自分の声の共鳴を骨格全体で感じる——これらの身体的感覚は、音楽行為の不可欠な部分である。宇宙服はこれらをすべて遮断する。
火星では、音楽行為そのものが変質する。
(2)音響媒質の決定的差異
音楽は、空気の振動として成立する。しかし火星の大気は、地球の大気とは根本的に異なる。密度は地球の約0.6パーセント。主成分は二酸化炭素。音速は地球より遅く、高周波は急速に減衰する。残響空間は成立しにくい。
これは単なる「音質の違い」ではない。それは音楽の物理的基盤そのものの変容である。地球の音楽は、地球の音響条件の中で発展した。オーケストラの楽器編成は、コンサートホールの音響を前提としている。声楽の技法は、人間の肺と声帯と地球の大気の組み合わせで発展した。電子音楽でさえ、最終的には地球の大気を振動させてスピーカーから音を出す。火星の音響条件では、これらの音楽的実践はすべて変容する。あるいは成立しない。
(3)テラフォーミング問題——地球化された音
ではテラフォーミングが完成した火星では、音楽は成立するか。
成立する。しかしそれは、火星の音楽ではない。
テラフォーミングされた火星の大気は、地球の大気に近い組成と圧力を持つ。その空気の中で演奏される音楽は、地球の音楽と同じ物理条件の下で成立する。それは火星で鳴っているが、火星の音ではない。それは地球化された音響空間の中の、地球の音楽である。
音楽においても、テラフォーミングは固有性の消去を意味する。
(2026.4.10 noteにて公開)
