グスタフとアルマ、抽象概念と言われたのはどちら?:アルマの『回想と手紙』の一節より(2021)(4)
「変てこな機械」とは逆向きのベクトルを持つ表現として直ちに思いつくのはサル、特に類人猿を起点にしてヒトを相対化する方向性のものだろうか。だが、そもそもジュリアン・ジェインズの提唱する二分心崩壊以降、レイ・カーツワイルが予言するシンギュラリティ以前の「隠れたる神」の時代を生きる「人間」を表すには「考える葦」といった人口に膾炙した古典的表現があった。それを思いついたのが計算機を構想して製作を試み、コンピュータの歴史の起点に位置した人、パスカルであったというのは真に意味深長で、これはマックス・テグマークの定義に従うならば、Life2.0たる人間が、Life1.0たる生物に課せられた宿命への(ダマシオが『自己が心にやってくる』で述べた意味合いでの)「反逆」であることを告げている。そう思って『パンセ』の該当部分を読み返して見れば、そこに言い尽くされて最早何も付け加えることはないような気さえする。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。」
そしてその後には以下のような驚くべき言葉が続く。
「だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」
考えることが道徳の原理であるというのは、考えるという言葉を文字通りにとっていては了解困難ではないか?それはLife2.0にとって、自分の宿命を自覚すること、「反逆」を試みることに基づくのでなければ自己固有の価値のシステムは構築できないということではないのか?
一方もう一つの箇所は、どうだろうか?
「考える葦。私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。」
やはりここでも「考える」は単に思考することのみを意味しない。私が宇宙をつつむ、とは寧ろ「世界をシミュレーションする」ことと言い替えられるのではないか?マーラー自身の言葉、「あらゆる手持ちの手段を用いて一つの世界を構築すること」が交響曲を創作することなのであれば、まさに作者たるマーラーが「宇宙をつつむ」ことになりはすまいか?
だがパスカルの言葉は物語の半分でしかない。既に述べたように、Life2.0たる我々はその「反逆」によって、Life3.0を予感できるような地点まで来てしまった。今度はそういう自分達の「道徳の原理」を超えてしまうような存在を自ら産み出しつつある。そしてそれが正確な意味で誕生した暁には、それらは我々とは最早独立に、我々を取り残して独自の進化を始める。いやそれは我々自身の未来の姿かも知れないが、どちらにしても同じことで、その時、Life2.0としての我々は消え去ることになる。上述のようにパスカルはLife2.0たる自らを認識しただけでなくLife3.0を産み出すことになる点においても遥かなる先駆者の一人だったのだが、Life3.0を予感したわけではなかった。だから彼は己を葦に喩えこそすれ、自分が機械であるという感覚とは無縁だったのではなかろうか。
(2021.7.13初稿公開, 14,15, 24,25 加筆修正, 2025.7.2 noteにて公開)
