坂本龍一 創作解体試案#2|『Disappointment–Hateruma』に読む、違和感の原点。構造になる前の音を聴く
前回(第1回)は、アルバム『音楽図鑑』の分析を通じて、成功体験が創作を閉じていく瞬間を捉えました。機能することが証明された方法論は、確かに人を前へと進めます。しかし、その慣性が強くなりすぎると、表現は未来ではなく過去の成功の再生産に甘んじるようになります。『音楽図鑑』に刻まれていたのは、自由を手にしたはずの作曲家が、その自由の内側に潜む見えない檻を注意深く疑う姿でした。
では、その創作上の違和感の原点は、一体どこまで遡ることができるのでしょうか。
今回取り上げるのは、坂本龍一さんが土取利行さんとともに1976年に発表した『Disappointment–Hateruma』です。後年の洗練された彼を知る耳で聴くと、この最初期の作品はきわめて異形に響きます。ここには、人々を魅了する美しい旋律も、明快な楽曲構成も、洗練されたポップネスも存在しません。横たわっているのは、音が「音楽」という形を成す手前の、ざらついた時間そのものです。
作曲される前の音。意味を帯びる前の打撃。構造へ回収される前の、剥き出しの違和感。この作品は、輝かしいキャリアの原点というよりは、むしろ原点へと至る直前に口を開けていた「裂け目」のようなものです。
そしてこの問題は、決して音楽の世界だけに閉じません。経営やPR、ブランディングの現場でも、まだ名付けられていない違和感は、往々にして「処理すべきノイズ」として退けられがちです。しかし、真に新しい市場や、これまでにない表現の地平は、常にそのノイズのただ中から立ち上がってきます。構造になる前の違和感をいかに聴き取るか。今回の探求は、その一点にあります。
●ぜひこちらの音源を聴きながら、この後の論考をお楽しみください。
●このシリーズ「坂本龍一 創作解体試案」では、坂本龍一さんの作品を手がかりに、創作の背後にある思考、技法、時代感覚を読み解き、毎週週末を目標に投稿しています。作品、書籍、インタビュー、批評を往復し、そこで何が選ばれ、何が壊され、何が残ったのかを考えるとともに、構造的なアナロジーとして、経営やPR、ブランドにおける示唆にも触れてまいります。

1. 音楽は、構造である
坂本龍一さんの創作の出発点を思考するうえで、東京藝術大学でのアカデミックな学びは看過できない要素です。作曲を学ぶという営みは、突き詰めれば「音楽を構造として扱う訓練」に他なりません。和声、対位法、楽曲形式、管弦楽法。そこにおいて音は、ただ単発で鳴る肉体的なものではなく、緻密に配置され、関係付けられ、建築のように組み立てられる対象となります。
ただし、坂本さんにおける学びは、そうした西洋音楽の制度や教養を身に付けるだけでは終わりませんでした。
その思考に決定的な補助線を引いたのが、民族音楽学者・小泉文夫さんの存在です。東京藝術大学で教鞭を執り、世界各地の民族音楽をフィールドワークによって調査・研究した小泉さんの視座は、楽譜という閉じた宇宙の外側へ目を向けさせるものでした。小泉文夫記念資料室に遺された膨大なフィールドワークの記録を紐解けば、日本の音楽を孤立したものとしてではなく、アジアや世界との動的な関係性の中で捉え直そうとした姿勢が窺えます。
民族音楽の地平に立つとき、音楽はもはや五線譜の上だけには存在しません。楽器の素材、奏でる身体の躍動、共同体の儀礼、その場所特有の残響、そして自然音との交感。石が鳴り、木が響き、皮が振動する。音楽とは、作曲家の内面から湧き出る美しい精神的構造物である前に、物質と身体と環境のあいだで立ち現れる「出来事」そのものへと変容します。
同時に、ジョン・ケージ以降の現代音楽やフリー・ジャズ、ミュージック・コンクレートの潮流もまた、音楽の自明性を激しく揺さぶっていました。楽器は正しい音階を出すための道具ではなく未知の音を発生させる物体となり、音は旋律や和声に回収される前の純粋な振動、あるいは加工可能な「素材」として再定義されつつあった時代です。
さらに当時の坂本さんは、音楽家・竹田賢一さんらを中心に1975年に組織された芸術実践の運動体「学習団」にも深く関わっていました。そこでは音楽という表現が、単なる自律的な作品としてではなく、批評理論と実践、そして社会の構造を結び直すための思想的な場として議論されていたそうです。
こうした重層的な背景を通じて、彼の中には「音楽とは固定された様式ではなく、高度に構築された構造である」という明晰な認識が育まれていたようです。しかし、それは終着点ではありません。音楽を完璧な構造として俯瞰できるようになったからこそ、逆説的に深い違和感が頭をもたげます。
構造になる前の音は、どこへ消えてしまうのか。 作曲家が手を下す前の音は、まだ音楽ではないのだろうか。『Disappointment–Hateruma』は、まさにこの根源的な問いから搾り出された試作として聴き解くことができます。
2. 『Disappointment–Hateruma』――作曲以前の場所へ
1976年、坂本龍一さんはパーカッショニストである土取利行さんとのインプロビゼーション(即興演奏)の記録として『Disappointment–Hateruma』を発表します。
この作品は、当時のALM Recordsによる録音以降、長らく幻の盤とされていましたが、2026年になってWEWANTSOUNDSにより日本国外で初の正式再発、および初のアナログ復刻がなされました。ここで私たちが注目すべきは、なぜ若き日の坂本龍一さんが、自らのキャリアの最初期において、美しく設計された音楽ではなく、その場で発生する生々しい「音」そのものを録音物として残そうとしたのか、という動機です。
本作において、ピアノはもはや美しい旋律を奏でるための装置として扱われていません。鍵盤は打撃され、響きは断片化し、ピアノという精巧な楽器はただの一塊の「物質」へと還元されます。土取の奏でるパーカッションも、リズムを一定に刻むための背景に退きません。金属、木、皮、そして張り詰めた沈黙と残響。あらゆる音が、特定の意味を運ぶメッセンジャーとなることを拒むかのように、ただ圧倒的な物質性を伴ってそこに存在しています。
音が鳴る。 別の音が、それに呼応する。 間(ま)が生まれる。 空間の密度が変わる。 そこに、新たな関係性が立ち上がる。
ここでは、音そのものに最初から用意された意味などありません。音と音、物質と物質が衝突する関係性の中で、後から事後的に意味が発生していくのです。
通常、近代的な「作曲」という行為は、まず作曲家の頭の中に明確な意図や設計図があり、それを音という媒体に翻訳していくプロセスとして理解されます。何を表現し、どう構造化し、いかに展開させるか。作曲家が設計し、演奏者がそれを従順に再現する。
しかし『Disappointment–Hateruma』では、その因果関係の順番が完全に反転しています。意図が先にあるのではなく、音が先にある。構造が統治するのではなく、関係が先行する。完成された作品を目指すのではなく、その場で起きる一回限りの出来事を生きる。
これは、作曲家としての能力の放棄ではありません。むしろ、構造という檻に絡め取られる前の、「作曲以前の野生の場所」へと手を伸ばそうとする、きわめて自覚的な試みだったのです。
3. 違和感は、まだ問いになっていない
前回考察した『音楽図鑑』制作のころ、坂本龍一さんはすでに凡百の表現者を凌駕する、高度に自律した作曲家でした。あらゆる音を自在に統御し、いかなる音楽様式も完璧に構造化できる。だからこそ、洗練された自らの成功体験が、次なる創作を先回りして閉じてしまうという逆説に直面していました。あの傑作に宿る檻から逃れるために、彼は自動筆記や偶然性、あるいは意図的な「ほころび」を必要としたのです。
一方で、この『Disappointment–Hateruma』が録音された段階では、のちに彼を閉じ込めることになる檻そのものが、まだ完成していません。
ここにあるのは、確立された成功体験からの戦略的な逃走ではなく、成功体験そのものが形成される前夜の、原初的な違和感です。音楽を「構造」として理解してしまった若き坂本龍一さんが、その構造へと回収されていく前の、手つかずの音に触れようともがいている。それは当時、まだ明確な「問い」の形すら成していなかったはずです。
音楽とは、人間の知性によって「作る」ものなのか。 それとも、物質と環境のあいだに「発生する」ものなのか。こうした二項対立の問いは、後年に至ればいくらでも明晰な言葉で定式化できます。しかし、1976年のあの瞬間に彼らが抱えていたものは、知的な問いというよりは、もっと生々しく重たい違和感そのものだったのではないでしょうか。
楽譜という平らな紙に閉じ込められた音楽への違和感。西洋音楽が強いる強固な制度への違和感。そして、作曲家という特権的な主体がすべてを支配し、統治することへの違和感。
違和感は、常に問いよりも手前にあります。問いはすでに「言葉」という社会的な枠組みを持っていますが、違和感はまだ名付けられるための言葉を持っていません。だからこそ言葉を飛び越えて、生々しい「音」そのものとして世界の裂け目から噴出してくるのです。
『Disappointment–Hateruma』における即興演奏の真価は、まさにこの一点に聴き取ることができます。それは単に「型に縛られず自由に演奏した」という次元の話ではありません。まだ言葉にならない、構造化される前の違和感を、そのままの温度で空間に鳴り響かせているのです。
4. 音を、物質として扱う
本作の緊迫感は、鳴らされている音が、いわゆる「音楽的」な調和へと綺麗に洗練されないまま、物質としてのざらつきを残している点にあります。
ここにおいてピアノは、美しい旋律を運ぶための乗り物ではなく、木と弦とハンマーという物理的なパーツで構成された巨大な「物体」として立ち現れます。土取のパーカッションもまた、あらかじめ決められたタイム感をキープするための背景には退きません。金属が激しく擦れ、皮が歪んで震え、木が打たれ、その衝突のエネルギーが残響として空間に堆積していく。音は内面の「表現」ではなく、物質同士の「衝突」としてそこに現れるのです。
後年の高名な坂本龍一さんの姿に親しんでいる耳には、この即興は少し意外に聴こえるかもしれません。私たちはどうしても、彼を『戦場のメリークリスマス』や『The Last Emperor』に代表される、人々の記憶に一生残り続けるような「美しい旋律の紡ぎ手」として捉えてしまいがちだからです。
しかし、稀代のメロディメーカーとして世界に認知されるより遥か手前で、彼は音をどこまでも「物質」として、冷徹に聴きつめていました。旋律という関係性に回収される前の音。まだ何者にも名付けられていない、裸の音。
実はこの視点こそが、彼の全キャリアを底流で支える通奏低音(コンティヌオ)として機能し続けます。たとえば『音楽図鑑』では、サンプラー(フェアライトCMI)がもたらす未知の音色や、鍵盤に触れる身体の手触り、偶然立ち現れた響きが、作曲家の意図を鮮やかに裏切っていきました。
『Disappointment–Hateruma』にあるのは、そのさらに手前の風景です。テクノロジーや編集の洗練を通過する以前の場所で、剥き出しの身体と物質が直接的に衝突している。
土取利行さんによる無慈悲な打撃。 坂本龍一さんによる切迫したピアノ。 その緊迫したあいだに生まれる、濃密な間合い。 予期せぬ沈黙。 わずかなズレと、それへの即座の反応。
そこではもはや、音楽は完成された「作品(オブジェクト)」ではありません。その場の一瞬一瞬を生きる「出来事(イベント)」の記録そのものです。
『Disappointment–Hateruma』には、のちに世界の「坂本龍一」へと結晶化していく前の、最も野生に近かった耳の記憶が、そのまま刻み込まれているのです。
5. ビジネスにおける、構造になる前の違和感
ここで、思考の補助線を私たちの主戦場であるビジネスの現場へと引き寄せてみましょう。
経営、PR、ブランディングの世界において、私たちはあまりにも急いで「構造」を作り出そうとします。市場を定義し、ターゲットを精密に設定し、インサイトを抽出し、ブランド資産を棚卸しして、伝えるべきメッセージを精緻に設計する。
もちろん、それらのプロセスは不可欠です。確固たる構造がなければ、組織としての意思決定も、リソースの投下も実行できないからです。
しかし、構造化の誘惑に早く屈しすぎると、私たちはまだ名前の付いていない「かすかな兆し」をことごとく取りこぼすことになります。
顧客自身もまだ言葉にできていない、微かな不満
現場の最前線だけが肌で感じている、オペレーションの微妙なズレ
数字(データ)にはまだ表れないが、空気の密度だけが変わっている市場の予兆
既存の業界カテゴリーやセグメントではどうしても説明のつかない、生活者の奇妙な行動
これらは、現時点ではまだ美しい「インサイト」ではありません。当然、気の利いた「コンセプト」でもなければ、洗練された「戦略」でもない。しかし、過去の延長線上にはない「未来の入口」は、往々にしてこうした不格好なノイズの姿をして現れるものです。
『Disappointment–Hateruma』という即興の記録が、現代の私たちに突きつけているのは、まさにこの「構造化前夜」に踏みとどまることの重要性に他なりません。音をすぐに音楽という枠組みに収めない。違和感をすぐに知的な問いへと昇華させない。目の前の現象を、手慣れた既知の構造へ回収しない。まずは、ただそこにあるものとして聴き尽くす。
PRで言えば、社会の流動的な反応を、手安く「世論」や「トレンド」と名付けて定型化しないこと。 ブランディングで言えば、顧客の違和感を、既存の「ブランド課題」という箱へ安易に翻訳しないこと。 経営で言えば、現場が発するざらついた手触りを、KPIの外側にあるゴミ箱へと捨て去らないこと。
名付け、ラベルを貼る前に、聴く。 整理し、分類する前に、触れる。 設計し、統治する前に、その不規則な揺れをそのまま受け止める。
真に新しいものは、たいていにおいて非効率で、洗練とは程遠い形で世界に現れます。きれいな企画書やスライドにまとまってからでは、もう遅いのです。誰もが明晰に説明できるようになった時点で、それはすでに「既存の構造」に飼い慣らされ、消費されているからです。
違和感とは、まだ構造という檻に囚われていない、野生の未来そのものなのです。
6. 構造になる前の音を聴く
『Disappointment–Hateruma』は、決して「聴きやすい作品」ではありません。
耳に馴染むわかりやすい旋律も、劇的に整えられた楽曲展開も、私たちを安心させてくれる調和的な着地点も用意されていません。音と音は無骨にぶつかり、乱反射して散らばり、重い沈黙を挟んで、また唐突に立ち上がる。後年の洗練された巨匠としての坂本龍一さんを期待して臨むと、多くの読者は一様に戸惑うはずです。
しかし、その戸惑いや居心地の悪さこそが、今この音に触れる決定的な意味を持ちます。
ここには、坂本龍一さんがまだ世界の「坂本龍一」として制度化される前の音が息づいています。作曲家としての勝利の方程式が固まる前の、未踏のエネルギーがあります。美しい構造へと回収される前の、剥き出しの違和感が鳴り響いています。
第1回で考察した『音楽図鑑』は、名声と自由を手にした作曲家が、その自律性の内側にいつの間にか完成していた「檻」を内側から疑う作品でした。
それに対して、今回の『Disappointment–Hateruma』は、そのさらに気の遠くなるような手前に位置しています。檻から逃れようとしているのではありません。そもそも「檻」という構造が立ち上がる前の、原初の土壌に素手で触れているのです。
音楽とは、人間の頭脳が「作る」ものなのか、環境から「発生する」ものなのか。
意味とは、あらかじめ「与える」ものなのか、関係性の中から事後的に「立ち上がる」ものなのか。
このとき彼を捉えていた根源的な違和感は、のちに彼が歩む長いキャリアの中で、何度も形を変えて回帰することになります。
続くソロデビューアルバム『千のナイフ』において、音はより明晰にコントロールされ、電子音楽、民族音楽、ポップス、現代音楽が驚異的な強度で構造化されていきます。さらにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)において、それは徹底的に戦略化され、高度な記号として世界を席巻していく。そして、そのシステムの頂点に達した『音楽図鑑』において、完成してしまうことへの批評的抵抗として、もう一度意図的な「ほころび」が呼び戻される。
この雄大な大河の最上流、すべての始まりの源流に、『Disappointment–Hateruma』という裂け目が存在しています。
この作品は、のちの天才の「完成」を華々しく予告しているのではありません。むしろ、安易な完成に抗い続けるための「最初の違和感」を鳴らし続けている。だからこそ、システム化された現代を生きる私たちが、いま改めてこの音を聴き直す意味があるのです。
私たちは、「効率化やタイパ(タイムパフォーマンス)などの名のもとに、あまりにも早く構造をつくろうと急ぎすぎます。目の前の事象にすぐさま意味を与え、即座に言語化し、一刻も早く戦略やKPIへと落とし込もうとする。けれど、その効率的な処理を始める前に、私たちの耳が、目が、身体が、聴くべきものがあるはずです。
まだ名前の与えられていない、野生の音。 既存のロジックでは説明のつかない、現場のズレ。 まだ構造になっていない、名指しえぬ違和感。『Disappointment–Hateruma』は、その微かな声を聴き取るための、冷徹で野生的な知性を私たちに呼び覚ましてくれるのです。
次回は、坂本龍一さんの記念すべきソロデビューアルバム『千のナイフ』(1978年)を取り上げます。
『Disappointment–Hateruma』で鳴り響いていた、あの構造化を拒む野生の音。その剥き出しの違和感は、わずか2年の歳月を経て、いかにして「高度に設計可能な音楽」へと結晶化していったのか。音を冷徹な構造として組み上げ、世界へ打って出るその決定的な反転の瞬間を解体します。どうぞご期待ください。
本シリーズ「坂本龍一 創作解体試案」では、坂本龍一さんの作品を手がかりに、創作の背後にある思考、技法、時代感覚を読み解き、毎週週末を目標に投稿しています。作品、書籍、インタビュー、批評を往復し、そこで何が選ばれ、何が壊され、何が残ったのかを考えるとともに、構造的なアナロジーとして、経営やPR、ブランドにおける示唆にも触れてまいります。
関連作品
『Disappointment–Hateruma』
(1976年、ALM Records / 2026年、WEWANTSOUNDS再発)
パーカッショニスト・土取利行と坂本龍一による最初期のデュオ即興録音。長らく入手困難な幻の盤とされていたが、2026年に仏WEWANTSOUNDSより世界初・アナログ復刻を含む正式再発がなされた。ピアノや打楽器を「旋律やリズムを奏でる道具」としてではなく、徹底して「物質」として扱い、意味や構造が立ち上がる以前の原初的な音の関係性を捉えた、坂本龍一の創作の原点を知るうえで看過できない重要作。
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。今後も丁寧な発信を続けてまいります。応援よろしくお願いいたします。