坂本龍一 創作解体試案#1|『音楽図鑑』にみる自由の罠。成功体験という檻からの逃走
成功体験は、人を前に進めます。一度うまくいった方法は、自信になります。自信は判断を速くし、判断の速さは成果を生みます。やがてその方法は、自分の「型」になる。周囲もそれを期待する。企業であれば勝ち筋、ブランドであれば「らしさ」、創作者であれば才能と呼ばれるものです。
けれど、その型が強くなりすぎると、人は未来ではなく、過去の成功に従い始めます。
坂本龍一さん(1952年 - 2023年)の人気作『音楽図鑑』(1984年)からは、その危うさが聴こえてきます。自由に音楽をつくれるようになった作曲家が、その自由の内側にある檻にどう気づき、どう逃れようとしたのか。ここにあるのは、名盤解説ではありません。成功体験が創作を閉じていく瞬間に、ひとりの作曲家がどう抵抗したのかをめぐる、静かな格闘です。
このシリーズ「坂本龍一 創作解体試案」では、坂本龍一さんの作品を手がかりに、創作の背後にある思考、技法、時代感覚を読み解いていきます。作品、書籍、インタビュー、批評を往復しながら、そこで何が選ばれ、何が壊され、何が残ったのかを考え、週末に不定期更新していきたいと思います。
それは音楽だけの話ではありません。経営、ブランドマネジメント、PR、企画、編集、クリエイティブの現場では、成功した型ほど疑われにくくなります。強いブランドほど、自分の「らしさ」から逃げられなくなる。優れた戦略ほど、次の違和感を処理してしまう。
坂本龍一さんの創作を読むことは、私たち自身の成功体験が、いつ思考を閉じるのかを読むことでもあります。
自由は、いつも解放の顔をしてやってきます
自由は、いつも解放の顔をしてやってきます。何を選んでもいい。どこへ進んでもいい。どんな音色も、どんな様式も、どんな文脈も扱える。創作者にとって、それは理想のように見えます。企業も同じです。勝ち筋が見え、ブランドが認知され、語るべき言葉が整い、成功の再現性が高まっていく。迷いは減り、判断は速くなる。
しかし、その速さが危うい。
成功体験とは、単なる過去の勝利ではありません。判断を先回りする型であり、周囲から期待される「らしさ」であり、自分を自由にしてくれたはずの構造です。人は、失敗によってだけ閉じ込められるのではありません。むしろ、うまくいった方法によって、より深く閉じ込められることがあります。
1984年に発表された『音楽図鑑』は、坂本さんの初期ソロキャリアにおける重要作として語られてきました。YMOでの度重なる過激な擬態を経て、『戦場のメリークリスマス』で国際的な評価を得たあと、坂本さんは作曲家としてきわめて高い自由度を手にしていました。クラシック、現代音楽、テクノ、ポップス、映画音楽、民族音楽。どの文脈にもアクセスでき、それらを組み替え、美しい作品へ編み上げることができた。
普通なら、それは勝利の状態です。
けれど、『音楽図鑑』の奥で鳴っているのは、勝利の高揚だけではありません。むしろ、勝利してしまった者だけが抱える、静かな不穏です。
音楽をつくれなくなったのではない。つくれてしまうことに、危機を感じていたのではないか。
このアルバムは、成功体験という檻の内側で、その檻そのものの音を聴こうとした記録なのです。
設計できる者の不自由
坂本龍一さんは、音楽を構造物として扱うことができた作曲家でした。感覚だけで音を並べるのではない。形式を理解し、文脈を読み、音色の配置、リズムの制度、和声の記憶、身体に刻まれたクラシックの運動まで含めて、音楽を設計できた人です。
東京藝術大学で作曲を学び、スタジオの現場を経験し、YMOではポップミュージックを記号として組み替えた。『B-2 UNIT』では前提を壊し、『左うでの夢』では曖昧な無意識へ近づき、『戦場のメリークリスマス』では映画音楽としての美へ統合してみせた。つくる。壊す。引用する。様式化する。ずらす。統合する。それらすべてを、選択肢として扱うことができた。
しかし、選択肢が増えるほど、人は自由になるとは限りません。経営でも同じことが起こります。複数の勝ち筋を持つ企業は、一見すると強い。けれど、いつのまにか「過去にうまくいった判断」へ戻っていく。ブランドも同じです。語れることが増えすぎたブランドは、最後には「自分たちらしさ」という安全地帯に閉じこもる。
音楽の創作もまた、同じ罠にはまります。何を選んでも成立する。どの様式でも完成する。どんな音でも「坂本龍一」の音楽になってしまう。そのとき、作家は自由なのではありません。自分の形式が強くなりすぎて、そこから出られなくなっているのです。
才能とは、ひとつの構造です。そして、その構造は成功するほど透明になります。本人にはもう見えません。周囲はそれを「らしさ」と呼び、市場はそれを期待し、批評はそれを文脈化し、ファンはそれを愛します。こうして作家は、自分の名前によって囲い込まれていく。
坂本さんが『音楽図鑑』で戦っていたのは、外側の敵ではありません。自分自身を成立させている構造そのものでした。
成功体験は、自由を偽装します
自由とは、制約がなくなることではありません。制約が見えなくなることです。YMOという仮想敵、グループ内での役割、ポップミュージックの制度、テクノロジーの新奇性。そうした外側の圧力から距離を取ったあと、坂本龍一の前には広大な自由が残りました。
しかし、その自由は空白ではありませんでした。そこには、西洋音楽の構造、作曲教育の記憶、成功体験の型、そして「坂本龍一らしさ」というブランド化された期待があった。自由になった瞬間、人は自分の内側にある制度と向き合うことになります。
企業やブランドも同じです。競合から解放された企業は、自社の成功モデルに縛られる。強いポジションを得たブランドは、そのポジションを守る言葉しか発せなくなる。PRがうまくなった組織ほど、社会との摩擦そのものではなく、摩擦を処理する技術だけが洗練されていく。
すべてがうまく回っているとき、静かに何かが死んでいく。
成功体験は、人を自由にします。けれど同時に、その自由の使い方まで決めてしまう。過去にうまくいった方法は、次の判断を速くします。その速さは合理的に見える。しかし、速すぎる判断は、まだ言葉になっていない違和感を消してしまいます。『音楽図鑑』には、その不穏な気配があります。
音は美しく、構造は緻密です。けれど、その奥に、作曲家が自分の手つきを疑っている感触がある。自分が美しくまとめてしまうことへの不信。すべてを音楽として成立させてしまう能力への抵抗。坂本龍一さんは、もっと自由になろうとしたのでなく、自由そのものを疑ったのです。
自動書記という、自己破壊の技法
そこで坂本さんが取り入れた方法のひとつが、「自動筆記」(※1)と呼ばれるアプローチでした。それは、思いつきで音を出すことではありません。自分の意図が音楽を支配しすぎることへの抵抗です。作曲家がすべてを決める。作曲家が構造を与える。作曲家が意味を統御する。その近代的な作家像を、一度壊す必要があった。
シュルレアリスムにおけるオートマティスムは、理性による統制や美学的判断を外し、無意識の流れを表現へ取り込もうとする方法でした。坂本龍一にとっての「自動筆記」もまた、意識の外部を音楽へ呼び込むための手段だったのでしょう。
シンセサイザーやシーケンサーは、ここで単なる機材ではなくなります。それらは、作曲家の意識を迂回する装置になる。フレーズを入力し、反復させ、ズレを生み、人間の手癖だけでは出てこない関係を立ち上げる。そこに偶然が入り込み、作家の意図は少しだけ遅れてやってくる。
ただし、偶然にすべてを明け渡したわけではありません。完全な即興でも、完全な放棄でもない。偶然を呼び込みながら、最後には耳で判断する。編集する。残す。捨てる。自分を壊すためのプロセスさえ、最後には自分の耳で引き受けている。
ここに、このアルバムの緊張があります。構造から逃げようとする。しかし、逃げようとする身振りそのものが、またひとつの構造になる。
経営で言えば、イノベーションを制度化した瞬間、そのイノベーションは管理可能な手続きへ変質していく。PRで言えば、「真正性」を演出し始めた瞬間、それは真正性から遠ざかる。ブランド論で言えば、「らしさ」を守ろうとした瞬間、そのらしさは生きた感覚ではなく、管理された資産になる。
坂本さんの自動筆記もまた、その矛盾の中にあります。
イーノとの共振、そして坂本龍一の逃げきれなさ
ブライアン・イーノ(※2)の存在は、この文脈で避けて通れません。
イーノは、作曲家を「すべてを決定する主体」から、「音が生まれる条件を設計する者」へとずらした人物です。偶然性、ループ、生成、環境。音楽を作品ではなくプロセスとして捉える視点は、坂本さんにも強く影響を与えていました。
しかし、坂本さんはイーノにはなりませんでした。イーノが環境やシステムへ向かう一方で、彼は旋律へ戻ってくる。和声へ戻ってくる。偶然を導入しても、そこには端正さが残る。ズレを呼び込んでも、最後には音楽としての品格が立ち上がる。
これは弱さではありません。坂本龍一という作曲家としての、構造の強さです。
自分を消そうとしても、身体に刻まれた音楽の記憶が出てくる。西洋音楽から距離を取ろうとしても、深いところからバッハやショパンの構造が立ち上がる。理性を退けようとしても、理性は美として戻ってくる。
『音楽図鑑』が単なる実験音楽にならない理由は、ここにあります。このアルバムは、自分を消そうとして、消えなかったものを引き受けた作品です。そして、その「消えなかったもの」こそが、成功体験の正体でもあります。過去の勝利は、記憶として残るだけではありません。身体の反応になり、耳の判断になり、指の動きになり、作品の奥から勝手に立ち上がってくる。
坂本さんは、それを排除しようとしたのではない。それがどこまで自分を支配しているのかを、聴こうとしたのです。
自動筆記を聴く
『音楽図鑑』を考えるうえで重要なのは、このアルバムが「完成品」としてだけではなく、制作のプロセスそのものを含んだ作品として立ち上がっていることです。
坂本さんは、制作について次のように語っています。
音楽でも、僕の場合はそうなんですけれども、いつもつくるプロセスというのが一番おもしろい。メディアというのは、本当はうそをついていて、メディアを通して皆さんの聴くものというのは、結果でしかないけれども、僕たちが実際楽しんでいるのは、そのつくるプロセスなんですね。そのつくるプロセスを与えるメディアというのは、いまは余りないから、あいまいな形でパフォーマンスと呼んでいるんですけれども。
(『音楽芸術』第42巻第8号、1984年8月号)
また、美術手帖の記事「日記という表現形式──音楽のエラボレーション」では、『音楽図鑑』のレコーディングが1983年1月に始まり、そこには「シュールレアリズム的な自動筆記」を実践し、「先入観無しに出て来るものを記録」する意図があったと紹介されています。
この作家の数少ない一貫性と言えそうな特徴がここに見られる。つまり、結果ではなく「プロセスを与え」たいのだ。
(松井茂/詩人、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授)
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s67/26967
ここで大切なのは、統御できてしまう作曲家が、その力を疑うための方法として、自動筆記を必要とした。鍵盤に触れる。音色に触れる。フェアライトCMIをはじめとする機材が、予期しないテクスチャーを返してくる。その響きに身体が反応する。そこから次の音が出る。
ここに、『音楽図鑑』の自動筆記があります。
「TIBETAN DANCE」:身体化した記憶(アジア)との遭遇
この方法を象徴的に聴かせる楽曲として、まず「TIBETAN DANCE」があります。この曲は、アルバムの入口に置かれた、高揚感のある楽曲です。ここで鳴っているのは、単なる「異国趣味」ではありません。YMO時代に緻密なロジックとして構築されていたオリエンタリズム、つまり方法論としての「東洋」とは、少し質が違います。
YMO当時、坂本龍一さんは細野晴臣氏の提唱するチャンキー(エキゾチック)サウンドに対峙し、緻密な西洋音楽のロジックや記号論的パロディとして東洋風の曲(『東風』『千のナイフ』など)を極めて自覚的・批評的に構築していた、YMO散開直前の頃のエピソードです。一切のコンセプトを排してスタジオに入った坂本龍一さんは、無意識に指が動くままに身を任せた(=自動筆記した)、と言います。批評性やロジックというフィルターをすり抜け、本人の意図(主格の意志)を超えたところで生まれたもの。それがこの楽曲を貫く旋律であり、「固有のアジアの旋律」でした。この「自動的に引きずり出された」という発生プロセスこそが、自動筆記の強力な根拠です。
自伝『音楽は自由にする』(新潮社)をはじめとする様々な回想録では、「自分の中にこんなもの(アジアの記憶)が眠っていたのかと驚いた」という主旨の言葉も多く残しています。
作為を排したら、空白が生まれるのではありません。作為を排したからこそ、身体に沈んでいた記憶が出てくる。この点で、「TIBETAN DANCE」は『音楽図鑑』の核心に近い曲です。
成功体験とは、意識の表面にある思い出ではありません。本当に強い成功体験は、身体化するのです。耳の判断になり、指の動きになり、美しいと感じる反射になります。本人がそれを使おうとしなくても、音の中に戻ってくる。
「TIBETAN DANCE」は、坂本龍一が自分の成功形式を破壊した曲ではありません。むしろ、自分の中にある形式が、思わぬかたちで戻ってきてしまった曲であり、そこには、作曲家が支配した音ではなく、作曲家自身を通過してしまった音がここにはあります。
「M.A.Y. In The Backyard」:人間的ロジック(拍子)からの逸脱
もう一方、「M.A.Y. In The Backyard」にも触れておきたいと思います。
この曲は、後年、映画『君の名前で僕を呼んで』(2017年米国公開、日本公開は2018年)でも使用され、近年あらためて耳にした人も少なくない楽曲です。ただし、ここで注目したいのは、映画での再発見ではありません。『TIBETAN DANCE』がアルバムの入口として身体を大きく動かす曲だとすれば、「M.A.Y. In The Backyard」は、もっと小さく、もっと気まぐれな音のスケッチです。
ここには、大きな物語を語ろうとする身振りがありません。英雄的な主題も、劇的な展開も、強いメッセージもない。むしろ、裏庭にふと現れる小さな動き、予測できない歩幅、止まったかと思えば急に方向を変える気配のようなものが、変拍子のミニマルな運動として写し取られています。
タイトルの「M.A.Y.」は、裏庭(Backyard)に集まる野良猫たちに名付けた名前の頭文字に由来しています。坂本さんは、猫という人間的なロジック(小節や拍子)を持たない野生の存在の動きをモチーフに、スタジオの機材(1984年に導入されたフェアライトCMIのPage Cと呼ばれるステップシーケンサーなど)を使って、手なりの即興で音を並べていきました。これまでの「起承転結のあるポップスの構造」を完全に放棄し、環境のノイズや現象をそのままスコア化するアプローチです。
つまり、強い主格の意志ではなく、目の前の現象、環境の動き、気まぐれなノイズに身体を合わせていく。これは、『音楽図鑑』の自動筆記が、内側の記憶だけでなく、外側の環境へも開かれていたことを示しています。
この視点は、のちの『async』や『12』にもつながって見えます。先に紹介した美術手帖の記事も、『12』をめぐって、坂本さんがシンセサイザーやピアノに折々触れながら、日記を付けるようにスケッチを記録していったという言葉を紹介しています。
もちろん、「M.A.Y. In The Backyard」から『async』や『12』へ一直線に発展した、と断定する必要はありません。むしろ、坂本龍一の創作に繰り返し現れる「日記性」や「プロセスを聴かせる」感覚の、早い時期の萌芽として聴くほうがよいでしょう。
「マ・メール・ロワ -0014-02-MAY16」:完成という調和の破壊
そして、この章で最も重要なのが、2015年発売の『音楽図鑑』デラックス・リマスター盤に収録された「マ・メール・ロワ -0014-02-MAY16」です。美術手帖の記事によれば、1984年10月のアルバム発売当初「マ・メール・ロワ」として収録されたこの佳曲の制作プロセスを見せた作品、それがこの楽曲。オリジナル版の「マ・メール・ロワ」には、ひばり児童合唱団、近藤等則さんのトランペット、デヴィッド・ヴァン・ティーゲムのパーカッションが加わっていますが、「MAY16」はFairlight CMIによるシンセサイザー・ソロです。
「MAY16」は、完成版から装飾を剥ぎ取った単なるデモではありません。むしろ、自動筆記によって立ち上がった骨格が、そのまま露出している音源として聴くことができます。美術手帖の記事では、坂本さんがこの録音について「骨組みっぽい」「鯨の骨みたい」と語り、Fairlight CMIによる「変な音」に惹かれながらも、そのままでは結果が見えていて「ほころびがない」ため、それを壊すために近藤等則さん(トランペッター)を呼んだ、というエピソードも紹介されています。
ここには、『音楽図鑑』における自動筆記の本質が露出しています。自動筆記とは、ただ偶然に任せることではありません。むしろ、出てきたものが「完成」に近づいた瞬間、その完成を疑うことです。骨組みが見えた。結果が見えた。きれいにまとまりそうになった。だから、そこに「ほころび」を入れる。壊す。異物を呼ぶ。完成へ向かう力に、別の力をぶつける。
これは、まさに成功体験という檻への抵抗です。
成功体験は、スピード感をもって再生産されます。過去にうまくいった耳が、次の音を先に選んでしまう。過去にうまくいった構成が、作品を安全にまとめてしまう。過去に評価された「らしさ」が、未来の違和感と可能性を消してしまうのです。
成功体験からの逃走とビジネスでの応用
坂本龍一さんは、成功体験の危険をかなり早い段階で感じていた。だから、先入観なしに出てくるものを記録しようとした。骨組みが見えたものに、さらに「ほころび」を入れようとした。完成を完成のまま閉じず、プロセスの揺れを作品の中に残そうとした。
PRストラテジストの視点から見れば、ここには現代のブランド論やコンテキストデザインにも通じる示唆があります。
戦略は、先に設計されます。誰に届けるのか。何を伝えるのか。どの文脈に置くのか。どんなブランド資産を使うのか。経営も、PRも、ブランディングも、まずはこの作業から始まります。設計がなければ、表現は散らばり、メッセージは届きません。
しかし、設計が強すぎると、大切なものを見落とします。
顧客がうまく言葉にできない不満。現場だけが感じている違和感。数字には出ていないが、空気だけが変わっている兆し。そうしたものは、既存の戦略には乗りません。多くの場合、「例外」や「ノイズ」として処理されます。しかし、新しい表現や市場は、しばしばそこから生まれます。
『音楽図鑑』の自動筆記は、この危うさへの抵抗として聴くことができます。あらかじめ「こういう曲にする」と決めきるのではなく、スタジオで出てきた音に耳を澄ませる。フェアライトCMIの音色、鍵盤の手触り、偶然生まれた響きに反応する。出てきたものを、すぐに既存の構成へ回収しない。
戦略で言えば、市場を支配する前に、まだ市場になっていない気配を聴くこと。ブランドで言えば、「らしさ」を守る前に、「らしさ」からこぼれる違和感を消さないこと。PRで言えば、伝えたいことを押し出す前に、社会の側でまだ言葉になっていない現象を拾うこと。
『音楽図鑑』には、成功体験が檻になる瞬間と、その檻に小さな穴を開ける方法が、同時に刻まれています。
違和感は、構造がまだ支配できていないもの
では、私たちは『音楽図鑑』から何を受け取るべきなのでしょうか。
それは、「違和感を大事にしよう」という柔らかい教訓ではありません。違和感とは、構造がまだ支配できていないものです。効率化されたビジネスの現場で、まだ名前を与えられていない不安や不満。数字には出ていないが、確かにそこにあるズレ。既存の言葉では拾えない声。それを見つけ、聴き取り、言語化することです。
坂本さんの姿勢を現代のビジネスに翻訳すると、たとえば、大和ハウス工業の「名もなき家事」は、その好例でしょう。住宅企画の過程で、社会に広く流通していた「家事分担」という言葉に違和感を持ち、その背後にある「名前すらない家事」の存在を見い出し言語化した。見過ごされていた負担に名前を与えたことで、商品開発だけでなく、社会的な議論を生み出しました。
違和感を見つけるとは、効率の外側に一度立ち止まることです。
構造がまだ支配できていないものに、名前を与えることです。
坂本龍一さんが『音楽図鑑』で行ったことも、これに近いのではないでしょうか。出てきた音を、すぐに完成へ回収しない。違和感を、ノイズとして処理しない。完成しそうになったものに、あえてほころびを入れる。
そこに、創作とビジネスをつなぐ補助線があります。
成功体験という檻から逃げる
『音楽図鑑』は、完成度も高く、今でも大変人気の高いアルバムです。しかし、その完成度を称賛するだけでは、この作品を聴いたことになりません。ここで鳴っているのは、完成へ向かう力と、完成から逃げようとする力の衝突です。
坂本さんは、自由を求めたのではありません。自由の中にある拘束を見ようとしました。
自動筆記は、そこから抜け出すための技法でした。偶然性は、そのための裂け目でした。フェアライトCMIの音色も、シーケンサーの反復も、予期せぬズレも、作曲家の意図を少しだけ外へ連れ出すための装置でした。このアルバムが今も古びないのは、そこに未解決のものが残っているからです。完成しているのに、閉じていない。美しいのに、どこか不穏である。自由なのに、自由そのものを疑っている。この矛盾を消さなかったところに、『音楽図鑑』の強度があります。
うまくいっている戦略。整ったブランド。磨かれたメッセージ。再現性のある成功モデル。それらは必要です。しかし、それらが強くなりすぎたとき、人は未来ではなく、過去の勝利に従い始めます。
成功体験は、人を前に進めます。だが、それが身体化されすぎると、人は自分の判断ではなく、自分を成功させた型に従い始めます。坂本龍一さんは、その檻の内側で、檻そのものの音を聴こうとしました。
『音楽図鑑』が今も不穏に響くのは、そこに自由の歓びだけではなく、自由を疑う知性が刻まれているからなのです。
今回も長文投稿を最後までご覧いただき、本当にありがとうございます。
本シリーズでは、デビュー前の坂本龍一さんの活動から『音楽図鑑』に至るまで、そしてそれ以降の作品をたどりながら、創作を突き動かしたであろう氏の知性の動きを分析・整理していきます。あわせて、構造的なアナロジーとして、経営やPR、ブランドにおける示唆にも触れながら、毎週週末に更新していきます。
次回は正式なデビュー前の様々な活動や、実験的なコラボアルバム『Disappointment–Hateruma』(1976年)の分析を通じて、音楽を設計可能なものへと昇華していくプロセスと、そこからの学びについて考察します。
是非ご覧ください。
注釈・参考資料
※1「自動筆記」
これはもともとアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』(1924年)で「オートマティズム」として定義した方法論で、理性や計画を排し、無意識の流れに任せて創作するという考え方。同書でオートマティズムは「自動現象」(巌谷國士訳)と訳され、また一般的には「自動記述」という言葉が定着していますが、坂本龍一さんが当時より説明に使用していたこの「自動筆記」という表現を、本稿でも採用します。
※2「ブライアン・イーノ(Brian Eno)」
イギリス出身の音楽家、音楽プロデューサー。1970年代にロックバンド「ロキシー・ミュージック」でデビュー後、聴き手の意識を強制しない独自の音楽概念「環境音楽(アンビエント・ミュージック)」を提唱・確立した。プロデューサーとしてもU2、デヴィッド・ボウイ、コールドプレイなどの名盤を多数手がけ、ポップ・ミュージックの構造を拡張し続ける、現代音楽界屈指の知性派イノベーターである。
坂本龍一とブライアン・イーノは、互いの音楽性と哲学を深くリスペクトし合った、「盟友」であり「時代の伴走者」として、ポップスから環境音楽へのシフト、そして環境問題へのアプローチにおいて深く交錯している。
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