『殴り殴られ詩人酒場』ep.92「二十一歳、文士の留守番」
「朔ちゃん、悪いけどえりまきとってきてくれるかい?」
「ほれ。」
俺は花紺青の毛織をイヨさんの肩に掛けた。
「おや、ずいぶんと気が利くじゃないか。」
「まあ、たまにはな。」
彼女は襟巻の端と端とを結びつつ、肩で笑った。
「そうだ。財布は持ったかい?」
「持ったよ。」
「じゃあ、手帛は?」
「入ってる。」
「そしたら傘、傘持ってったらどうだい?」
「わかった、わかったから。」
イヨさんは傘を押し除けると、外に向けて敷居を跨いだ。
「急がないと、列車が出ちまうよ。」
「あと……」
俺が着物の襟に手を突っ込むのと時を同じくして、
「それより縁側で寝るんじゃないよ! 風邪ひくからね。」
「んだよ。子どもじゃねェんだから……」
「それから……」
「行けよ、列車が来ちまうんだろ?」
「言われなくたって行くよ! あんたが呼び止めたんだろう、朔ちゃん。」
俺はきまり悪く、後頭部を掻いた。
イヨさんは早足で歩き出す。
下宿と曲角のちょうど中間あたりでくるりと振り向いた。
「気ィつけてな。」
再び歩き始めた背に、俺は唇だけで言った。
雪解けの後の澄んだ泥濘も、陽の煌々と照るというのに濡れたままであった庇も、もうまもなくからりと色を淡くしそうな昼の刻のことである。
俺は玄関掃除もそこそこに室へ入った。
鼻唄でもうたいたいような気分であったが、あいにくなにも思いつかず、ただ首を捻るにとどまった。
「さて。」
仏壇の干菓子をひとつ、拝借した。
白菊を舌の上で溶かしつつ、思い出したように鈴の縁を打つ。
「ちょっと、失敬。」
菊の溶けきらぬうちに、鈴の音の切れぬうちに──
俺は急き立てられるが如く仏壇下の抽斗を開けた。
そこには、陽に焼けた封筒だの、いつのものやも知れない活動写真の切符だのに紛れ、朝日が八本しまってある。
急ぎ足の桜をまとうそれを襟の裡へとしまった。
それから俺は土間へ降り、空色の罎の栓を抜いた。
わっ立ち昇る匂いにたじろぎつつも、もう後にはひけぬと掌に罎の口を傾けた。
空色の硝子を撫で、指を這い、手首をつたった無色透明の液体が着物の袖を濡らす。
わずかに掌に残る透明を舌先で舐めとった。
唾液と混ざり、喉へと落ちたその瞬間、液体は色なき炎へと変わる。
胸骨の裏まで灼き切って、胃に落ちたきり黙ってしまった。
意識の方には然したる変化もなく、「勝った」と誰にともなく、重い匂いの残る舌の上で唱えた。
陽で温まった縁側にどっかりと胡座をかいた。
二、三、背後を振り向いて、襟の裡から朝日を取り出した。
背を丸め、唇で一本引っ張った。
「熱っ!」
擦ったばかりの燐寸を俺は思わず、すっ飛ばした。
存外大きく灯った炎が親指を包んだのだ。
甘錆の如き匂いが鼻の付け根に凝る。
「今度こそ。」
呼吸に乗せ、煙を飲む。
煙は肺の中で温かな綿花の如く膨れていく。
仄かな睡気が睫毛の先から流れ込んできた。
大あくびを空に向かって打ち上げてみる。
縹を薄めた空に、ぽっかりと浮かんだ白雲はなにとも言わぬうちに散り散りにたち消えた。
微睡む間にも、火の先からは煙が一筋、薄縹の天井をめがけて昇って行く。
──案外、悪くない。
昼下がりに朝日を握り、呟いた。
しかし、それは束の間のことであった。
「この出来損ないめ……」
俺は己の肺を恨んだ。
苦し紛れに吐いた言葉すら、途切れに途切れた。
胸を殴り、喉をおさえる。
咽せ込むたび、袴の膝に灰が落ちる。
喘ぎ喘ぎ、床板の縁を左の手で掴み、沓脱石に火を押し付けた。
土の上には煤と化した三本の燐寸棒と吸い口の潰れた煙草が一本、落ちている。
咳の疲労と透明な炎の熱に浮かされ、俺は眠っていたらしい。
気づけば畳に身を横たえ、裏庭を眺めていた。
ちょうど眼の高さで、石蕗の花が揺れている。
花と花とが寄り集まって咲き、鞠の如く風に乗って遊ぶ。
俺はつい触れたくなって、草履をつっかけ裏庭へ出た。
しばらくぶらぶら、歩いてみた。
石蕗の十歩先には水仙が群れ、その上で蝋梅の黄色が陽に透けている。
胸をだるくする暖色の香りが乱気流の如く入り混じっている。
傍らの葉蘭の茂みの中ほどには、まだ雪が溶けきらずに残っている。
鬱蒼とした葉陰に光を与えた。
見慣れた景色のはずなのに、俺の心は鞠よりも高く弾むようだった。
花をつけたまま茶色く色を変えた紫陽花だの、立ち枯れの夏草を突き上げ顔を出す福寿草の蕾だの、そのどれもが俺の心を躍らせた。
音もないままに。
母屋の突き当たり、八手が綿帽子の如き花を咲かせ、風に揺れている。
「相変わらず、おめェは冬の打ち上げ花火みたいだね。」
物言わぬ花に声を掛ける。
返事がないのをいいことに。
少年の日にも、俺はこうして八手に声を掛けた。
──なあ、上原。便所草なんかに声掛けて、おめェはおかしな奴だな。
はっとして振り返る。
ただ、あの揺り椅子が傾きかけた陽を浴びて、縁側の隅で微かに揺れるのが壁づたいにぼんやり見えるのみである。
「そりゃァ、そうだ。」
独り言をこぼし、俺は笑った。
ふいに風が前髪を揺らした。
椅子もまた、風に揺れる。
昨日の今時分まで、薄暗い物置にただひとり、ぽつねんと埃の蒲団で眠っていたとは俄かには信じられぬほど、橙の夕光がよく似合っている。
俺は肘掛けに触れ、揺れを止めた。
俺は揺り椅子に腰をかける。
新しい玩具を手に入れた幼児の心持ちで。
ひとつだけまだ白い左の橇が軋り音を上げる。
まだどこか、ぎこちない。
履き慣れない靴で遠くまで歩いてきてしまった時のように。
籐が吸い込んだ橙の陽の温みが背を包む。
ゆらり揺らすと、きしり、と答える。
きしり、と聴けば、ゆらりと返す。
俺は揺り椅子に身を委ねた。
繰り返すうちに、軋る音は寝息へと変わっていた。
軒下に揺れる、残りの干柿を味のするかしないかほど、それこそ働き蟻の運べる程度に噛んでは本の頁を繰る。
椅子に揺られながら、切れ切れに夢を見た。
繋ぎ合わせても一本線にはなり得ないであろう色違いの夢を。
夢の切れ目に訪れる凪いだ眠り。
膝の上にわずかに感じる文庫本の重み。
日の暮れゆくさまを瞼の先に感じる。
──淺井さん
「淺井さん、郵便です。」
「はい。」
切れ切れの夢は完全に切れた。
俺は残りの柿を口に放り込む。
籐の椅子が揺れている。
いつの日かの、少年の夢の始まりをひとつ乗せて。
↑
詩人酒場はここに。
大正時代にいってらっしゃいませ。
↑
直前の話。
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習作の短編集がやっと完結しました。
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貝原瑞樹、最近いないけど、生きています。
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ゆきお様・解説
すでに成人した上原朔也が子どもじみた悪戯をしている理由とは。
ぜひ、解説をお読みください。
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