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ゲオスミンの晩──『水辺のつつじ』ep.53

帰り道、僕はアイスクリームを買った。
どういうわけか、二つも。

「お箸つけますか?」
「はい。」
レジ打ちの同い年くらいの男性は「あ。」と言って割り箸を引っ込めた。
僕は遅れて「あ。」と思った。
「温めますか?」
「あ、はい……」
「え……」
彼は訊いておいて、参ったなの顔をした。
たぶん、後頭部を掻こうとしてやめたらしい指が遠回りしてプラスチックスプーンの束に突っ込まれる。
「スプーンは……」
「ひとつ、お願いします。」
明らかに二本摘んでいたものを、器用に一つだけ爪弾いた。

──ありがとうございました。
最後の三文字くらいが忙しなく追いかけっこをした。
レジ袋を受け取った僕はあくびをひとつ。
彼は制服の袖で目をこすりながらおでん鍋のはんぺんを叩いている。
見えない眠気は蛍光灯の白さの中に砕けて消えた。

季節のわりに、暖かな午後だった。
レジ袋の中を覗く。
当然だけれども、今買ったばかりの二つのアイスクリームが並んでいる。
「急げ。」
前向きに急かされて、僕は小走りでアパートを目指した。

「ただいま。」
もちろん、返事はない。
むしろあっては困る。
でもこれは僕の癖であり、安全確認でもあり、一番は、戒めである。

相変わらず白菜は玄関のど真ん中にどっかりと居座っている。
「おかえり。」なんて言われている気がして僕はつい、目を逸らした。

額に薄らと浮いた汗を手の甲で拭う。
まだ、息は弾んでいた。
レジ袋の中では、ふたつの円柱形が冷たく汗ばんでいる。

僕はふと、数分前を思い出した。
まるっきり同じ味のカップアイスをふたつ、レジに置く大学生風の、または世間一般にはそれらしい年齢の人物。
僕が彼でも同じくプラスチックスプーンを二本、袋に投じただろう。

ここまで思い出しておいて、僕はもらったスプーンのことを忘れている。
それは、レジに立つ彼が恐らくもう僕を覚えていないであろうことと同じように。
冷凍庫から漏れた冷気が白雲の如く低くたなびいた。

台所の引出しを開ける。
いつの間にか増えていたカトラリーの中で、唯一どれとも対にならない銀のスプーン。
僕はつい、これを選んでしまう。
実家から持ってきた、数少ない家財道具のひとつだ。

ベッド前のローテーブルの上、水仙の花は息絶えていた。
その前にアイスを置く。
期せずして供物のようになってしまい、なんとなく食べることが憚られた。

ぶぶ、とスマートフォンが床を這う。
立ち上がる気力もなく、僕は身体を横倒しに腕をめいっぱい伸ばした。
中指の第一関節の分だけ届かないもどかしさに変な快感を覚える。
「気色悪いな。」
僕は僕自身を揶揄からかった。

結局、身を起こしてスマートフォンを手に取る。

大量の着信とメッセージの通知に指先から熱が引いていくのを感じた。
慌てて折り返そうとして、指を止めた。

「おはよう」に始まり、
──起きてる?
に続き、「駅伝みた?」と来て、
瑞樹みずき君」とか「ねえ」なんて、まるで隣にいるかのような呼びかけに終始していたからだ。
「らしくない」と思った。

僕はようやくアイスクリームの蓋を開けた。
ラムレーズン──僕が絶対に買わない、「らしくない」味だ。
溶け始めた表面を掬う。

──生駒いこま君の走り見た?
──かっこいい
──瑞樹君、会ったことある? 同じ学科だよ?

訳もわからないままに、跳ね上がっていく心拍数。
それとは反比例して冷えていく頭の芯。
身悶えを懸命に堪えるように浅く呼吸を繰り返す。

震える指でリモコンのスイッチボタンを押し込んだ。

ちょうど、彼女と僕の通う大学の選手たちのインタビュー映像が流れていた。
おためごかしのご都合主義的展開に、僕はくだらない小説の主人公にでもなった気分で虚ろに笑った。

結論、生駒君は努力の人だった。
ゆうかのいう通り「かっこいい」人物だと感じた。
それは、純粋な感情から生まれた感想である。
一見すれば、自信漲る新進気鋭の一年生。
ワイプの中、額の汗を拭いながら浅く呼吸を繰り返す彼はそれこそ英雄ヒーローそのものだった。
紫紺のタオルはマントの如く、彼の背を包み込んでいる。

しかし、僕には輝きの裏にある彼の葛藤や苦しみ、痛みが見えてしまった。
それでいて、自信漲る生駒君に畏怖を覚えた。
いや、畏怖かどうかもわからない。
何かわからなかった。

ラムのアルコールが僕を拐う。

その実、僕は生駒君を知らなかった。
ゆうかの言葉に寄れば、僕は彼と同じ空間で時間を共有しているらしいのだ。
僕はどこか自分が世界から見捨てられたものだと思っている節がある。

しかし、無関心は僕の方だったのかもしれない。
独りでいることを肯定したかったのかもしれない。「一人」を「独り」と同意義にしていたのかもしれない。
いや、「ひとり」を「惨め」の象徴に仕立て上げ、「可哀想な僕」に酔っていただけかもしれない。

僕の身体はあまりにも綺麗過ぎた。
目に見える傷なんてひとつもない。
だからこそ可哀想であるために、自分で自分を傷つけて、それを抉っては「ねえ見て。」と子どもみたいに世の中に甘えていただけかもしれない。

目が覚めた。
すでに陽は沈んだ後だった。
何か夢を見た気がする。
けれど思い出せない。
思い出してはいけない気がしていた。

溺れたあとに似た、喉の閉まるような痛みに横向きのまま呻いている。
不思議と苦しくはなかった。
胸は心臓の形に抉られて、空っぽになっていた。
透明な血がとめどなく流れた。

カップの中のアイスは溶けていた。
テーブルの上には歪な水溜りができている。
その隣では光ったままのスマートフォンには、未送信のメッセージが困り果てうずくまっていた。

理由はわからない。
ただ走りたくなった。
らしくもなく、、、、、、、思うがままに駆け出していた。
すでに僕の身体は寒空の下で風をかき分けている。

靴紐は正しく結べているのに足はもつれた。
それでも、足を動かせば身体はおのずと前へ進んだ。
乱れ打つ心拍に、空っぽだったはずの胸の辺りの臓器を認識する。

乾き切った空気が喉を切る。
金属の錆びた匂いが鼻につく。

辿り着いたその先で、そびえ立つ灰色の塔に僕は言葉を失った。
そして、この身が世界から切り離されてどこか遠くへ去っていく感覚に襲われた。

なぜ、僕はここにいるのだろう。
空には細い月。
夜空が白く逆剥けている。
まるで指先のささくれみたいに。

C₁₂H₂₂O雨の終わりの匂いがする。
心地の良い違和感だった。
僕は瞬きすら惜しくなって、が乾くのも厭わずにずっとずっと目蓋を挙上あげている。

渇いた身体は乾かない。
乾けない。

幻想の水の中、溶け合えないまま僕は異質に佇んでいた。


【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
アルバイトを終えた貝原瑞樹はアイスクリームを買ってアパートへ帰る。
一人なのに、二人分。
独りを作って笑っている。
そんな彼の思考の行き着く先は?



直前のバイト中。


大正時代はまだ年末。
上原朔也は片付けるどころか部屋を荒らして寝る場もない。


序盤です。


ゆきお様・解説
ポイントはあの言葉。
解説をご覧ください。

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