しおりのつづき──『水辺のつつじ』ep.52
次の日、僕はひとりになった。
木島君はなんの痕跡も残さず、いなくなっていた。
いや、正確に言えば読みかけの本だけを残して。
──読んでもいいけど、しおり、はずすべからず!
「僕の本なんだけど……」
ついこぼしたひとりごとは、部屋中に響き渡った。
不特定多数が詰め込まれた室内で、ふと放ったひとことがやたらと通ってしまった時のいたたまれなさに似た感覚に、僕は口をおさえる。
横を見た。
しわひとつないシーツの上には枕が乗っている。
掛け布団は僕の身体にかぶせてあった。
水を飲もうと台所へ立った。
コップがない。
よくよく見ると、万年出しっぱなしのいつものコップは食器棚の中で乾いていた。
シンクの中は、わずかな水滴を残しているのみだった。
初めから何もなかったかのように。
──皿の一枚でも残しておいてくれれば気が紛れたのに。
全部、夢だったのかもしれない。
もしくはまだ、夢の中にいるのかもしれない。
僕は両頬を挟み叩く。
ぎゅうと瞼に力を込める。
目を開くまでもない。
目を閉じよう、そう思ってその行為ができるのだから僕は夢の外にいる。
なにやってんだか、と漫画の台詞のような感情のまま玄関の扉に目をやった。
当然のことながら、鍵は全て開いていた。
「さすが木島君。」
僕は首を振る。
木島君が部屋を出て、どれほどの時間が経っているのか僕には想像もつかなかった。
なのに、部屋を発つ瞬間の彼の表情は想像に容易くてつい、あの言葉が漏れたのだった。
相変わらず玄関のど真ん中には白菜が鎮座している。
二、三人の侵入者は追い払っていてくれたのかもしれない。
完璧なセキュリティ・システムに守られ眠っていた時間を、僕は知らない。
「お疲れ様、ありがとう。」
一体、自分は何をしているのだろう。
玄関に姿見を置かなくてよかった。
つくづくそう思う。
だって、アブラナ科アブラナ属の結球性野菜に声をかけ、その頭頂部を撫で回す十八歳の大学生なんて朗らかに不健全なものを、僕はあまり見たくなかったから。
鍵を閉め、ベッドの端に座る。
──読んでもいいけど、しおり、はずすべからず!
書き置きの文字はさっきよりもくっきりとし始めた。
文庫本からはティッシュの端がのぞいている。
僕は本へと手を伸ばす。
触れかけて、指先が躊躇った。
手のひらはそれを包み、本棚へと戻した。
顔を洗い、歯を磨く。
なんとなく胃が重くて、朝ごはんは断念した。
街はもう動き出している。
曲がり角の猛犬は、その身体を押し潰しかねないほどの門松の隣で勤勉に職務に当たっている。
その咆吼を掻き消すような二四六を走る速度超過のトラックに、負けじと駆けるハクセキレイ。
コンビニは当たり前の顔をして白い光を放っているし、コーヒーチェーンの室外機からは焙煎の熱い匂いが漂っている。
世の中は思いの外、平常運転だ。
ふいに視界に飛び込んで来たバス停の時刻表。
手書きの赤文字「休日運転」の四文字が右上がりに貼られていた。
その文字の並びとスマートフォンとを見比べる人がいる。
気が急いているように見えた。
誰かの日常は誰かの非日常。
その逆もまた然り。
不意にトルストイが通りすがって、僕は目を背けた。
「おはようございます。」
「お、瑞樹! あけおめ!」
相変わらずの人間物置……休憩室で、店長は例に違わずキャスター付きの椅子を軋ませている。
「あ、そっか……」
「ん?」
「あけまして、おめでとうございます。」
言い慣れない言葉は口の中でくぐもっていた。
キッチンからはタイルを磨く音が聴こえている。
牧野先輩だ。
「おはようございま……」
「あけましておめでとうございます。」
先輩は掃除の手を止め、恭しく頭を下げた。
「あ、あけましておめでとうございます。」
僕も同じように頭を下げた。
「おとといからそこだけやたら滑るんだよね。気をつけて。」
先輩は僕の足元を指さしている。
お辞儀の続きの姿勢のまま僕は、銀色の溝に吸われていく渦巻を眺めていた。
「でもさ、新年一発目の出勤ってどう挨拶すりゃいいかわかんないよな。」
本当にその通りだと思う。
店自体は一年間三百六十五日、開いたり閉じたりを繰り返している。
僕にとっての今年初出勤日はどうやら先輩にとっては年末からの連勤の一部のようだし、店長にとってもまた然りだろう。
僕と先輩は背中合わせでぽつり、ぽつり言葉を交わす。
開店前の店内に、僕たちの言葉は積もることなく溶けていった。
僕はレタスを千切る。
先輩は二口コンロの右でミネストローネ、左でコーンスープを温めている。
こっそり反転させると、たいていコーンスープの匂いが漂ったあと鍋はもとの位置に戻る。
もといその反転いたずらを仕掛けるのが店長なのだからどうしようもない。
今、後ろから甘いとうもろこしの匂いが僕の胃を刺激したところだ。
水出しコーヒーの機械から雫が駆け足気味に落ちる音がする。
間も無く九時──僕はひとつ、背骨を鳴らす。
自動扉が開く。
店の中には日常と非日常とが一緒になって、なだれ込んできた。
昼を待たずして、空席は埋められた。
微笑み合う家族連れの隣で、スーツを着込んだ人が忙しなくホットドッグを詰め込んで立ち上がる。
生まれた空席で、老夫婦がバニラシェイクを吸っている。
隣席の子どもが泣くのを一緒になってあやしている。
座席は点滅するみたいに埋まったり空になったりを繰り返す。
慌ただしさに押し流されて、気付けばシフトを終えていた。
なんだか電車で寝過ごした時の心持ちだった。
僕は着替えるでもなくただぼんやりと座っている。
依然として響く電子音を聴きながら。
「おつかれさま。」
店長はかごいっぱいのポテトを手に薄く笑っている。
彼はそれを当然のことのように僕の前に置くと、「お先に」と一本つまんだ。
止まらなくなったのか、一本また一本、次から次へと口へと放り込んでいく。
僕も一本、つまんで食べた。
相変わらずのしなしな加減につい、笑ってしまった。
つられたのか、店長も笑い始める。
「店長、今日ちょっと、塩効きすぎじゃないですか?」
「え、そうかな……? むしろ俺は薄く感じるけどね。」
もう、何がおかしいのかもわからないままに僕たちは笑っていた。
程なくして牧野先輩が入ってきた。
「げっ」という顔をして「げっ」と言いながら。
「何二人してしなしなポテトみたいになってるんですか……ほんっとに……」
そう呆れていた先輩も、一緒になってしなしなポテトを喰らい、床に仰向いた。
人間物置に詰め込まれたしなしなポテトは揃って白い灯りに照らされながら、わけもなく笑い続けているのだった。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
三が日、最終日、貝原はバイトに行く。
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前の日、木島君が遊びにきた。
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白菜が玄関に置かれるようになったきっかけ。
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ゆきお様・解説
トルストイは死んでいる!
トルストイは生きていない!
でもトルストイは通るよ!
その理由がわかるよ!
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し