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『殴り殴られ詩人酒場』ep.89「芒の国の王子様」

「こ……ここは……」
「目が覚めたようだな。ここは芒の国、それも……」

景色は目尻の側で玻璃玉の如く爆ぜる。
首筋を這っていく疼きに呻きが溢れでた。

「馬鹿兄貴! 本当に首絞める馬鹿どこにいんだよ!」
草介そうすけ、おめェ……二回も馬鹿っつったな!」
「馬鹿に馬鹿っつって何がわりィんだ! 馬鹿! 馬鹿!」

咽せに咽せつつ俺は頭をもたげ、壁に背をせかけた。

「お、起きたな。秋桜の国の王子!」
「おめェらが喧嘩すっから眠れねェだろ!」
「それもそうだ。」

俺は原稿を見なかった。
この部屋の誰もが、訳もわからないままに笑い惚けていた。

「ユリちゃん、おとっつぁんとおっかさんがお迎えに来たよ!」
階下したからイヨさんが叫んだ。

「だってよ、ユリ子。」
「やだ。あんちゃんと一緒にいる。」
ユリ子は口を真一文字に結び、俺の着物の袖を引っ張った。

──ユリちゃん!

ユリ子は下唇を噛んだ。
「一」はしまいには「へ」の字になった。
瞳は水膜に覆われ、今にもたまになって落っこちそうになっている。

「なあ、ユリ子。おめェさん、時計読めっかい?」
大ちゃんは懐中時計の蓋を弾いた。
ユリ子は頷き、文字盤を覗き込む。
「十一時四十分。」
「正解。」
俺はユリ子の頭越しに文字盤を見た。
「お、まだ間に合うな……二十分はあるかね。」
ユリ子は時計鎖チェインを指に巻きつけたり解いたりして、首を傾げた。

「今日はまた特別おしゃれして。一体どこ行くんだい?」
立ち上がって「そう……?」と満更でもない顔をした。
その背では、春まで待てぬと香豌豆スウィート・ピーが揺れている。
「そうだな……舞踏会かい?」
ユリ子は右の脚を軸にくるりとひとまわりして見せた。
「それにこの朱の絹紐リボンなんて、どこの姫様かと思ったけどな。」
ユリ子は頭のてっぺんから指三本ほど下がったところに手をやった。
「お母様のお手製なの。」

──ユリちゃん!
今度は男の声だった。
ユリ子は襖を見遣った。

「では、姫様。お父様、お母様の元へ参りましょう。」
俺はユリ子に手を差し出した。
しかしユリ子は微動だにしない。
すると微風が硝子を撫でるように「おんぶ」とだけ言った。
「さあ、こちらへ。」
ユリ子は俺の背に飛び乗った。

「あんまり待たせますと、ばあやの喉が潰れてしまいます。ありゃァたださえ潰れてますもんで……」
イヨさんがちらとこちらを向いた。
ユリ子はククっと声を押し潰すみたいにして笑った。

階段を降り切ると、濡れ土の仄苦ほのにがな匂いが漂ってきた。
そのうちには花の匂いが混じっている。

「まァ、ユリ子! 降りなさい。」
「いや。」
ユリ子は俺の背に乗ったまま身をちぢこめた。

「ごめんなさいね、学生さん……ええと……」
「あ、上……」
「王子様よ、秋桜の国のね。」
名乗りきれなかった俺は、頭の後ろを掻いた。

「もう、あなた。なんとか言ってやってくださいな。車を待たせてあるんですから……」
「あ、ああ……わかってる。わかってるよ。」
促された男は、目深に被った中折れ帽の中の顳顬こめかみを掻いた。
「なあ、ユリちゃん。降りといで。お車に乗ろう。」
「やだ! 馬車じゃないもん!」
「そ……そんなこと……言わないで、ね、ユリちゃん。」
「そんな弱腰で……しっかりなさいな!」
背をたれた彼は苦い笑いを浮かべつつ、ハットをかぶり直した。
彼の背骨を粉砕した蕾糸レエスの手袋は、鮮やかな紅の口元に添えられている。

「ユリ子! わがままはよしなさい、行きますよ。今におじいちゃまのお首が亜米利加アメリカまで伸びていってしまいますよ。」
ユリ子は背を滑り降りると俺の腰の横から顔を出し、
「ならおじいちゃまが途中でここに寄ってくれればいいじゃない!」
と舌を出す。
「まァ! 口ごたえして……」
前髪を七三に撫でつけたユリ子の父親がくっくと笑った。
「もう。笑ってる場合ですか! あなたが甘やかすから……」

車夫の青年は、いななきをひとつ上げ、草履のひづめ雪塊せっかいを蹴り上げた。
「でも、西瓜じゃないもの。」
「いいえ、お嬢様。こちら、特別あつらえの長椅子ソファにございます。」
馬の蹄はあっという間に黒革の靴へと変化へんげした。
そして恭しく頭を下げた。
先に乗り込んでいた父親に手招きされ、蹴込けこみをよじ登らんとしたユリ子を青年が押し上げる。
その後に母が続く。

「兄ちゃんは? 兄ちゃんは乗らないの?」
「姫様の留守をお守りします。まァたいつ、どこぞの放蕩……性悪王子が攻めてくるかわかんねェからな。城、ユリ子が帰ってくるまで護っとく。」
「誰が性悪だって?」
大ちゃんの肘鉄砲が肋を割った。
「な、ユリ子。噂をすればだ。」
ユリ子はけらけらと笑った。
その奥で七三頭が目深に被った帽子の鍔を更に下げる。
蕾糸の手袋は空を撫で押した。
ひとまわり、ふたまわり小さな手も同じく空を撫で押した。

「では。」
青年は嘶き、土を蹴る。

俺はただ一度だけ頷いて、黒い幌が見えなくなるまで立っていた。
否。
姿なき後、車輪の回転より、雪解けの水音みずおとの方が大きくなっても俺はまだ佇んでいた。

子どもらが散り散りに帰っていく。

「朔ちゃん、いつまでそこいんだよ!」
「上原さん、戻りましょう。」
「ああ。」
二人の姿を見比べた。
それから足もとに視線を落とす。
玄関の鞠菊は残り二輪になっていた。
よく見ると、片方はもう片方より花弁の色が淡かった。
花弁の色の濃い方は、淡い方より奔放なを描いている。

二人の後ろを歩くわずかな間、俺は己の内側を見ようとした。
見えなかった。

「朔ちゃん!」

それでいい。
「今行くよ。」
この声もどうにも聴き覚えのある気もしたけれど、きっと気のせいだと咳で払った。

「悪く思うな、俺は芒の国の王子! お前をひっ捕えて幽閉してやる!」
「やめねェか、大ちゃん!」
「んだよ、もう……」
俺は畳の上を転げながら物語の続きを見ようとした。

物語は結局、透明なままだった。

──気を失った王子は哀しいかな自分の西瓜の馬車に寝かせられ芒の国へと拐われて行ったのです。

これからもきっと、色を変えていくのだろう。



ようやく居住区域も梅雨明けました。


直前の酒場。


貝原瑞樹の日々。


ゆきお様・解説
ユリ子はアブノーマルな趣味の象徴ではない、ということをきちんと説明してくださっています。

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