星なき夜に──『水辺のつつじ』ep.39
歩幅の違う僕たちは、互いにそれを合わせようとしてずいぶんゆっくりと進み始めていた。
彼女のショートブーツの隣を、僕は履き慣れない革靴でぎこちなく歩く。
ふいに足がもつれ、僕はミズキの木にぶつかった。
見れば右の靴紐が解けていて、どうやら僕はそれを踏んづけてしまったらしい。
その拍子に紙袋の中身が飛び出しかけて、慌ててそれを抱え込む。
なぜだか僕の膝は力をなくし、その場にひざまずく形になっていた。
そしてそのまま彼女に差し出した。
「ここで?」
彼女は笑う。
「ありがとう」と受け取った彼女は、中身の銀色のリボンを見つめているらしかった。
「てっきり帰ったんだと思った。」
返事がない。
見上げると、彼女はまだあのリボンを眺めていた。
「待っててくれたんだ。」
靴紐を結び直しながら、僕は言った。
「待つよ、それくらい。」
見上げようとして、同じ高さで視線がぶつかった。
彼女はいつの間にかしゃがみ込んでいたらしい。
白いコートの裾が、落ち葉を掬うことも厭わずに。
また、右足だけが縦結びになっている。
正直に言えばあの時はまだ、ずっと上手く結べないままでいいと思っていた。
そのくせ指が、手が、慄えている。
得体の知れないものに怯えるみたいに。
僕はへなへなと座り込んでしまった。
情けなくて情けなくて。
「見てて。」
彼女の指が僕の靴の紐を手繰っている。
「まず、こう。」
左から出ている紐が右の紐をくぐり僕の方を向いている。
「それから、この輪っかに紐を巻きつけて……」
ミズキの木に括り付けられた光の蔓から注ぐ光が、彼女の爪の真珠飾りを照らしていた。
「よし……できた!」
僕の右足の甲には線の細い、それでいて芯の強そうな立派な蝶々が止まっている。
僕は、その姿に見惚れていた。
たぶん、もう靴紐なんて視界の端で見切れていたと思う。
すると彼女は紐の端を引いた。
「ああ……」
蝶々は音もなく、一瞬にして解けてしまった。
「やってみて?」
彼女は微笑む。
僕はひとつ、頷いて彼女がしたように紐を手繰った。
教わった通りに指を動かしているつもりだった。
けれど足の甲にとまる蝶は頼りなく、あらぬ方向を向いている。
「ごめん、もう一回……」
気付けば僕はまた靴紐を手繰り始めていた。
しかしやはり輪は潰れ、蝶々は縦に捻れた。
「なんで?」
「わかんない……」
ケラケラと笑い出した彼女に、僕もつられて笑った。
笑うたび、自分の輪郭が少しずつ解けていく気がした。
笑い合う空気の中でふっとその熱が引いて、僕の口をついて出たのはこんな言葉だった。
「俺、ゆうかといるとだめになるんだ。」
「うん。」
「現に今も……」
光の粒が、まざまざとその現実を突きつけてくる。
「あ、でもだめになるのは瑞樹君だけにしてね。冷蔵庫の中身はだめにしないでよ?」
僕の思考は一気に冷蔵庫の中へと飛んでいた。
「えっと……」
「ん?」
「納豆、たまご、トマト……」
「うん。」
「クロワッサン……」
「クロワッサン?」
「うん、クロワッサン。」
「冷蔵庫に入れたの?」
「ううん。」
「そっか。」
「冷凍庫に入れた。」
「え? あ、保存食?」
「ううん、そのまま食べてる。」
「え……」
「変かな?」
「うーん……どうだろ。」
彼女の肩は震えていた。
寒さに耐えるのとはちょっと違う、むず痒そうな震え方をしている。
信号が赤く灯って、僕たちを立ち止まらせた。
「好き……なんだ。」
「え?」
「あの……いや……」
喉の奥が灼けるように熱くなる。
「あ! ああ! クロワッサン? クロワッサンだよね。」
彼女は指と指をぶつけたり、不自然に首を傾げたりしていた。
「瑞樹君、クロワッサン、好きだもんね?」
「……ゆうか。」
彼女の肩が、また小さく震えていた。
信号機の緑の光が崩れている。
僕たちはその光を並んだまま眺めていた。
彼女の目に、それがどんな風に映っていたのかを僕は知らない。
再び歩き出した僕たちは同じ景色を向くばかりで、お互いがどんな顔をしていたかほとんど見てはいなかった。
それでもふと気になって僕が彼女を向くときは、決まって彼女も僕の方を向いている。
「ねえ、瑞樹君。」
「ん?」
「明日って……」
「バイト。」
「もう! また?」
ゆうかはお腹を押さえてケラケラ笑っていた。
その後も僕たちは他愛もない話を繰り返した。
そして彼女のアパートにたどり着いた。
「おやすみ。」
「おやすみ、また明日。」
鍵の閉まるのを確認して、僕はまた歩き始める。
幾度見上げても今夜、星は姿をくらませたままだった。
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クロワッサンは凍らせる派?
文学部国文学科、くせ者揃い。
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直前のストーリーはこちら。
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大正時代のカフェーでふざける落第の文学青年、上原朔也の話。
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ゆきお様・解説
我が謎小説には解説が必要です。
これさえ読めば!
あなたの理解も深まることでしょう。
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