瓦礫の上の六片の花
僕がどんな思いでこれを書いたか、君は少しでも想像しただろうか?
頬杖をつく左手が尺骨神経ごと痺れてきた。
雪の窓辺、白む景色は美しかりけれど、どうにも君の指で輝く油と塩とは悪趣味だ。
顔に似合わず大きな声で、罵り言葉を乱気流に任せて撒き散らすところも。
それが才能などという凡庸な言葉と背中合わせにヌラヌラと笑っているということであればなんて皮肉なのだろう!
「でだ。」
──油と塩と唾の指が伸びてくる。
その爪がカンっとテーブルの真ん中を弾いた。
「今回の薔薇は何色?」
「え?」
懸命に思い出そうとした。
でも、薔薇はどこにもなかった。
蕾はおろか、根も張っていない。
僕は無意識に角の柔らかくなったノートを0.09ミリ単位で引き寄せる。
「どうせまた花が空を見上げちまって……」
「待宵草はやめとけ? 辛気臭えからな。」
「また水辺へお散歩だ。」
「映った顔は辛気臭くてたまんねえ!」
「脳天照らすのは満月でも新月でもない焦ったい月だ!」
「そして希望と絶望のユニゾン!」
やっぱり、雪は苦手だ。
美しかりけれど、なんて強がっても。
「あ、あのお客様……他の方もいらっしゃいますのでもう少し……お静か……」
ああ……
そうだ。
なぜ、止めなかったのだろう。
僕は僕の心のうちの渦巻きを辿ることで精一杯で……
右眼の奥で大聖堂の鐘のような重苦しい音が鳴る。
眼窩を親指でグイグイ押し込めど、鈍痛はひどくなっていく。
「じゃあこれ! とうもろこしの。あと……おい、お前唐揚げ食うか? 唐揚げと……なんだ! ほうれん草とベーコンがあるのか! とうもろこし無し! ほうれん草だ。 頼む。」
左眼だけで、それもあんまり見たくないからすごく瞼を狭くして僕は目の前の惨状を覗く。
時計は二十二時三十二分……
帽子をかぶったままの君がとうもろこしと唐揚げとほうれん草とベーコンのソテーを注文して、とうもろこしをキャンセル……
その隣で押し黙っている彼は……
薄力粉・四十五グラム、アーモンドプードル・三十グラム、全卵・六十グラム……
一体何をメモしているんだい?
ああ……
頭蓋の中で脳がくるくると回っているようだ。
それも、少し震盪している。
世界を遮断して、指先を頭の熱で温める。
人もまばらになってきた店内に不釣り合いなほどの喧騒をただの一人が築き上げている。
僕はようやくノートを膝に乗せ、こっそりと開いてみる。
水性ペンの文字が青黒く広がっていく。
ふいにニンニクと醤油と古い油の匂いが鼻をついた。
あまりに驚いた僕の口はだらしなく開いている。
「食え。」
瞬間的自堕落と化した僕の口には大き過ぎる肉塊が突っ込まれている。
こんなことをしておいて当の本人は反対の手でベーコンを隣のソーサーに摘んでは除け、摘んでは除けを繰り返している。
舌の上では不摂生への招待状が開封されていく。
明日の僕の胃が泣いている。
今から朝が来るのが怖い。
膝の上を冷たい風が掠めた。
履き潰した黒の革靴と、綺麗に磨き上げられた編み上げの黒靴……左はもぬけの殻、そして僕の茶色のショートブーツが仰向けのノートを取り囲んでいる。
いけない!
僕は鯖の泳ぐのより早くテーブルの下に頭を突っ込んだ。
口には鶏の哀しみを喰んだまま。
汚い革靴が鼻先に伸びてくる。
僕はここぞとばかりにそのとびきり白くしみったれているところを睨みつけてから身体を起こす。
──ゴッ!
鈍い音が身体を回って額の真ん中で合流した。
鼻の奥、喉の前あたりで鉄臭い温湯が垂れ落ちる感覚があった。
涙丘がじんわりと痛痒い。
蛍の光に急かされて、君は毒を、僕は弱音を吐き、彼は左の靴を履いた。
君の危なっかしい歩き方になぜ僕がこんなにも肝を冷やさなければならないのでしょう。
隣を歩く彼もまた、傘の下でまで何を熱心に。
紙の上、五グラムのベーキングパウダーで心を膨らませて。
溜め息までもが凍りつく、二月の夜。
僕の心の陰鬱は酸ヶ湯の積雪をも凌駕して、骨の折れたビニール傘からどさどさと落ちてくる。
──ドサッ!
子犬のように雪と戯れていた姿が消えた。
二十歩遅れで僕は君に追いついた。
視界の随分下の方からケラケラ笑う声がする。
「なんだ? お前ら二人して! 道路のど真ん中の電信柱みたいに突っ立って!」
振り向くと、二十五歩遅れでやってきた彼の眼鏡は真っ白く曇っている。
君はすっかり肘を埋めたまま、それこそ子犬の如く頭をぶんぶん振ってあまりに無防備に、朗らかにしているものだから極々自然に僕は目の高さを合わせられたのかもしれない。
瞬間的にぶつかった視線の手前、睫毛を凍らせる六片の花の煌めきに僕は絶望した。
僕の肩に乗った手は随分と小さくて、預けられた重みは舞う雪のように軽い。
だから、さっきまで君の八十パーセント以上を奪っていた真っ黒な業のようなものを肩代わりしようと誓ったのだ。
雪灯で逆光になった影はまた子犬のようにくるくると回っている。
もう僕の肝は絶対零度だ。
「お前の家はしけてるからな!」
君はそれだけ言って夜光虫の如く魂の抜け殻の巣窟みたいな青白い光の中に吸い込まれていった。
途端、この憎たらしい結晶どもが八の字硝子をすり抜ける砂に思えてきた。
寒さとその他で震える僕の蒼白に彼は言う。
「肉まん、いる?」
「……いらない。」
君の背を潰していた黒革のケースの中、ローズウッドが凍えている。
しばらくして君は瞳だけで笑って、声にもならない声で戦利品を自慢した。
左手の安い葡萄酒と右手のラム酒の小瓶。
そして相変わらず彼はメモをとる。
──ラム酒・10ミリリットル
そして君は左のポケットで透き通る翡翠色とコルクを揺らし、右手で小瓶のシールをまじまじと眺めている。
もう君の上に雪の花は咲かない。
代わりに僕は花にまみれている。
「おい! これは菓子作り用じゃないか!」
突然の咆哮。
次の瞬間その小瓶は宙を舞い、僕の隣の彼が両手で大事そうに包み込んでいる。
俄かには理解し難い状況に眼窩を縁取るような痛みにうずくまりたい背骨を必死に正した。
あからさまにむくれた君は食べかけの本能狂乱の実の残骸みたいなものを「持ってろ」と言わんばかりに差し出してくる。
剥き出された痛々しい本能みたいなものを見つめたまま、穢れなき君の帽子を斜め上から見ている。
不機嫌に白煙を吹き上げながら、タールまみれの声で言った。
「それ、食っていいよ。」
だめだ……
壊れかけの傘より先に僕の右腕がひしゃげてしまいそう。
あとは言葉の輪郭のない音だけが乱反射みたいに聴こえていた。
本日何度目かの絶望の中、君の右の指先から白灰の散るのが見えた。
不服そうに大きすぎる最後の一口に咽せる君と、小瓶片手にご満悦の彼と、コートのポケットを漁る僕。
君の言葉を借りるなら、笑ってしまうくらい辛気臭いドアの前で三者三様に時の砂をひっくり返している。
器用に最後の一口をだけを飲み込んだ君は、口に残した毒だけを吐き出している。
東が丘のアパートのごみ置き場。
朝捨てたごみが、そのまま残って雪の下敷きになっていた。
鈍った指先の神経で、部屋の鍵が見つからない。
「瓦礫残らず花が咲く」
もっとも、君の目には機影去し後の砂礫のように映るのだろうけれど。
僕は指先の神経のおかしいのがなぜかうれしくて、あらぬ望みを心で唱えながら少しずつまともに戻ろうとする痺れを悲しんだのだった。
依然として、空は花を舞わせていた。
二月八日のことだった。
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元ネタは私の聞き間違い。
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こっちは夏編。
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鯖シリーズ。
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いまだにわからない。
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ゆきお様・作
跳ねます。
今回は跳ねます。
雪の上、滑りません。
跳ねるんです。
跳ねた後、雪を足の裏でがっちりとらえて離しません。
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