見出し画像

夢見る鯖の青い空

青鯖が泳ぐには完璧な青空だ。

「勇ましく泳ぎたまえ!」

宿酔への冒涜だ。
俺はそんなものに屈してやらない。

目黒のしみったれた二十平米に差し込む朝日に向かって俺は叫んだ。

瞬間、肝臓が胃にラリアットをくらわせる。
窓の外に向けた人差し指がブルブルと震え出す。

「ピーピング・トム……覚えておけ……!」

毎朝毎朝ボロのベランダから覗きやがって……
あの日の、蔑んだような
俺は一生忘れないからな!

雨が降るとあいつの小便しょんべんの臭いでたまったもんじゃないんだ。
むしろあいつの粗相の臭いで翌日の天気がわかってしまうのが余計に腹立たしい。

俺はベッドから飛び降りて、積読の山に足を取られ、小趾爆裂の妄想に悶絶。

馬鹿げたクラウチングのまま、目尻のひりつきに遠い目をしてみる。

「諦めるのは……まだ……早い……」

やってる場合か?
障害物リレーの選手の如く、俺は跳ね飛んでいく。
もちろんそれはイメージだ。
あくまでもイメージ。
実際のところは絶対に読まないであろうドストエフスキーとフランツ・カフカ、そして督促状を掻き分けただけだ。

でも今日の俺は反省しない。
グワン、グワンと脳が鳴るのは耳の穴にオーヴァードライブがゲインを上げて突き刺さっているせいだ。
俺は悪くない。
断じて悪くない。

「バーカ!」
ひずんだ声を吐き出した。

電子レンジの扉には嘘みたいにすっきりした顔の俺がいる。
依然としてあのネコはじっとりとこちらを見つめている。

「おい! 見るな! 見るんじゃない! そんな目で俺を見るな!」

頭はボサボサ、服はヨレヨレ、あと酒臭い。
表情ばかりがすっきりとして、あとはすっかりダメだ。

「なあ、お前はあれからどうなんだ?」

ときたままぐわうような声で俺を怒らせているのだからよろしくやってるんだろう。

そうだ、お前ばかりいい思いをしやがって。
お前だけが次から次へととっかえひっかえして俺だけがこんなにも無様に前日、下手したら前々日の腐らせたのを延長線上に並べて生きているなんて。

思い出したらイライラしてきた。
かつて俺とお前は傷を舐め合って生きてきただろう?
いつからそんな偉くなったんだ?

だから、これ見よがしに鯖缶を米の上にひっくり返してやった。

俺は顎を引き、やや右に首を傾げる。
邪魔な前髪をふっと吹き飛ばしてから、鯖缶ご飯を一気にかきこんだ。

テレビなんかよりよっぽどいい。
崇高だ!
ピーピング・トムよ、そうだ。
その顔だ。
大いに悔しがるがいい!

俺はゲラゲラ笑いながら、片手間で口半開きのオマヌケPCを叩き起こす。

「おはよう、調子はど……」

──微かにカフカ、二葉亭四迷、おじさん。江戸川乱歩、推理のおじさん。

ほんの少しずつ顔面が蒼白と化していくのを感じる。

「何言ってんだお前……!」

なんなんだ、このおじさんの紹介文は!
しかも、百分の一プラス一文字しか書けていないじゃないか!

クソッタレが!

だがしかしだ。
この俺を誰だと思っている。
舐めるな。
小一時間もあれば三千字など目ではない。

さあ考えろ。
否、考えるな。
三年目の正直だ。
身体で覚えている。
ここはいらない。
こっちだけ動かせ。

何が死へのカウントダウンだ。
見てみろ、四十五分だ。

勝ち誇った顔の指揮官は命令を下す。

A4、白黒、短辺とじ……

「なんでだよ!」

俺の渾身の三千三百三十三文字を黄色い声として出力するな!
ふざけるな、クソッタレが!

俺の胸で白と黒の犬が悲しく泣いている。
ああ……もう時間がない。
急げ、急げ。
タッパーにこびりついた虚勢の残骸をそのままに部屋を飛び出した。

フルスロットルにするエンジンもない二輪に鍵を挿す。

「ああ?!」

パンクしてやがる。

絶対あいつだろ!
夜中にこっそり来てこっそり穴あけてったんだろ!
卑怯だぞ。
いや、あいつって誰だ……

上から下から灼かれながら、走る。
干からびたミミズを避け、ビーチサンダルの足はひた走る。
ここが砂浜ならどんなに良かったことか。
都会のコンクリートジャングルは無情だ。

ああ……オアシスが見える。
否、キャンパスが見える。

さあ、ニケ!
微笑め!
推定自己ベスト更新で辿り着いた俺にその微笑みを……

印刷機の前に大きな影が見える。
なぜだ……
一難去ってまた一難、いいや。
今日は三難去りきらずまた六難は来た。
やめてくれ。
一難去ってもなお難をよこすというのなら、せめて0.3難くらいにしろ。

「邪魔だ……ヘゲモニー……!」

膝を抑え、前髪から滴り落ちる絶望の雫が親指の爪の上で割れるのを俺は見逃さなかった。

肩で喘ぎ続ける。
殺したくば殺せ……
むしろ殺してくれ……

人の形をした不摂生の成れの果てはかろうじて形を保っている程度。

印刷機の番人の如きインテリ眼鏡の前に俺は跪いた。
その後の記憶が……ない。

気付いた時には学食で焼き鯖定食を食おうとしている。

窓の外は依然として青鯖が泳ぐには完璧な青空だ。

青鯖を思いながら焼き鯖をつついては口に運ぶ。
舌の上で脂と途方もない時間が溶けていく。

出したのは大真面目な三千三百三十三文字だというのにどうにもあの朝、ネコの視線に阻まれ不発に終わったものまで出ていった時のような肺の虚脱ですっかりセンチメンタルに浸っている。

……そうだ、あいつに謝りに行こう。

骨だけになった鯖に深々と頭を下げた。

「ごちそう……さま……でした。」

西陽に背を灼かれながら俺は歩いている。
見慣れぬ街、見慣れぬ人、見慣れた夕空。

途中、皮膚面積の多い女とすれ違った気がする。
だが今はそれどころではない。

陽炎のゆらめきに決意まで揺らされる前に、辿り着かねば。

人一人も通れない程の扉の隙間から怯えきった瞳がこちらを見ている。
とてもではないが悪態を連れていては入れない。
俺は余計なものをかなぐり捨てて、その隙間に身体を捩じ込んだ。

奥歯の奥・・・・が疼いた。
同時に、焦げた蛋白質と脂質の残渣の溶け合うのを感じる。

「泣きっ面には蜂が来ちまうよ。だから笑え。」

そう言って笑ったのは俺の方で、あいつは西陽で焼かれた鯖みたいな顔をして、まだまだ震えていた。

それ以降、俺たちは同じ橙色に染まったまま押し黙っていた。

無理矢理手の中に押し込んでやったチョコレートは今頃どうなっているのだろう。

藍色に染まり始めた空の下、青鯖はまだ眠らない。

俺は初志貫徹で、何ひとつ謝れやしないまま。

今になって宿酔に大敗をきす。

──泣きっ面には蜂が来ちまうよ。だから笑え。

ちょっと今夜は、蜂に刺されに行ってきます。


元祖鯖!


モデルになった文豪は誰でしょう?


今日はまた遺書を書かねばならぬレベルの失態ですね。


貝ひもで天を目指そう。



ゆきお様・作
見慣れた慣用句もゆきお様の手にかかれば華麗に姿を変え途端に我々を笑わせてくれます。
それが一体どんな言葉なのか。
その目でご確認あれ!

いいなと思ったら応援しよう!

よもぎ よもぎちゃーん! はーい! 何が好き? ポテトチップスよりも お・ぬ・し

この記事が参加している募集