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靴の中は九回裏二死満塁

「気にしなくていいよ」
その言葉を口にするたびに違和感が募る。

だって、今私の靴下の親指部分とつま先の少し後ろにはわりと大きな穴が空いているのだ。
靴のガサガサした中敷が触れて、なんとなく気分が悪い。
すごく、気になる。

しかもこの靴下、盛大な穴と同等ないしそれ以上に大きな問題を抱えているのだ。

よりにもよって、オレンジとピンクがデスマッチを繰り広げるド派手な配色。
そこに、黄色い犬が鎮座するという壊滅的なデザインである。
さらに悪いのはその黄色い犬が私の足の形に沿うようにしてまるまると太り、悪代官のような顔をしていることだ。
その上その顔は、九回裏二死満塁の二塁で待機中の少年野球チームの佐渡さわたり君の尻くらい汚れている。

これで誰かと休憩が被ったら、靴下の穴のみならず、悪趣味な靴下を履いていることがバレてしまう。
もっと困るのはバイト終わりの飲み会だ。
予約したのが店長だと聞いていたから油断した。
またいつもの焼肉屋だと思っていたら、すぐそこのお座敷タイプの小洒落た和モダン居酒屋だと言うじゃないか。
ずっと気になっていた店だ。
値段も高いから、敷居も高いから、薄給大学生の私には手が届かなかっただけで。

「おい! どう責任とるつもりだよ!」
「はい、申し訳ありません。」
「っとによォ……」

床に散らばる甘い香りのガラス片をかき集めながら、降ってくる怒りを頭で受け止めている。
“店員のミスを絶対に許せない人”のテンプレートの台詞を喋る、絵に描いたような嫌な客。

「お怪我はありませんか?」
「ねえよ! どうせマニュアルに書いてあるんだろ? 客をなだめるためにどうのこうのって! 馬鹿にしやがって……」

図星である。
まあ、一つ間違いがあるとすればマニュアルには

“お客様に目線を合わせ、申し訳なさそうな表情で
「お怪我はありませんか?」
「お洋服のクリーニング代につきましては当店で負担させていただきます。お手数ですが、後日お申し付けください。」
と言います。”

Yomo's Burger

と書いてある。
が、私は今敢えてこいつの顔を見ずに言ってやった。

「俺の目を見ろ!」

ほら、来た。

こちらに接客マニュアルがあるように、客にもマニュアルがあるのではないか?

“店員が泣き出すまで徹底的にやれ”とでも書いてあるのだろう。
誰が屈するものか。

私はあえて、そのまま床を拭き続ける。

さっきからこの客のスタンスミスのエンボス加工のニヤケ顔のおっさんの顔と目が合う。
こいつが怒りで足を十六ビートを刻むたびにおっさんも小刻みに頭を振るものだから、すごく気になる。

そこへ店長がメロンソーダLサイズ氷少なめ・・・・を持ってきた。

「先程は、大変失礼しました。こちら、改めてメロンソーダLサイズ、氷少なめ! でございます。」

そこを強調するな!
店長としては、「俺は味方だ」のつもりだろうが相手は不動明王だ。
燃料を追加してどうする!

変な間があって、客がズーズーと下品な音を立て始めた。

どうせ、氷少なめにすればメロンソーダの量が減らした氷の分増えるとかなんとか思っていたんだろう?
でも増えていない。
グラスの半分より少し上くらいしか入っていない。
そのことが、気になって気になって仕方ないんでしょう?

私は何の罪もないスタンスミスのおじさんに嫌味ったらしくニヤつき返してやった。

私が今こんなにも強気なのは、頭の上から降り続いている怒り元々私宛ではないからである。
これは今、ダスターを握り締めたまま萎縮して立ち尽くしている彼女から借りているものなのだ。
あわよくば借りパクするつもりでいる。

「た……大変申し訳……ございません……」
「おいお前! 申し訳ございませんですみゃあ警察はいらねえんだよ!」
「ごめんなさい……」

いや、申し訳ございませんで済んでも警察は、いる。
申し訳ございませんで済むからといって警察がお払い箱にでもなったら運転免許はどこで更新するんだ?
どこぞの国の大統領がノッシノッシとやってきた時、誰がそいつの前後左右を歩くって言うんだ?

余計なことが気になってしまった。
紅茶好きの警部の影響で。

五分ほど前、メロンソーダをひっくり返して今にも泣きそうな彼女に私は言った。
「気にしなくていいよ」と。

言ってから気がついた。
「気にしなくていい」はあまりに乱暴だったと。

彼女はもう、視線もどこかに行ったままぶるぶる震え、誰にともなく「ごめんなさい」を繰り返している。

それもそうだ。
彼女は、どうしたって自分のミスが気になるのだ。

ミスをした自身への怒り、怒り狂う客への“そこまで言わんでも”と“ごもっとも”と“でもやっぱりそこまで言わんでも”だ。

そして身体がギチギチに固まって動けない自分に代わり、荒ぶる不動明王の如き客の怒りの炎で頭を焼かれながらガラスの残骸を片付ける私への申し訳なさ。

もっとだ。
もっと深いところまで行けばなぜ今日、この時間にシフトを入れてしまったのか。
なぜこの店でバイトなんて始めてしまったのか。 

そんな思いを含めた「ごめんなさい」に私は「気にするな」と言い放った。

とるに足らないもの扱いをしたと受け取られてもいた仕方ない。
しかし、私は無自覚に彼女を傷つけたかもしれない。
なんということを……

ふと目線を斜め上にやると、彼女の視線が彼の胸元あたりに向かっているように見える。

ああ。
この男のファッションだって気になっているに違いない。

パキッとした水色に朱色とはまたちょっと違う曖昧な赤色のボーダーのフルジップパーカーにはデカデカとうさぎがプリントされているのにそこには“BIRD《鳥》”の文字。
そして全く同じボーダーのサルエルパンツ。
どう考えても楳図かずおの亜種としか思えないその風貌。
絶対に、気になる。
少なくとも私は尋常ではなく、気になっている。

うさぎも鳥も“羽”でカウントするから“BIRD”なのだろうか。
気になる。

たかだか八分間ほどの間に、私はいくつの物事を気にしただろうか。
──九個だ。
およそ〇.九秒にひとつ、何かしらが気になっていた。

私の“気になる”がたまたま放射線状にぶっ飛んでいただけで、彼女の“気になる”は全て「ごめんなさい」行きだったのだ。
それを「気にしなくていい」の一言で片付けるのは、やはり、暴力だったのではないだろうか。

また、スタンスミスの立体おじさんと目が合う。

「まあ、気にすんなよ」と言っている。

ガラスの破片を乗せた塵取りと、再起不能のダスターを持ち立ちあがろうとした瞬間、
「気にするわ!」
と口をついて大きな声が出た。


──ガコッ!
ガッシャーーーーン!!!

「何してくれてんだよ!!」
「た……大変失礼しました!!」

私は頭でちゃぶ台返しならぬテーブルひっくり返しをやらかし、店長が気を利かせ先回りして用意してくれた例のメロンソーダLサイズ氷少なめ・・・・を台無しにした。
本日二個目のグラスがつつがなくそのシフトを終えた。
永久に。
生涯客の前に立つことはないだろう。

「それのどこが“つつがなく”なんだ!」
バラバラに散らばるグラスの破片から怒声が聞こえた気がする。
もはや客の声がグラスの声か。

つつがなく終えたかった私のシフトはもちろんつつがなく終わりなどしない。

不動明王の怒りの炎は限界突破し、店は全焼寸前である。
燃え盛る店内で私は王の足元のグラスの破片をかき集めている。

それにしてもこの客、「お気になさらず」の一言も言えんのか!
……すまない、それは言い過ぎた。
そりゃあ怒るわな。

お気に入りの個性派ファッションで外に出て、いかにも身体に悪そうな緑色のお砂糖炭酸水で喉を潤し、限定もののスタンススミスで街を闊歩し世界堂でお買い物!
ちょっと奮発してゼブラのハードGペン買って、原稿用紙はB4メモリ付きのケント紙にしちゃおう!
使うかわかんないけど、蝶々と点描のスクリーントーンも買っちゃおう!
デジタルが主流でも、俺だけはアナログを見捨てないからな!
ドヤァ!

と意気込んでいた矢先の二連続メロンソーダ転倒事件だもの。

いけない。
「気にしないで」の暴力性を提唱したそばから人様に「気にしないで」性の許しを期待するなんて。

そもそも彼が漫画化志望でもなんでもなくて、新人賞十六年連続かすりもしないどころか漫画すら描いていなくて、泣かず飛ばずどころか泣くつもりも飛ばすつもりもないなんてことに頭が回らないなんて。

相手の怒りが自分名義になった途端、私は一気に劣勢になる。
「私」として生きることが一番下手くそなのは何隠そう私自身なのだ。

ああ、なんてことを。
生まれてきてごめんなさい。
ここまで込めての「た……大変失礼しました!!」である。

「私も、やります。」
蛇に睨まれた小動物の如くぶるぶると震えていた彼女が動く。

「ごめんね、ありがとう。」
「気にしないでください。」

そう言って、彼女は私と横並びになりかけらを集め始める。

──この破片は私が割った方だろうか。
──こっちの破片は彼女が割った方だろうか。

なんで私付近にある破片ばかり持っていくんだ?
自分の近くにもたくさんあるのに。

途中から、“ガラス片たくさん集めた人が勝ちゲーム”と化していた。
その様子をスタンスミスのおじさんは終始ニヤけ顔で眺めていた。

私はその後、休憩に入った。
休憩時間の間中、足にリュックを乗せスライド式のガラケーでぽちぽちぽちぽちmixiに愚痴を刻み込む。

スタンスミスのおっさんとにらめっこ頂上決戦をしていたらシフトの前半が終了していた。
客がブチギレワードを発するたび、
「でも、今私の靴下穴空いてますから」
「でも、私の靴下薄汚れてますから」
「でも、靴下の色、マジでやばいですから」
「でも、今私の靴の中で黄色い犬がやばい顔してますから」
って合いの手入れてやった。
マジワシの勝ち。

追憶のmixi

休憩後のシフトは大変平和で、拍子抜けしてもはや全休符のみといった状況で終了し私は意気揚々と飲み会会場へと向かう。
あのずっと気になっていた、小洒落た和モダン居酒屋へ。
三拍子の軽い足取りで。

「おっ! お疲れー!」
一足先に始めている面々を、特に頭の左半分の髪だけがびっくりするくらいつぶれている店長のマヌケな姿に油断して凄まじい勢いで、小洒落た和モダンに似つかわしくない笑い声をあげてしまった。

おっと、と口を抑えて靴を脱ぎいそいそと仲間の元へ歩いていく。

……足の裏にイグサの心地よいひんやりとした細やかな凹凸を感じる。
足の甲に視線が突き刺さっている気がする。
恐る恐る目線を下すとそこには……

オレンジとピンクがデスマッチを繰り広げるド派手なシマシマに、まるまると太った悪代官のような風貌の黄色い犬が九回裏二死満塁の二塁で待機中の少年野球チームの佐渡さわたり君の尻くらい汚れた顔で鎮座している。
その堂々たるや、言葉も出ない。

この言葉が出ないというのは私ではなくバイト仲間及び店長である。

「き……気にしないでください!」
と叫び、以降左足を出しては右足で踏み、右足を出しては左足を踏んだがどちらにも平等に穴が空いている。
世界一しょうもないイタチごっこが私の足元で繰り広げられていた。

一度見てしまったデスマッチ的野球少年の尻風イエロードッグの顔面(ドアップ)を
「気にするな」と言われたとて、無理がある。
それも、私の足のゴロンとした親指丸出しの。

ずっと気になっていたトマトの冷やしおでんも、すだちジュレの味も全く感じられなかった。
最後の砦、つま先の少し後ろの大穴だけは死守しなければと必死だったから。

お会計の時、気前よく伝票を運ぶ店長に「ありがとうございます」と声をかける。
皆へべれけになりながら
「ありがとうございます」とかわるがわる声をかける。

「気にしないで!」
と明るく答える店長。

意気揚々と、全員分の幸福と、
味のしなかった私のトマトの冷やしおでんとすだちジュレの対価を払ってくれた。

でも、私は見逃さなかった。
店長が一瞬、諭吉に惜別の表情を向けたことに。

「気にしないで」の裏にはいつだって壮大なドラマが隠されている。
時に暴力的で、時に悲観的で、時にいじらしい。

私はあえて、気にしなくていい違和感を気にし続けていたいのだ。

深夜、大きな月を眺めた。
まん丸だ。
きっと、満月だろう。
特に送る相手はいないけれど、写真を撮りたくなったから。

mixiのコメント通知が飛び込んでくる。

「あさりのみそしる」
「間違って送信した! 気にしないで!」

……いや、ごめん。
気になる。

すっかり、月を撮ることなど忘れていた。

翌日、あれが満月ではなかったことを知る。

気にも留めなければ気にならないものも、一度でも気になってしまうとどうにも心を掴まれてしまう。

「気になる」が「気になる」。
気になって仕方がない。

私は気になっている。
今日の靴下にも、穴が空いているものだから。

でも、私はもう言わない。
「気にしないで」なんて。

ということを学生時代ヌメェーと思っていた。
ヌメヌメでもぬるっとでもなく、ヌメェーなんだよ。
なんか、ヌメェーとバイト中に。
無限にそう思っていた。
っていう思い出話。

気にするな!


……あ。
言っちまった。


当店では、メロンソーダを消火活動にも使用しております。


当店では神様が接客を担当しております。

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