瓶と缶、そして花──『水辺のつつじ』ep.44
もしも朝ごはんに正解、不正解があるのだとしたら、今日の僕のそれはきっと不正解だ。
家庭科の教科書で見たような一汁三菜──米、焼き鮭、豆腐とわかめの味噌汁……
それからあと何か二品ほど。
これが正解だとすれば、昨日の残りのガトー・ショコラとコーヒーの組み合わせはどう考えても不正解だ。
間違いだと気づきつつも、僕はインスタントコーヒーの瓶の底を叩いている。
マグカップに注いだ湯は、透明なままだった。
まだ当分、近所のスーパーは開かない。
気づけば自動販売機の前に立っていた。
「熱っ……!」
自販機から吐き出されたばかりの缶は異様なまでに熱かった。
転げていく缶を追いかける僕は、何も羽織って来なかったことへの後悔もすっかり忘れていた。
「絵本じゃあるまいし……」
陽が出る前の空の下、僕はまだ走っている。
季節外れのビーチサンダルから紫色の爪が見えた。
まるで空の色を映しとったみたいだ。
雲のない空に僕の惰性が舞い上がっては消える。
疲労性に高まる心拍と、転げる缶を追い廻すおかしさに僕はすっかり笑ってしまった。
誰かの置いた空き缶にぶつかって、缶コーヒーはようやくとまった。
服の袖に指を隠してそれを持ち上げる。
ふと顔を上げると、うつむき加減に咲く花と目があった。
ただの一輪ではない。
それは奥の方までずっと広がっていた。
さすがに嘘だと思った。
僕はまた、夢を見ているのだろうと目をこする。
「もう……瑞樹君? また寝なかったんじゃない?」
彼女の声が聴こえた気がする。
瞬間その花が美しいものからおびただしい数の目玉焼きに変わり、僕はもう耐えられなかった。
──雪中花。
僕は思い出していた。
あの日、彼女は怒っていた。
理由がわからなくて僕は困り果てていた。
そしてあの日も……
「あの……」
庭の角から人影が立ち上がった。
女性が申し訳なさそうに僕の方を向いている。
「ご……ごめんなさい。あ……あのちょっと……」
僕は頬と口角を下げるのに必死だった。
結果的に手で顔を隠すようになっている。
焦りからくる諦めめいたものが僕自身を鳥瞰図的に見せてきて、余計に恥ずかしくなってきた。
「あのこれ、よかったら……」
「え……?」
「笑ってたから。お花、好きなのかなと思って……」
僕は差し出された白い花を受け取った。
真ん中は黄色くて、やっぱり──
「……目玉焼き……みたいだなと思って。」
初対面の人に、何を言っているのだろう。
僕は中空に溶けた息ごと今の言葉も溶け消えてくれればと願った。
「今日の朝ごはん、目玉焼きにしようかな。」
女性はカーディガンの袖で口元をおさえた。
その人は折れてしまったので、と恐縮していたけれど花茎は四十五度の角度で切られ、凛としていた。
部屋に戻った僕は手頃な花瓶を探した。
そんな都合のいいものはこの部屋に存在しなかった。
せめて小さなミルクピッチャーでもあればよかったのだけれど。
そもそも、花瓶すらない部屋にそんな小洒落たものがあるはずもない。
花は僕の体温で萎れ始めている。
僕はひとまず、空になったコーヒーの瓶に挿すことにした。
花は瓶からかろうじて頭を出している。
目玉焼き──ではなく水仙、昨日の夜から出しっぱなしのガトー・ショコラ、缶コーヒーが横一列に並んだ。
なんだか違う気がした。
今度は水仙を真ん中に置いた。
もっと、違う気がした。
ガトー・ショコラを手前に引いて、花を左奥、缶を右奥に置いて、三角形を作る。
お手上げだった。
その花は、居心地が悪そうだった。
僕もそうだ。
──僕はここにいてもいいのかな
この思考は揺るぎなく、いつでも僕につきまとう。家でも、教室でも、眠りに落ちるその瞬間も。
「どんな表情で、どう行動すれば正解ですか?」
その実、「こんなところにいたくない」
そう叫ぶ勇気がなかっただけかもしれない。
「僕はここにいてもいいのかな」
そんな弱々しい言葉に変えて、ふがいなさをごまかしていただけかもしれない。
缶コーヒーはすっかり冷めて、ガトーショコラもぱさぱさだった。
不正解だとばかり思っていた朝ごはんも、だんだんと正解に思えてきた。
水仙の花は水を吸い上げて、瓶の口の上で小首を傾げている。
窓の外を見る。
空はやっと、青くなってきた。
今日も晴れそうだ。
そう思って気分の昂揚している自分に気が付いて、わずかに怖くなった。
部屋にはまだ、ガトー・ショコラの甘ったるい匂いがこもったままだった。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
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ゆきお様・解説
居場所って難しい。
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