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「石元泰博写真展 伝統と近代」@東京オペラシティアートギャラリー

来年の2021年に生誕100年の節目となる写真家・石元泰博。彼の業績を回顧する大規模な展覧会が、東京都写真美術館、東京オペラシティアートギャラリー、高知県立美術館の3館の共同で開催される。東京オペラシティアートギャラリーが「伝統と近代」という副題で作家活動の初期から前半に軸を置いた作品を展示するのに対し、東京都写真美術館では「生命体としての都市」というテーマで中盤から晩年にかけての作品を展示(会期:2020.9.29~11.23)、そしてラストとなる高知県立美術館では集大成となる展覧会が開催される予定だ。

アメリカに生まれ、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス)に学んだ写真家石元泰博(1921-2012)は、対象の構造的、空間的特性を鋭く捉えた作品によって、写真界はもとより、広く建築、デザイン、美術にわたる戦後日本の芸術界に大きなインパクトを与えました。バウハウスの流れを汲む近代的な視点から日本の伝統建築を撮影した桂離宮シリーズ、丹下健三、磯崎新、内藤廣ら同時代の建築家の作品を撮った作品、そしてライフワークとなったシカゴと東京の人と街を捉えた作品など、その成果は内外で高く評価されています。
東京オペラシティアートギャラリーHPより一部抜粋)

 一足先に終了した東京都写真美術館の展示も11月中に観てきた。

東京都写真美術館HP「生命体としての都市」

石元泰博については、”京都の桂離宮(とりわけ石畳)を撮影した人”という知識しか持ち合わせていなかったが、その1シリーズだけでも私に強烈なインパクトを残しており、「いつかまとまって作品を見たい」と思っていたところにこの大回顧展だった。東京都写真美術館の展示では、「シカゴ」「東京」といった都市の様子を映し出したシリーズをはじめ、カラー写真の実験的な作品など、石元の多彩な作品に触れることができた。正直、桂離宮の”厳粛”あるいは”禁欲的”と言っても差し支えない程の緻密な構図の写真のイメージが大きかったので、「シカゴ」や「東京」シリーズにおいて、子供のあどけない姿やくたびれた男性の姿など、生活感のある都市を撮影していたことにそもそも驚いた。とはいえ、そこは石元、高層ビルの壁や車など建築物、造形物の撮影には、本領発揮とも言おうか厳格な画面構成によって都市の一部を切り取る。被写体が人物の時には温かいまなざしを注ぎ、建築や造形物に対して一転、見ているこちらが寒々としてしまう程の冷徹なまなざしが感じられ、両極のような態度が1つのシリーズの中で混在していることが面白かった。
 そして、今度はオペラシティへと臨む。

1.桂離宮ー石元泰博、ここに極まれり

 石元泰博は桂離宮を2回(最初が1953,4年、二度目が1981‐2年)撮影している。本展では最初の1953,4年の頃の作品が展示されていたが、「シカゴ」「東京」シリーズの作品も踏まえた上で、やはり石元を石元たらしめている厳粛な画面構成という点において、本シリーズが最も完成されていたように思う。いや完成され過ぎていた。
 作品を1点1点見ていけば、画面の中に収まっている庭の石、襖、畳、奥へと続く部屋…と写されている物の認識できるのだが、少しでも気が緩むと、3次元の空間が次第に2次元の平面となり、柱、石、苔、梁…といった固有の意味を持っていたはずのモノは、画面を分割する線と面の集合になっていく、一種のゲシュタルト崩壊のような感覚に襲われる。展示室の中央に佇み、本シリーズに囲まれていると、まるでモンドリアンの「コンポジション」シリーズでも見ているかのよう。これは初めての感覚だったのだが、押し花のようだなと感じた。立体的な植物を押しつぶして紙の上に置く押し花は紙のこちら側から押しつぶして紙に貼り付けるが、石元は紙のあちら側(画面の奥)から空間を押しつぶして紙に焼き付けているイメージだ。

 そして「シカゴ」「東京」シリーズでも、建築物をその物の意味から引き離し画面を分割する線と面として扱う手法は見られるが、「桂離宮」シリーズがそれらと一線を画すのは、そこに人の息遣いや喧騒といった”生きた時間”さえも無いからなのだろうと思い至った。東京都写真美術館の副題を借用するなら、「シカゴ」「東京」シリーズのそうした作品があくまでも”生命体”として息づいている中で一瞬息を止めた時の”静止”であるのに対し、「桂離宮」は”静止し続けている”状態なのだ。そもそも静寂の空間である桂離宮が、石元の手によって平面的な構図に収まり、遠近感・奥行さえ失い、紙の平面上に押しつぶされてこちらに迫って来る。それにより観る者に緊張感、息苦しさを感じるほどの静寂さ、厳粛さを与えているのだろう。「石元泰博、ここに極まれり」と言った貫禄を感じさせた。

2.シカゴⅡ、東京Ⅱ、日本の産業ー緊張からの開放

「桂離宮」シリーズの後は、シカゴ、東京のそれぞれ2回目の撮影時のシリーズと、高度経済成長期の各地の工場や発電所などを撮影した「日本の産業」シリーズが展示される。これは展示の順番がかなり効果的だと感じた。基本的に展示は撮影の時系列に沿って展開されているので、時系列順としてしまえばそれまでなのだが、「桂離宮」の息がつまるような厳格な空間から、再びシカゴや東京の”生命体”としての息が感じられる作品群へと変わり、一気に解放された感覚となった。ずっと息を止めてひたすらじっとしてたところから、ようやく「プハーッ」と息を吐き出し呼吸ができるようになった感覚だ。息を止めてた反動から呼吸が活発になるように、高度経済成長で活気づき、どんどんと生産活動を推し進める日本の姿、東大での学生運動など、街全体が息巻いている感じがしてくる。実はここでようやく東京都写真美術館の副題であった”生命体としての都市”という意味を、言葉でなく身体で理解できた気がした。

3.両界曼荼羅ー仏教界の「シカゴ」?

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 今回、圧巻の空間であったのが、京都・東寺(教王護国寺)の国宝《伝真言院曼荼羅》を接写拡大したシリーズで、国立国際美術館所蔵の大型プリント110余点が一挙に公開されている。
 これがねー、面白い!両界曼荼羅と言えば仏の世界の心理を図示した極めて厳密な図であるはずなのだが、「シカゴ」や「東京」シリーズ、また本展では「近代建築」や「周縁から」という地方の暮らしや民族芸能を写した作品などを見てきた後なので、拡大された写真は、まるで仏教界の「シカゴ」かと言わんばかりに、全体からすれば隅っこにいる仏や餓鬼たちの姿が露わになる。両界曼荼羅に対する感想としては不謹慎かもしれないが、『ウォーリーを探せ』的な感覚になってしまうのだ(笑)
 「シカゴ」や「東京」シリーズが喧騒の中から”静寂”を切り出していたのに対し、この「両界曼荼羅」シリーズでは厳粛な”静寂”世界から”喧騒”を炙り出しているのかもしれない。とにかく両界曼荼羅をこれほど愉快な心持ちで観るのは初めての経験だ。

3.食物誌ー二重の圧迫

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 本展での石元のカラー作品は、この「食物誌」シリーズと、イスラムの寺院の空間や文様を捉えた作品だ。イスラムシリーズはスライドによる展示だったので、プリントされた形での展示はこの「食物誌」となる。

あらゆる食材がラップされスーパーに並び、我々の食卓に届けられるようになった1980年代。それらを即物的に捉えた本シリーズからは石元の消費社会批判が読み取れます。             (展覧会HPより抜粋)

 この作品群のもつ迫力はどこから来るのか、鑑賞中には思い至らなかったが、この記事の見出しを作る時にふと頭によぎったのが「二重の圧迫」というフレーズだ。つまり、ラッピングという”第一の圧迫”がある。次に、それを真上から画面いっぱいになるように撮影する、その情緒の無さ(でも生々しさはやけにある)、「桂離宮」でも言及したような立体感(奥行)を押しつぶして平面にする”第二の圧迫”。この二重性によって”物言わぬ圧”が感じられる。ラッピングされている食べ物たちの息苦しさが伝わって来る(既に息はしてないのだが)。

終わりに

後に予定があったため、1時間の鑑賞時間しか確保していなかったが、これは後悔した。もっとじっくりとそれぞれのシリーズを味わいたかったし、映像資料などはほとんど観れなかったので惜しいことをした。また同時開催されている守山友一朗氏の展示も魅力的なので、ざっと2時間は見ておくべきだった。

【project N:守山友一朗】https://www.operacity.jp/ag/exh235.php

あと既に東京都写真美術館での「生命体としての都市」展に行った人は相互割引があるので、チケットをお忘れなく!(これも割引があると知らず非常に後悔した)


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