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悔しくて泣いたりもした「キッチン待ち」の15ヶ月《イルボッカローネ修行時代その1》

こんにちは。chef+(シェフ プラス)の米澤文雄です。

今日は、僕が高校を卒業してすぐ、恵比寿のイタリアンの門をたたき、料理人として修業を始めたときのことを書いてみます。

前の記事はこちら↓




どうしても働きたかったお店に直談判

前回の記事でも少し触れましたが、僕は高校時代にはすでに「料理人になる!」と決めていて、卒業後すぐに現場に飛び込むつもりで準備を進めていました。

その最初の舞台となったのが、日本のイタリアンの草分け的存在ともいえる老舗レストラン「イル・ボッカローネ」

平成元年 (1989年)に恵比寿でオープン以来、イタリア伝統の調理法を守り続け、本場の“古き良きイタリア”を提供することをモットーにしているお店。

「パルミジャーノチーズを器に見立てたリゾット」や「炭焼きTボーンステーキ」を国内のイタリアンで初めて提供したお店でもあったりします。

僕はどうしてもこのお店で働きたくて、思い切って直談判しに行ったんです。そしたら最初は「18歳なんて、まだ子どもでしょ」と断られちゃいました。

「ここまで来て断られるとかマジでない!」と思った僕は、とりあえずなんとか雇ってもらおうと必死に交渉。まだ世間知らずだったのもあって、引き下がるということを知らなかったんです。

その結果「じゃあ一週間だけ様子を見てみよう」とチャンスをもらえることに。18歳なりに精一杯頑張って、そのまま働かせてもらえることになりました。

「キッチン待ち」の15ヶ月

そんなこんなで修業の道を歩み始めた僕ですが、当時はまさに“イタリアン全盛期”。今では考えられないかもしれませんが、キッチンに立ちたい人が多すぎて、すぐには厨房に立たせてもらえませんでした。

キッチンに立ちたかったら、ホールで仕事をしながら空きが出るのを待つ。
早い人で1年、長いと2年。それが当時のいわゆる“キッチン待ち”の文化でした。

僕もお店の人から「ホールの経験は絶対に役に立つよ」と言われて、キッチン待ちを15ヶ月やっています。

とは言っても……新人が最初からホールに出てオーダーを取らせてもらえるわけではありません。僕の初めての仕事はゴミ捨て場の掃除でした。

その他はトイレ掃除、シルバー磨き、ビールの補充やグラスの拭き上げ……
まあ、雑用全般です。 お店の営業時間が始まっても、毎日パンを切るだけ。あとは、下げ物と洗い物。

生半可な気持ちだったら音を上げていたかもしれませんが、食い下がって入れてもらったこともあり、目の前の仕事を必死にこなしました。そもそも、ずっと夢見きてきたレストランでの仕事。初めての経験や学び多くて、何でも面白かったです。

そうしているうちに、19歳になる頃にはホールに出してもらえるようになりました。

初めてのお客様との交流は、ドルチェのオーダーを取りに行く事。僕は人と関わることが好きなので、自分で初めてオーダーが取れた時は嬉しくて、今でもその時のことを鮮明に覚えています。

悔しくて泣いたこともあったけど、楽しかった

ただ、ここからが大変でした。憧れだった店でお客様の前に立ち、一人前仕事をするには、僕はまだまだ知らないこと、できないことがありすぎました。

まず、このお店ではオーダーの全てをイタリア語で伝票に記入する必要がありました。

必死に勉強したイタリア語でなんとかオーダーが取れても、前菜、パスタ・リゾット、そしてメインディッシュとバランスよくオーダーが取れていなかったら、シェフから怒られました。それだけではなくて、パスタがトマトベースの場合、魚料理もトマトベースになったりしていないか? なども。お客様に満足いただけるオーダーに整えるのは、サービスマンの仕事です。色々と、本当に事細かく指摘を受けました。

また、当時のイルボッカローネは、木の桶にその日仕入れた魚を入れて客席に持っていき、魚と調理法を合わせておすすめするスタイルだったのですが、桶に入っている魚が毎日違う。同じ魚でも、時期によってはサイズや味わいが全然違う。

今考えれば当たり前なんですが、魚の種類や特性、状態、そしてそれに対する適切な調理方法をちゃんと知っていないと、お客様に最適なおすすめを提案できないんです。

膨大な情報量に目を白黒させている僕を横目に、当時のホールの先輩達は、サイズから調理法まで、シェフも唸るような、狙い通りに注文を受ける事ができるんです!僕からしたら まさに"神業"。常連のお客さまは、信頼できるサービスマンに注文内容を"お任せ"していたことも。そんな先輩の仕事姿にとても憧れました。

一方の僕は、覚えたてのイタリア語で必死にオーダーを取るので精一杯。一緒に立っている先輩達がすごい分、些細なミスが余計に目立つ。先輩方に「お前は自分で考えて動いてもいい事無いから、動くな!」って言われて、指示通り動かなかったら「突っ立てるんじゃねー!」なんて言われる始末。笑 

それまでの僕は、現場での要領の良さだけには自信があったので「こんなのどうしろっていうんだよ!」と内心毒づきながらも、プライドが傷付いて、めっちゃ凹みました。

悔し涙を流しながらとぼとぼ帰路について、もうなくなっちゃた入谷の中華料理屋でビール飲みながら餃子食べて。家に帰ってイタリア語や料理の本を読んで必死に勉強しながら、そのまま寝落ち。そして次の日、誰よりも早く出勤。

ちなみにこの頃の僕は、お店のスタッフの誰よりも一番早く来て、恵比寿駅最終0:21発の山手線で鶯谷まで帰る。休みは店の定休日の日曜日のみでした。

それでも、辞めたいと思ったことはなかったです。

というのも、この頃には「25歳くらいでどこかのシェフになる!」という目標ができていたこと、そして、お店の先輩達が怒るだけじゃなくて、できた時には褒めてくれたこと。あと、食について新しく学ぶたびに「食っておもしれー!」って感動していて、がむしゃらになれました。

自慢ではないけど、たくさんの人に可愛がってもらいました。唐沢寿明さんは当時月2位で来店されていた常連さん。吉田美和さんの50歳バースデーパーティーもとても楽しかった。

何より、ホールでの仕事を通して、お店全体の流れが分かるようになり、お客様が求めている事やホールスタッフの気持ち、レストランという空気の流れが本当の意味で理解できるようになりました。

これは、料理人として複数の業態の店舗の運営に携わるようになった今、一番役に立っている経験です。大変なんて言葉では言い表せられないくらいの目まぐるしくて刺激的な日々でしたが、この日々が今の僕の根幹をつくっていると胸を張って言い切れます。


次回は、そんながむしゃらに突き進みながらたくさん怒られたりもした僕が、とても印象に残っている「賄いの食べ方」で怒られた話をしてみようと思います。あと、NoCodeがメキシカン・フレンチに変身するのですが、その経緯についても書いていければなと!


P.S. もし僕の古巣「イルボッカローネ」に訪れる機会があれば、シグネチャーのパルミジャーノリゾット、アラカルトからはヤリイカのフリットをおすすめします。もう知っているスタッフはいないのですが、きっと変わらず素敵なお店のはずです!




▶︎ジョージくんとブラウニーのクラファンをやっています


▶︎6/18、19に、青山グランドホテル’Rossi’にて、皆様もご存知、石川県小松市「オーベルジュ オーフ」の糸井シェフと、メキシカンインスパイアのコース料理を、破格の11,000円(※ドリンク代別)で楽しめるイベントをご用意しました。

糸井シェフは、史上最年少で国内最大級の料理人コンペティション「RED U-35」を制し、現在は石川県小松市「オーベルジュ オーフ」のシェフとして、国内外のお客様を相手に腕を振るう若手料理人。

今回は僕も糸井シェフも大好きなメキシカンで。僕はつい先日までメキシコに行っていたので、熱量もアイデア満載!新たに生まれ変わるNoCodeのシェフに就任する米澤の一番弟子、アキノリ(久松)も参戦します。

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(arranged by 菅原きこ



#創作大賞2026 #エッセイ部門

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